智囊 / 威克・蘇不韋
東漢蘇不韋,父謙,嘗為司隸校尉,暠挾私忿論殺。不韋時年十八,載喪歸鄉,瘞而不葬,仰天歎曰:「伍子胥獨何人也!」遂藏母武都山中,變姓名,盡以家財募劍客,邀暠於諸陵間,不值。久之,暠遷大司農。時右校芻廥在寺北垣下,不韋與親從兄弟潛入廥中,夜則鑿地,晝則伏匿,如是則經月,遂達暠寢室。出其牀下,會暠如廁,殺其妾及小兒,留書而去,暠大驚,自是布棘於室,以板籍地,一夕九徙。不韋知其有備,即日夜馳至魏郡,掘其父阜塚,取阜頭以祭父,又標之市曰:「李暠父頭。」暠心痛不敢言,憤恚嘔血死。不韋於是行喪,改葬父。〔馮述評〕郭林父論曰:「子胥猶見用強吳,憑闔閭之威,而蘇子力止匹夫,功隆重千乘,比子胥尤過云。」
新字:東漢蘇不韋,父謙,嘗為司隸校尉,暠挟私忿論殺。不韋時年十八,載喪帰郷,瘞而不葬,仰天嘆曰:「伍子胥独何人也!」遂蔵母武都山中,変姓名,尽以家財募剣客,邀暠於諸陵間,不値。久之,暠遷大司農。時右校芻廥在寺北垣下,不韋与親従兄弟潜入廥中,夜則鑿地,昼則伏匿,如是則経月,遂達暠寝室。出其牀下,会暠如廁,殺其妾及小児,留書而去,暠大驚,自是布棘於室,以板籍地,一夕九徙。不韋知其有備,即日夜馳至魏郡,掘其父阜塚,取阜頭以祭父,又標之市曰:「李暠父頭。」暠心痛不敢言,憤恚嘔血死。不韋於是行喪,改葬父。〔馮述評〕郭林父論曰:「子胥猶見用強呉,憑闔閭之威,而蘇子力止匹夫,功隆重千乗,比子胥尤過云。」
書き下し
東漢の蘇不韋は、父の謙、嘗て司隷校尉と為り、暠、私忿を挟みて論じて之を殺す。不韋は時に年十八、喪を載せて郷に帰り、瘞めて葬らず、天を仰ぎて歎じて曰く、「伍子胥は独り何人ぞや」と。遂に母を武都山中に蔵し、姓名を変え、尽く家財を以て剣客を募り、暠を諸陵の間に邀うるも、値わず。久しくして、暠は大司農に遷る。時に右校の芻廥は寺の北垣の下に在り。不韋は親従の兄弟と潜かに廥中に入り、夜は則ち地を鑿ち、昼は伏匿す。是の如きこと経月、遂に暠の寝室に達す。其の牀の下に出ず。会たま暠は廁に如く。其の妾及び小児を殺し、書を留めて去る。暠大いに驚き、自ら室に棘を布き、板を以て地に籍き、一夕に九たび徙る。不韋は其の備え有るを知り、即日夜に魏郡に馳せ至り、其の父の阜の塚を掘り、阜の頭を取りて以て父に祭る。又た市に標して曰く、「李暠の父の頭」と。暠は心痛むも敢えて言わず、憤恚して血を嘔きて死す。不韋は是に於いて喪を行い、改めて父を葬る。〔馮述評〕郭林父論じて曰く、「子胥は猶お強呉に用いらるるを見、闔閭の威に憑る。而して蘇子は力、匹夫に止まり、功は千乗に隆し。子胥に比して尤も過ぐと云う」と。
現代語訳
後漢の蘇不韋の父の蘇謙は、かつて司隷校尉を務めていたが、李暠が私的な恨みから、罪に論じて殺した。蘇不韋はそのとき十八歳で、棺を載せて故郷に帰ったが、埋めたままで葬儀はせず、天を仰いで嘆いた。「伍子胥は特別な人だったのか」。そして母を武都の山中にかくまい、姓名を変え、家の財産をすべて使って剣客を募り、李暠を諸陵のあたりで待ち伏せたが、会えなかった。しばらくして李暠は大司農に昇進した。そのとき、右校の飼料の倉は役所の北の垣根の下にあった。蘇不韋は親しい従兄弟たちとひそかに倉に入り、夜は地面を掘り、昼は隠れて過ごした。こうして一か月ほどたち、とうとう李暠の寝室に達した。寝台の下に出たとき、李暠はちょうど厠に行っていた。そこで李暠の妾と幼い子を殺し、書き置きを残して去った。李暠は大いに驚き、自分の部屋にとげを敷き、板を地面に敷いて、一晩に九回寝場所を変えた。蘇不韋は備えがあると知り、その日のうちに夜通し魏郡に駆けつけ、李暠の父の李阜の墓を掘り、李阜の首を取って自分の父に供えた。また市場に「李暠の父の首」という札を立てた。李暠は心を痛めたが、あえて何も言えず、怒りで血を吐いて死んだ。蘇不韋はそこで喪に服し、改めて父を葬った。〔馮夢龍の評〕郭林父は論じて言う。「伍子胥は、なお強大な呉に用いられ、闔閭の威に頼ることができた。しかし蘇不韋の力は一介の匹夫にすぎず、その功は千乗の大国を動かすほどだった。子胥よりもまさっていると言える」。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』威克・蘇不韋子猶曰く、「李暠は私忿を戢めず、辱は墓骨に及び、妻子は戮せられ、身も亦た之に随う。天下の笑いと為る。大愚と謂うべし。然れども能く私忿を以て其の父を殺すも、竟に官法を以て其の子を治むる能わざるは、何ぞや。将た侠士は善く蔵れ、始皇の威すら、猶お博浪に行われざるに、況んや他人をや。顧みるに子房の事は秘にして、物色すべき無し。而して茲は書を留め市に標し、顕らかに其の意を行い、得て誰何すること莫し。独り子胥に過ぐるのみならず、且つ子房にも過ぐ。東漢は節義を尚び、或いは其の志節を憐れみて之を庇護せしかも未だ知るべからず。之を要するに、一夫痛みを含めば、報いざれば休まず、死生は急ぐ所に非ず。不韋は真に杰士なるかな」と。楚の悼王薨じ、貴戚大臣乱を作し、呉起を攻む。起は走りて王の屍に之き、之に伏す。起を撃つの徒は因りて起を射て、並びに王の屍に中つ。既に葬られ、肃王位に即き、令尹をして尽く乱を為せる者を誅せしむ。起を坐とせしめて宗を夷す者、七十家。斉の大夫、蘇秦と寵を争い、人をして之を刺さしむるも、死なず。殊まりて走る。斉王は賊を求むるも得ず。蘇秦且に死せんとし、乃ち斉王に謂いて曰く、「臣即し死せば、臣を車裂して以て市に徇し、『蘇秦、斉に乱を作す』と曰え。此の如くなれば、則ち臣の賊は必ず得られん」と。是に於いて其の言の如くすれば、蘇秦を殺せし者は果たして自ら出ず。斉王は因りて之を誅す。起と秦の若きは、身は死するも能く術を以て自ら其の仇に報ゆ。智は更に多とするに足る。
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史記 伍子胥列伝無忌、平王に言ひて曰く、「伍奢に二子有り、皆賢なり、誅せずんば且に楚の憂ひと為らんとす。其の父を質と以て之を召す可し、然らずんば且に楚の患ひと為らんとす」と。王、使ひをして伍奢に謂はしめて曰く、「能く汝の二子を致さば則ち生きん、能はざれば則ち死せん」と。伍奢曰く、「尚の人と為りは仁なり、呼ばば必ず来たらん。員の人と為りは剛戻にして訽を忍び、能く大事を成す。彼、来たらば之れ并せて禽にせらるるを見て、其の勢ひ必ず来たらざらん」と。王聴かず、人をして二子を召さしめて曰く、「来たらば吾汝の父を生かさん、来たらざれば今奢を殺さん」と。伍尚往かんと欲す。員曰く、「楚の我が兄弟を召すは、以て我が父を生かさんと欲するに非ざるなり。脱する者有らば後患ひを生ぜんことを恐れ、故に父を質と為して詐りて二子を召す。二子到れば則ち父子倶に死せん。何ぞ父の死に益せん。往くも讎をして報ずるを得ざらしむるのみ。他国に奔り、力を借りて以て父の恥を雪ぐに如かず、倶に滅ぶるは為す無きなり」と。伍尚曰く、「我往くも終に父の命を全くする能はざるを知る。然れども父我を召し以て生くるを求めて往かずして、後恥を雪ぐ能はず、終に天下の笑ひと為るを恨むのみ」と。員に謂ふ、「去る可し、汝能く父を殺すの讎に報いん、我将に死に帰せん」と。尚既に執らはれに就き、使者、伍胥を捕らふ。伍胥、弓を貫り矢を執りて使者に向かふ。使者敢て進まず、伍胥遂に亡ぐ。太子建の宋に在るを聞き、往きて之に従ふ。奢、子胥の亡ぐるを聞くや、曰く、「楚国の君臣、且に兵に苦しまんとす」と。伍尚楚に至り、楚、并せて奢と尚とを殺す。
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史記 伍子胥列伝之を久しくして、楚の平王、其の辺邑鐘離と呉の辺邑卑梁氏と俱に蠶し、両女子桑を争ひて相ひ攻むるを以て、乃ち大いに怒り、両国兵を挙げて相ひ伐つに至る。呉、公子光をして楚を伐たしめ、其の鐘離・居巣を抜きて帰る。伍子胥、呉王僚に説きて曰く、「楚破る可きなり。願はくは復た公子光を遣せ」と。公子光、呉王に謂ひて曰く、「彼の伍胥の父兄は楚に戮せらる、而して王に楚を伐つを勧むるは、以て自ら其の讎に報いんと欲するのみ。楚を伐つも未だ破る可からざるなり」と。伍胥、公子光に内志有りて、王を殺して自立せんと欲し、未だ外事を以て説く可からざるを知り、乃ち専諸を公子光に進め、退きて太子建の子の勝と野に耕す。
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