智囊 / 經務・鄭曉時
嘉靖丁巳四月,三殿三樓十五門俱災,文武大臣會議修建。海鹽鄭公曉時協理戎政,率營軍三萬人打掃火焦。鄭公白黃司禮:「磚瓦木石不必盡數發出,如石全者、半者、一尺以上者,各另團圍,就便堆積;白玉石燒成石灰者,亦另堆積;磚瓦皆然。」不數日,工部欲改修端門外廊房為六科並各朝房,午門以裡欲修補燒柱牆缺,又於謹身殿後、乾清宮前,隆宗、景運二門中砌高牆一道,攔斷內外,內監、工部議從外運磚、運灰、運黃土調灰,一時起小車五千輛,民間騷動。公告黃司禮曰:「午門外堆積舊磚石並石灰無數,可盡與工部修端門外廊房;其在午門以內者,可與內監修理柱空,並砌乾清宮前牆。」黃甚喜。公又曰:「修砌必用黃土,今工部起車五千輛,一時不得集,況長安兩門、承天、端門、午門止可容軍夫出入,再加車輛,阻塞難行。見今大工動作,兩闕門外多空地,可挖黃土;用卻,命軍搬焦土填上,用黃土蓋三尺,豈不兩便?」黃曰:「善。」
新字:嘉靖丁巳四月,三殿三楼十五門倶災,文武大臣会議修建。海塩鄭公暁時協理戎政,率営軍三万人打掃火焦。鄭公白黄司礼:「磚瓦木石不必尽数発出,如石全者、半者、一尺以上者,各另団囲,就便堆積;白玉石焼成石灰者,亦另堆積;磚瓦皆然。」不数日,工部欲改修端門外廊房為六科並各朝房,午門以裡欲修補焼柱牆欠,又於謹身殿後、乾清宮前,隆宗、景運二門中砌高牆一道,攔断内外,内監、工部議従外運磚、運灰、運黄土調灰,一時起小車五千輛,民間騷動。公告黄司礼曰:「午門外堆積旧磚石並石灰無数,可尽与工部修端門外廊房;其在午門以内者,可与内監修理柱空,並砌乾清宮前牆。」黄甚喜。公又曰:「修砌必用黄土,今工部起車五千輛,一時不得集,況長安両門、承天、端門、午門止可容軍夫出入,再加車輛,阻塞難行。見今大工動作,両闕門外多空地,可挖黄土;用却,命軍搬焦土填上,用黄土蓋三尺,豈不両便?」黄曰:「善。」
書き下し
嘉靖丁巳四月、三殿・三楼・十五門は俱に災に遭い、文武の大臣会議して修建せんとす。海塩の鄭公暁時、協理戎政たりて、営軍三万人を率い、火焦を打掃す。鄭公、黄司礼に白して曰く、「磚瓦・木石は必ずしも尽く数して発出せず。石の全き者、半ばなる者、一尺以上の者の如きは、各おの別に団囲し、就便して堆積すべし。白玉石の燒けて石灰と成れる者も、亦た別に堆積し、磚瓦も皆な然り」と。数日ならずして、工部は端門外の廊房を改修して六科及び各朝房と為し、午門以裏の燒柱・牆缺を修補せんと欲し、又た謹身殿の後・乾清宮の前、隆宗・景運の二門の中に高牆一道を砌いて内外を攔断せんとし、内監・工部は外より磚を運び、灰を運び、黄土を運びて灰を調えんと議し、一時に小車五千輛を起こし、民間騒動す。公、黄司礼に告げて曰く、「午門外に旧磚石・石灰を堆積すること無数なり。尽く工部に与えて端門外の廊房を修めしむべし。午門以内に在る者は、内監に与えて柱空を修理し、並びに乾清宮前の牆を砌かしむべし」と。黄は甚だ喜ぶ。公は又た曰く、「修砌には必ず黄土を用う。今、工部は車五千輛を起こすも、一時に集まるを得ず。況んや長安の両門、承天・端門・午門は、止だ軍夫の出入を容るるのみ。再び車輛を加うれば、阻塞して行き難し。見今、大工動作し、両闕門の外に空地多し。黄土を挖るべし。用い卻えれば、軍をして焦土を搬して填上せしめ、黄土を用いて蓋うこと三尺なれば、豈に両便ならずや」と。黄曰く、「善し」と。
現代語訳
嘉靖丁巳の年(三十六年)四月、三つの大殿・三つの楼・十五の門が一斉に火災に遭い、文武の大臣が会議して再建を計画した。海塩の鄭暁時公は、軍政を補佐する役にあって、営軍三万人を率いて焼けた残骸を片づけた。鄭公は司礼の黄氏に申し上げた。「磚瓦や木石は、必ずしもすべて数えて運び出さなくてもよろしい。石で完全なもの、半ばのもの、一尺以上のものなどは、それぞれ別に囲って、その場で積み上げておくべきです。白玉石で焼けて石灰になったものも別に積み、磚や瓦も同様にします」。数日たたないうちに、工部は端門外の廊房を改修して六科と各朝房にし、午門の内側の焼けた柱や壁の欠けを補修しようとし、さらに謹身殿の後ろ、乾清宮の前、隆宗・景運の二門の間に高い壁を一本築いて内外を隔てようとして、内監と工部は外から磚を運び、灰を運び、黄土を運んで灰を調合しようと議論し、一時に小車五千輛を動員しようとして、民間が騒いだ。公は黄司礼に告げた。「午門の外には古い磚石や石灰が無数に積んであります。すべて工部に与えて端門外の廊房の修理に使わせるべきです。午門の内側にあるものは、内監に与えて柱の隙間を修理させ、乾清宮前の壁を築かせるべきです」。黄は大いに喜んだ。公はまた言った。「修理には必ず黄土を用います。今、工部は車五千輛を動員しますが、すぐには集まりません。ましてや長安の両門、承天門・端門・午門は、軍夫の出入りだけを許す所です。さらに車を加えれば、ふさがって通れなくなります。今は大工事が行われ、両闕門の外に空地が多い。黄土はそこを掘って取るべきです。使い終えたら、軍に焦土を運ばせて埋め戻し、黄土で三尺ほど覆えば、両方によいではありませんか」。黄は言った。「よろしい」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』經務・鄭曉時公曰く、「午門以裏の台基の壊石は、長安の両門に移し出すこと甚だ遠し。今、厚載門の修砌・剝岸は、若し軍に命じて右順門に搬出し、啓明門の前より下りて北するは甚だ近し。就ち此の石を以て剝岸を作り填堵すれば、工部の估料を減ずるを須いず、但だ軍士の労力を省くのみにても亦た可なり」と。黄又た曰く、「善し」と。公曰く、「旧例では、火焦の木は、軍が琉璃・黒窯の二廠に搬送す。往回四十里なり。今、焦木は皆な長大にして、唯だに皇城の諸門のみ出で難きにあらず、外面の房は稠く路は狭く、行き難く転じ難し。況んや今は災変にして、各門の内臣の小房は、毁れざれば即ち折壊す。必ず修蓋して方に身を容るべし。焦木を左右順門の外、東西の宝善・思善の二門の前後、並びに啓明・長庚の両長街に移し出し、各内臣に聴して焦皮を擘き炭と作さしめ、木心の用うべき者は任便取り去りて、各おの私房を修めしむに若くは莫し。皇城内の物を以て皇城内の房を修め、皇城の四門を出でざれば、亦た財力を省かん」と。黄又た曰く、「善し」と。錦衣の趙千戸、陸錦衣の帖を持ち来たりて言う、「軍士の搬出せる火焦は、俱に長安の両門外、大街の両旁に置く。四夷の朝貢の人の往来するに、見て不雅なり。慶寿寺の西の夾道に深坑あり。火焦を以て填満すべし」と。
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『智囊』經務・鄭曉時公は又た曰く、「奉天門の階沿石は一塊三級、殿上の柱磉の大なる者は方二丈なり。此の如く重大にして、往時の皇城に門限の隔て無く拽ぎ進むべきに比せず。近年、九廟の災に、木石の諸料は進むること能わず、承天門の東牆を拆去して方に進み得たり。今の料は九廟に比して又た三重門を進むれば、尤も力を為し難し。焦土を起開し、旧き階沿・磉石・地面の花板石を、逐一に番転すれば、尚お堅厚にして用うべきものあり。下面を番取し、工を加えて之を用う。殿上の三級の台基及び楼門の台基に至るまで、俱に午門の如く挖補すれば皆な可なり。公、能く力めて此の議を主れば、夫力を省くこと万万、銀糧は何ぞ数百万に至らん。驢騾・車輛も又た幾ばくか知らず。莫大の功徳なり」と。徐は甚だ喜び、後三日に再び議し、悉く前説の如し。
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『智囊』經務・鄭曉時公曰く、「三殿の災は、朝廷已に天下に詔す。如何ぞ不雅と説かん。誰か敢えて朝廷の龍文の磚石を将て罪廃せる太平侯の故宅を填めんや。況んや寿宮の災、九廟の災にも、火焦は皆な長安の両門外に出す。軍士は長安大街より重ねて去りて空にて来たれば、人は並び行くべく、官は照管すべし。若し西の夾道より入れば、必ず寺の東の夾道より出ず。路は一半を多くし、三万人は只だ一万五千人の生活を做し得るのみ。豈に営軍の為に人の坑を填むるものあらんや。且つ火焦は工部に尚お用処あり、木石の料が完わるを待ちて、火焦を取りて路を鋪かんとす。長安の坊牌の下より、直ちに奉天殿の前に填め、五寸を加うる毎に、杵もて碎きて平らかに実し、又た五寸を加え、三尺ばかりに至りて、方に上にて大車・旱船・滾石を行らすべし。然らずんば街道・廊道は皆な壊れん。見今、午門外の東西の脇下に数万担の火焦が積堆す。若し搬出すれば、正に久しからずして又た搬入せんことを慮るのみ」と。趙、複た語るも、公は径ちに出ず。
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『智囊』經務・鄭曉時会議するに、午門の台基及び奉天門・殿楼等の台基・階級・石柱磉・花板・石面は、紛紛として決せず。公は言わんと欲するも、衆の信ぜざるを恐れ、特に大匠の徐杲を造り請教す。杲は匠芸なりと雖も、亦た心から公に服し、即ち左右を屏く。公曰く、「今、三事あり。一に午門の台基は、衆議は前三面を拆去すること一丈、新たに土を築き石を砌かんとす。此の如くすれば、恐らくは今の工作は国初の堅固に及ばず。万一、楼成りて後に旧基は動かず、新基は傾側すれば、費は巨万ならん。只だ台下の亀脚・束腰・墩板等の石を将て、火に焚かれ壊されざる者を除きて之を留め、其の壊れたる者は燼余を鑿ち出し、約深さ一尺五寸、節に新石を做して補入し、内の土を堅からしめ、仍お木杉板を用いて之を障えば、決して圮壊せず。三面を三工に分かてば、一月に過ぎずして完わるべし。唯だ左右の掖門の両旁の須弥座石は最も大にして且つ厚く、換え難し。必ず旁石を換え斉えて後、前の如く鑿ち出し、約深さ二尺五寸にして、新石を做成して垫上し、旧石と空斉し、鉄創を用いて肩進すれば、亦た力を為し易し」と。徐曰く、「善し」と。
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『智囊』經務・徐杲嘉靖の間、上は醮事に勤め、西苑に移幸し、万寿宮を建てて斎居の所と為す。未だ幾ばくならずして、万寿宮は災あり。閣臣は上に乾清宮に還らんことを請う。上は、修玄は宜しく宮闈に近づくべからざるを以て、工部尚書雷礼に諭して工を興して重建せしむ。礼は匠師の徐杲に智ありとして、専ら経営を委ぬ。皆な工部営繕司の原収の贖工等の銀、及び台基・山西二廠の原存の木料、並びに西苑の旧磚・旧石を取り用い、稍や新たにして改用し、並びに各省に派弁せず。其の夫力は則ち歇操の軍夫を以て之に充て、時に犒賞を加え、及び在京の貧寒乞丐の民を雇募して、因りて其の飢えを済う。是を以て中外擾がれず、軍民は踴躍し、功は成り易し。杲は歴升して通政侍郎及び工部尚書の職銜に至る。
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『智囊』經務・賀盛瑞嘉靖中、三殿を修す。中道の階石は長さ三丈、闊さ一丈、厚さ五尺。順天等八府の民夫二万を派し、旱船を造りて拽運す。府県の佐二官を派して之を督せしめ、里ごとに一井を掘り、以て旱舡を澆ぎ、渴飲を資け、二十八日にして京に到るを計る。官民の費は総計して銀十一万両有奇。万暦中、鼎建の両宮の大石も、御史亦た五城の人夫を僉用するの議あり。工部郎中賀盛瑞は、主事郭知易の議を用い、十六輪の大車を造り、騾一千八百頭を用いて拽運し、二十二日にして京に到るを計る。費は七千両に足らず。又た四輪の官車百輛を造り、殷実の戸を召募して之を領せしめ、木石を拽運し、毎日騾を計りて直を給す。其の車価は輛ごとに百金、毎年その運価二十両を扣し、五年を以て率と為し、官銀は固より在り、一民も擾がず。慈寧宮の石礎二十余あり、公、令して工所に運入せしむ。内監は嘩然として旧しと言う。公曰く、「石、安んぞ旧しと言うを得ん。一鑿すれば便ち新たなり。事あらば我自ら当たらん。爾の累ならざるなり」と。
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