智囊 / 詰奸・周忱
周文襄公忱巡撫江南,有一冊曆,自記日行事,纖悉不遺,每日陰晴風雨,亦必詳記。人初不解。一日某縣民告糧船江行失風,公詰其失船為某日午前午後,東風西風,其人所對參錯。公案籍以質,其人驚服。始知公之日記非漫書也。蔣穎叔為江淮發運,嘗於所居公署前立占風旗,使日候之置籍焉。令諸漕綱吏程亦各記風之便逆。每運至,取而合之,責其稽緩者,綱吏畏服。文襄亦有所本。
新字:周文襄公忱巡撫江南,有一冊暦,自記日行事,繊悉不遺,毎日陰晴風雨,亦必詳記。人初不解。一日某県民告糧船江行失風,公詰其失船為某日午前午後,東風西風,其人所対参錯。公案籍以質,其人驚服。始知公之日記非漫書也。蒋穎叔為江淮発運,嘗於所居公署前立占風旗,使日候之置籍焉。令諸漕綱吏程亦各記風之便逆。毎運至,取而合之,責其稽緩者,綱吏畏服。文襄亦有所本。
書き下し
周文襄公忱、江南を巡撫す。一冊の暦有り、自ら日ごとの行事を記し、繊悉も遺さず、毎日の陰晴風雨も亦た必ず詳らかに記す。人は初め解せず。一日、某県の民、糧船の江行して風を失えるを告ぐ。公、其の失船の某日の午前午後、東風西風なるかを詰するに、其の人の対うる所は参錯す。公、籍に案じて以て質せば、其の人驚き服す。始めて知る、公の日記の漫りに書くに非ざるを。蒋穎叔、江淮の発運と為り、嘗て居る所の公署の前に占風旗を立て、日ごとに之を候いて籍に置かしむ。諸の漕綱の吏程をして、亦た各おの風の便逆を記さしむ。運の至る毎に、取りて之を合わせ、其の稽緩する者を責むれば、綱吏畏服す。文襄も亦た本づく所有り。
現代語訳
周文襄公の忱が江南を巡撫していたとき、一冊の日記帳があった。自分で日々の行いを記し、細かいことも漏らさず、毎日の天気、曇りか晴れか、風雨までも必ず詳しく書いていた。人々は最初、その意味がわからなかった。ある日、ある県の民が、食糧を運ぶ船が長江を行く途中で風のために失われたと訴え出た。公は、その船を失ったのは何日の午前か午後か、東風か西風かを問いただしたが、その人の答えは食い違った。公が記録に照らして問い質すと、その人は驚いて服した。そこで初めて、公の日記がでたらめに書かれていたのではないとわかった。蒋穎叔は江淮の発運使であったとき、かつて住んでいる役所の前に風向きを占う旗を立て、毎日それを観察して帳簿に記録させた。また諸々の漕運の役人にも、風が順風か逆風かを記録させた。船団が着くたびに、双方の記録を合わせ、遅れた者を責めると、役人たちは恐れ入って服した。文襄にもまた、もとづく所があったのである。
解説
この章句が説くこと
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