智囊 / 詰奸・蘇無名
天後時,嘗賜太平公主細器寶物兩食盒,所直黃金百鎰。公主納之藏中,歲餘,盡為盜所得。公主言之,天後大怒,召洛州長史謂曰:「三日不得盜,罪死!」長史懼,謂兩縣主盜官曰:「兩日不得賊,死!」尉謂吏卒、游徼曰:「一日必擒之,擒不得,先死!」吏卒、游徼懼,計無所出。衢中遇湖州別駕蘇無名,素知其能,相與請之至縣。尉降階問計,無名曰:「請與君求對玉階,乃言之。」於是天後問曰:「卿何計得賊?」無名曰:「若委臣取賊,無拘日月,且寬府縣,令不追求,仍以兩縣擒盜吏卒盡以付臣,為陛下取之,亦不出數日耳。」天後許之。無名戒吏卒緩至月餘。值寒食,無名盡召吏卒約曰:「十人五人為侶,於東門北門伺之,見有胡人與黨十餘,皆縗絰相隨出赴北邙者,可踵之而報。」
新字:天後時,嘗賜太平公主細器宝物両食盒,所直黄金百鎰。公主納之蔵中,歳余,尽為盗所得。公主言之,天後大怒,召洛州長史謂曰:「三日不得盗,罪死!」長史懼,謂両県主盗官曰:「両日不得賊,死!」尉謂吏卒、游徼曰:「一日必擒之,擒不得,先死!」吏卒、游徼懼,計無所出。衢中遇湖州別駕蘇無名,素知其能,相与請之至県。尉降階問計,無名曰:「請与君求対玉階,乃言之。」於是天後問曰:「卿何計得賊?」無名曰:「若委臣取賊,無拘日月,且寛府県,令不追求,仍以両県擒盗吏卒尽以付臣,為陛下取之,亦不出数日耳。」天後許之。無名戒吏卒緩至月余。値寒食,無名尽召吏卒約曰:「十人五人為侶,於東門北門伺之,見有胡人与党十余,皆縗絰相随出赴北邙者,可踵之而報。」
書き下し
天后の時、嘗て太平公主に細器・宝物の両食盒を賜う。直する所は黄金百鎰なり。公主之を納めて蔵中に置き、歳余にして、尽く盗の得る所と為る。公主之を言う。天后大いに怒り、洛州の長史を召して謂いて曰く、「三日にして盗を得ずんば、罪は死なり」と。長史懼れ、両県の主盗の官に謂いて曰く、「両日にして賊を得ずんば、死なり」と。尉、吏卒・游徼に謂いて曰く、「一日にして必ず之を擒えよ。擒え得ずんば、先に死なん」と。吏卒・游徼懼れ、計の出づる所無し。衢中に湖州別駕蘇無名に遇う。素より其の能を知り、相与に之を請いて県に至る。尉、階を降りて計を問う。無名曰く、「君と与に玉階に対せんことを求め、乃ち之を言わん」と。是に於いて天后問いて曰く、「卿、何の計もて賊を得んや」と。無名曰く、「若し臣に委ねて賊を取らしめば、日月に拘る無く、且つ府県を寛くし、追い求めしめず、仍お両県の盗を擒うる吏卒を尽く以て臣に付せ。陛下の為に之を取らん。亦た数日を出でざるのみ」と。天后之を許す。無名、吏卒を戒めて緩く至ること月余なり。寒食に値い、無名、尽く吏卒を召して約して曰く、「十人五人を侶と為し、東門・北門に於いて之を伺え。胡人の党十余と与に、皆な縗絰して相随い、出でて北邙に赴く者有るを見ば、之を踵いて報ぜよ」と。
現代語訳
則天武后の時代、かつて太平公主に細工の器物と宝物を入れた二つの食盒を賜った。その価値は黄金百鎰に当たった。公主はそれを蔵に収めておいたが、一年あまり後、すべて盗まれてしまった。公主がそれを武后に告げた。武后は大いに怒り、洛州の長史を呼んで言った。「三日のうちに盗賊を捕らえなければ、罪は死刑である」。長史は恐れ、二つの県の盗賊担当の官に言った。「二日で賊を捕らえなければ、死刑だ」。県尉は、下役や巡察の役人に言った。「一日で必ず捕らえよ。捕らえられなければ、まず私が死ぬ」。下役たちは恐れ、手立てが思いつかなかった。街角で湖州の別駕の蘇無名に出会った。かねてその才能を知っていたので、皆で頼んで県に来てもらった。県尉は階段を降りて計略をたずねた。蘇無名は言った。「あなたとともに、御前に参上することを求めたい。そこで申し上げよう」。そこで武后がたずねた。「卿はどのような計略で賊を捕らえるのか」。蘇無名は言った。「もし私に賊を捕らえるのをお任せくださるなら、日数に制限をつけず、府と県に寛大にして追及させず、さらに両県の盗賊を捕らえる役人たちをすべて私にお預けください。陛下のために賊を捕らえましょう。数日とかからないでしょう」。武后はこれを許した。蘇無名は、役人たちに戒めて、ゆるやかに構えさせること一月あまりであった。寒食の日になり、蘇無名は役人たちを集めて約束した。「十人、五人で組となり、東門と北門で待ち構えよ。異国人の一団十人あまりが、みな喪服を着て連れ立ち、北邙山へ向かって出るのを見たら、その後をつけて知らせよ」。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』集哲・李文姬李固がすでに策免されると、禍を免れぬことを知り、二子を郷里に帰らせた。時に燮は十三歳、姉の文姫は同郡の趙伯英の妻で、賢くて智があった。二兄の帰るのを見て、ことの本末を知り、黙然として独り悲しみ、言った、「李氏は滅びる。太公以来、徳を積み仁を累ねてきたのに、どうしてこのようなことに遭うのか。」密かに二兄と謀り、あらかじめ燮を隠し、京師に還ると托言したので、人は皆これを信じた。ほどなく難が起こり、郡に下って固の三子を捕らえ、二兄は害を受けた。文姫は父の門生王成に告げた、「君は義を執って先公に仕え、古人の節がある。いま六尺の孤を君に託します。李氏の存滅は君にかかっています。」成はその義に感じ、燮を連れて江を下り、徐州の界内に入り、姓名を変えて酒屋の雇人とさせ、自分は市で卜を売った。名は異居としながら、陰で往来し、燮は学を受けた。酒屋の主はこれを怪しみ、尋常の人ではないと思い、娘を燮に妻わせた。燮は経学に専心した。十余年のあいだに梁冀が誅され、災異がしばしば現れ、翌年、史官が上言した、「赦令を出すべきで、また冤死した大臣の子孫を存録すべきです。」ここに天下に大赦し、あわせて固の後嗣を求めた。燮は本末を酒屋の主に告げ、主は車を整えて厚く贈ったが、皆受けなかった。郷里に還り、姉弟は相見えて、悲しみは傍らの人を感動させた。やがて燮を戒めて言った、「先公は正直で、漢の忠臣であったのに、朝廷の傾乱に遭い、梁冀が虐を恣にして、我が宗祀の血食を絶やそうとした。いま弟が幸いに生き延びたのは、天ではないか。衆人との交わりを絶ち、みだりに往来してはならない。慎んで梁氏に一言も加えてはならない。梁氏に加えれば主上に連なり、禍が重ねて至る。ただ咎を引き受けるのみである。」
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『智囊』序・智囊自敘或ひと又た曰く、舜・孔の事は則ち誠に然り。然れども『智囊』なる者は、固より大夫錯の膏もて漢市に焚かれし所以なり。子は何を取らんや。馮子曰く、不、不。錯は智に死せず、愚に死せり。其の坐して兵を談ずるに方たりては、人主色を動かせしも、七国の事起こるに迨びて、乃ち天子をして将たらしめ、己は居守せんと欲す。一たび不智を為せば、讒興りて身滅ぶ。然りと雖も、錯は身を衛るに愚にして、国を籌るに智なり。故に身死して数千年、人猶お之を痛み、名臣に列す。輓鬥宵の流は、身を衛るに偏えに智にして、国を籌るに偏えに愚なり。此を以て彼に較ぶれば、誰か妍にして誰か媸なるか。且つ『智囊』の名、子は其の一を知りて、二を未だ知らざるなり。錯に前んずる者に樗里子有り。錯に後るる者に魯匡・支謙・杜預・桓範・王倹有り。其の皇明に在りては、楊文襄公並びに此の号を擅にす。数君子は、跡は一軌ならざれども、亦た多く功を成し勲を豎て、身は栄え道は泰かなる者有り。子は其の利を捨てて其の害を懲らす。是れ猶お一人の溺るるを睹て、舟楫の用を廃するがごとし。夫れ亦た愈いよ不智なり。或ひと又た曰く、子の『智囊』を述ぶるは、人をして智を学ばしめんとするなり。智は性より生ずるか、紙上に由るか。馮子曰く、吾れ向に固より之を言えり。智は猶お水のごとし。然して地中に蔵するは性なり。鑿ちて之を出だすは学なり。井澗の用は、江河と参す。吾れは夫の人性の土石に錮せらるるを憂え、紙上の言を以て之が畚鍤と為す。応世に廖ゆること有るに庶からんのみ。
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『智囊』靈變・吳郡卒蘇峻の乱に、諸庾は逃げ散る。庾冰は時に呉郡たり、単身にして奔り亡る。吏民は皆去り、ただ郡卒のみ独り小船を以て冰を載せて銭塘の口を出で、蘧蒢を以てこれを覆う。時に峻は賞募して冰の属を覓め、所在の搜括は甚だ急なり。卒は船を市の渚に泊め、酒を飲み酔いて還り、棹を舞わして船に向かいて曰く、「何れの処にか呉郡を覓むる。この中に便ち是れなり」と。冰は大いに驚き怖るるも、敢えて動かず。監司は船小さく装い狭きを見て、卒の狂酔と謂い、都べて復た疑わず。自ら送りて浙江を過ぎ、山陰の魏家に寄せ、免るるを得たり。後に事平らぐや、冰は卒に報いんと欲し、その願う所を問う。卒曰く、「廁下より出で、名器を願わず。少くして執鞭に苦しみ、恒に快く酒を飲むを得ざるを患う。酒をして余年に足らしめば、畢わらん」と。復た須うる所無し。冰は為に大舎を起こし、奴婢を市い、門内に百斛の酒有らしめて、その身を終えさせたり。時に謂う、この卒は唯だ智有るのみならず、且つ亦た生に達すと。
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『智囊』通簡・廉希憲廉希憲は京兆たり。四川宣撫使渾都海反し、西川の将紐鄰奧、魯官は兵を挙げて之に応ぜんとす。蒙古八春は之を獲、其の党五十余人を乾州の獄に係ぎ、二人を京兆に送り、並びに殺さんことを請う。希憲は僚佐に謂いて曰く、「渾都海は勢に乗じて東に来る能わず、他の慮い無きを保す。今、衆志は未だ一ならず、猶お反側を懐く。彼若し其の将校の執囚せらるるを見ば、或いは別に心を生じ、害を為すこと細からず。其の死を懼るるに因りて、並びに皆な寛釈すべし。就ち此の軍の餘丁を発して八春に隸せしむるは、上策なり」と。初め八春は既に諸校を執らえしかば、其の軍は疑懼し、駭乱して四出す。諸校の全きを獲たるを知るに及び、紐鄰奧、魯官は釈さるるを得て、大いに喜びて望みに過ぎ、人人感悦す。八春は果たして精騎数千を得て、将に与に俱に西せんとす。〔馮述評〕八春に隷せしむる所以は、逆め八春の力能く之を制するを知ればなり。漫然として虎を縦ちて患を遺すに非ず。八春は能く之を死にせしめ、希憲は能く之を生かし、畏と感と交々集まり、我が用を為さざるを患えず。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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