智囊 / 詰奸・陳懋仁
陳懋仁《泉南雜誌》云,城中一夕被盜,捕兵實為之。招直巡兩兵,一以左腕,一以胸次,俱帶黑傷而不腫裂,謂賊棍毆,意在抵飾。當事督責司捕,辭甚厲,餘意棍毆處未有不致命且折,亦未有不腫,且裂者。無之,是必贗作,問諸左右曰:「吾鄉有草可作傷色者,爾泉地云何?」答曰:「此名『千里急』。」餘令取搗碎,別涂兩人如其處,少焉成黑,以示兩兵,兩兵愕然,遂得奸狀。自是向道絕,而外客無所容也。〔馮述評〕按《本草》,千里急,一名千里及,藤生道旁籬落間,葉細而厚,味苦平,小有毒,治疫氣結黃症蠱毒,煮汁服取吐下,亦敷蛇犬咬,不入眾藥。此草可染膚黑,如鳳仙花可染指紅也。
新字:陳懋仁《泉南雑誌》云,城中一夕被盗,捕兵実為之。招直巡両兵,一以左腕,一以胸次,倶帯黒傷而不腫裂,謂賊棍殴,意在抵飾。当事督責司捕,辞甚厲,余意棍殴処未有不致命且折,亦未有不腫,且裂者。無之,是必贗作,問諸左右曰:「吾郷有草可作傷色者,爾泉地云何?」答曰:「此名『千里急』。」余令取搗砕,別涂両人如其処,少焉成黒,以示両兵,両兵愕然,遂得奸状。自是向道絶,而外客無所容也。〔馮述評〕按《本草》,千里急,一名千里及,藤生道旁籬落間,葉細而厚,味苦平,小有毒,治疫気結黄症蠱毒,煮汁服取吐下,亦敷蛇犬咬,不入衆薬。此草可染膚黒,如鳳仙花可染指紅也。
書き下し
陳懋仁の《泉南雑誌》に云う、城中一夕盗まれ、捕兵実に之を為せり。直巡の両兵を招くに、一は左腕を以てし、一は胸次を以てし、倶に黒傷を帯びて腫れ裂けず。賊の棍にて殴るなりと謂い、意は抵飾に在り。当事、司捕を督責し、辞は甚だ厲し。余、棍もて殴つ処は未だ命を致して且つ折れざる有らず、亦た未だ腫れて且つ裂けざる有らずと意う。之無きは、是れ必ず贋作ならんと。左右に問いて曰く、「吾が郷に草の傷の色を作るべき者有り。爾が泉の地は云何」と。答えて曰く、「此れを『千里急』と名づく」と。余、取りて搗き砕かしめ、別に両人の其の処の如くに塗れば、少焉にして黒を成す。以て両兵に示せば、両兵愕然として、遂に奸の状を得たり。是より向道絶え、而して外客は容るる所無し。〔馮述評〕《本草》を按ずるに、千里急は一名千里及。藤にして道旁の籬落の間に生ず。葉は細くして厚く、味は苦く平、小毒有り。疫気・結黄・症蠱毒を治す。汁を煮て服せば吐下を取る。亦た蛇犬の咬みを敷く。衆薬には入らず。此の草は膚を黒に染むべし。鳳仙花の指を紅に染むべきが如し。
現代語訳
陳懋仁の《泉南雑誌》に次のように言う。城中で一夜、盗難があり、盗んだのは実は捕吏の兵であった。夜回りの二人の兵を呼び出すと、一人は左腕に、一人は胸に、いずれも黒い傷があったが腫れてもいなければ裂けてもいなかった。賊に棍棒で殴られたと言い、ごまかすつもりであった。担当官は捕吏を厳しく責め、言葉はたいへん激しかった。私は、棍棒で殴った箇所は、命に関わるか折れるかするはずで、腫れて裂けないことはないと考えた。それがないのは、きっと偽物であろうと思った。側近にたずねた。「私の郷里には傷の色を作れる草がある。おまえたちの泉の地ではどうか」。答えた。「これは『千里急』と呼びます」。私は取り寄せて搗き砕かせ、別の二人にその箇所と同じように塗ってみると、しばらくして黒くなった。それを二人の兵に見せると、二人は愕然とし、ついに悪事の様子を得られた。これ以後、道案内をする者が絶え、他所から来る者は身の置き所がなくなった。〔馮夢龍の評〕《本草》によれば、千里急は千里及ともいう。藤で、道端の垣根の間に生える。葉は細くて厚く、味は苦く穏やかで、少し毒がある。疫病、黄疸、腹の虫の毒を治す。汁を煮て飲めば吐き下す。また蛇や犬の咬み傷に貼る。多くの薬には入れない。この草は皮膚を黒く染められる。鳳仙花が指を赤く染められるのと同じである。
解説
この章句が説くこと
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