智囊 / 經務・鄭曉時
公曰:「午門以裡台基壞石,移出長安兩門甚遠,今厚載門修砌剝岸,若命軍搬出右順門,由啟明門前下北甚近,就以此石作剝岸填堵,不須減工部估料,但省軍士勞力亦可。」黃又曰:「善。」公曰:「舊例,火焦木,軍搬送琉璃、黑窯二廠,往回四十里,今焦木皆長大,不唯皇城諸門難出,外面房稠路狹,難行難轉,況今災變,各門內臣小房,非毀即折壞,必須修蓋,方可容身,莫若將焦木移出左、右順門外,東西寶善、思善二門前後,並啟明、長庚兩長街,聽各內臣擘取焦皮作炭,木心可用者任便取去,各修私房,以皇城內物修皇城內房,不出皇城四門,亦省財力。」黃又曰:「善。」錦衣趙千戶持陸錦衣帖來言:「軍士搬出火焦,俱置長安兩門外,大街兩旁,四夷朝貢人往來,看見不雅,慶壽寺西夾道有深坑,可將火焦填滿。」
新字:公曰:「午門以裡台基壊石,移出長安両門甚遠,今厚載門修砌剥岸,若命軍搬出右順門,由啓明門前下北甚近,就以此石作剥岸填堵,不須減工部估料,但省軍士労力亦可。」黄又曰:「善。」公曰:「旧例,火焦木,軍搬送琉璃、黒窯二廠,往回四十里,今焦木皆長大,不唯皇城諸門難出,外面房稠路狭,難行難転,況今災変,各門内臣小房,非毀即折壊,必須修蓋,方可容身,莫若将焦木移出左、右順門外,東西宝善、思善二門前後,並啓明、長庚両長街,聴各内臣擘取焦皮作炭,木心可用者任便取去,各修私房,以皇城内物修皇城内房,不出皇城四門,亦省財力。」黄又曰:「善。」錦衣趙千戸持陸錦衣帖来言:「軍士搬出火焦,倶置長安両門外,大街両旁,四夷朝貢人往来,看見不雅,慶寿寺西夾道有深坑,可将火焦填満。」
書き下し
公曰く、「午門以裏の台基の壊石は、長安の両門に移し出すこと甚だ遠し。今、厚載門の修砌・剝岸は、若し軍に命じて右順門に搬出し、啓明門の前より下りて北するは甚だ近し。就ち此の石を以て剝岸を作り填堵すれば、工部の估料を減ずるを須いず、但だ軍士の労力を省くのみにても亦た可なり」と。黄又た曰く、「善し」と。公曰く、「旧例では、火焦の木は、軍が琉璃・黒窯の二廠に搬送す。往回四十里なり。今、焦木は皆な長大にして、唯だに皇城の諸門のみ出で難きにあらず、外面の房は稠く路は狭く、行き難く転じ難し。況んや今は災変にして、各門の内臣の小房は、毁れざれば即ち折壊す。必ず修蓋して方に身を容るべし。焦木を左右順門の外、東西の宝善・思善の二門の前後、並びに啓明・長庚の両長街に移し出し、各内臣に聴して焦皮を擘き炭と作さしめ、木心の用うべき者は任便取り去りて、各おの私房を修めしむに若くは莫し。皇城内の物を以て皇城内の房を修め、皇城の四門を出でざれば、亦た財力を省かん」と。黄又た曰く、「善し」と。錦衣の趙千戸、陸錦衣の帖を持ち来たりて言う、「軍士の搬出せる火焦は、俱に長安の両門外、大街の両旁に置く。四夷の朝貢の人の往来するに、見て不雅なり。慶寿寺の西の夾道に深坑あり。火焦を以て填満すべし」と。
現代語訳
公は言った。「午門の内側の台基の壊れた石は、長安の両門に運び出すとなると非常に遠いです。今、厚載門の修理と護岸には、軍に命じて右順門に運び出し、啓明門の前から下って北に行くのがきわめて近い。この石でそのまま護岸を作り埋めれば、工部の見積もりの材料を減らさなくてもよく、ただ兵士の労力を省くだけでも結構なことです」。黄はまた言った。「よろしい」。公は言った。「旧例では、焼けた木は兵が琉璃・黒窯の二つの工場に運びます。往復四十里です。今、焼けた木はみな長大で、皇城の各門から出しにくいだけでなく、外の家屋は密集して道は狭く、通りにくく向きを変えにくい。まして今は災変の時で、各門の宦官の小さな家は、壊れなければ折れてしまっています。必ず修繕して初めて身を寄せられます。焦げた木を左右順門の外、東西の宝善・思善の二門の前後、および啓明・長庚の二つの長い通りに移し出し、宦官たちに焦げた皮をはがして炭にさせ、木の芯で使えるものは自由に持ち去らせ、それぞれの私室を修繕させるのがよいでしょう。皇城内の物で皇城内の家を修理し、皇城の四つの門を出なければ、財力も節約できます」。黄はまた言った。「よろしい」。錦衣衛の趙千戸が、陸錦衣の書付を持ってきて言った。「兵士が運び出した火災の焼け残りは、すべて長安の両門の外の大通りの両側に置かれています。四方の夷の朝貢使が往来するとき、見て体裁が悪い。慶寿寺の西の路地に深い穴があるので、焼け残りで埋めるのがよいでしょう」。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』經務・鄭曉時公曰く、「三殿の災は、朝廷已に天下に詔す。如何ぞ不雅と説かん。誰か敢えて朝廷の龍文の磚石を将て罪廃せる太平侯の故宅を填めんや。況んや寿宮の災、九廟の災にも、火焦は皆な長安の両門外に出す。軍士は長安大街より重ねて去りて空にて来たれば、人は並び行くべく、官は照管すべし。若し西の夾道より入れば、必ず寺の東の夾道より出ず。路は一半を多くし、三万人は只だ一万五千人の生活を做し得るのみ。豈に営軍の為に人の坑を填むるものあらんや。且つ火焦は工部に尚お用処あり、木石の料が完わるを待ちて、火焦を取りて路を鋪かんとす。長安の坊牌の下より、直ちに奉天殿の前に填め、五寸を加うる毎に、杵もて碎きて平らかに実し、又た五寸を加え、三尺ばかりに至りて、方に上にて大車・旱船・滾石を行らすべし。然らずんば街道・廊道は皆な壊れん。見今、午門外の東西の脇下に数万担の火焦が積堆す。若し搬出すれば、正に久しからずして又た搬入せんことを慮るのみ」と。趙、複た語るも、公は径ちに出ず。
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『智囊』經務・鄭曉時公は又た曰く、「奉天門の階沿石は一塊三級、殿上の柱磉の大なる者は方二丈なり。此の如く重大にして、往時の皇城に門限の隔て無く拽ぎ進むべきに比せず。近年、九廟の災に、木石の諸料は進むること能わず、承天門の東牆を拆去して方に進み得たり。今の料は九廟に比して又た三重門を進むれば、尤も力を為し難し。焦土を起開し、旧き階沿・磉石・地面の花板石を、逐一に番転すれば、尚お堅厚にして用うべきものあり。下面を番取し、工を加えて之を用う。殿上の三級の台基及び楼門の台基に至るまで、俱に午門の如く挖補すれば皆な可なり。公、能く力めて此の議を主れば、夫力を省くこと万万、銀糧は何ぞ数百万に至らん。驢騾・車輛も又た幾ばくか知らず。莫大の功徳なり」と。徐は甚だ喜び、後三日に再び議し、悉く前説の如し。
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『智囊』經務・鄭曉時嘉靖丁巳四月、三殿・三楼・十五門は俱に災に遭い、文武の大臣会議して修建せんとす。海塩の鄭公暁時、協理戎政たりて、営軍三万人を率い、火焦を打掃す。鄭公、黄司礼に白して曰く、「磚瓦・木石は必ずしも尽く数して発出せず。石の全き者、半ばなる者、一尺以上の者の如きは、各おの別に団囲し、就便して堆積すべし。白玉石の燒けて石灰と成れる者も、亦た別に堆積し、磚瓦も皆な然り」と。数日ならずして、工部は端門外の廊房を改修して六科及び各朝房と為し、午門以裏の燒柱・牆缺を修補せんと欲し、又た謹身殿の後・乾清宮の前、隆宗・景運の二門の中に高牆一道を砌いて内外を攔断せんとし、内監・工部は外より磚を運び、灰を運び、黄土を運びて灰を調えんと議し、一時に小車五千輛を起こし、民間騒動す。公、黄司礼に告げて曰く、「午門外に旧磚石・石灰を堆積すること無数なり。尽く工部に与えて端門外の廊房を修めしむべし。午門以内に在る者は、内監に与えて柱空を修理し、並びに乾清宮前の牆を砌かしむべし」と。黄は甚だ喜ぶ。公は又た曰く、「修砌には必ず黄土を用う。今、工部は車五千輛を起こすも、一時に集まるを得ず。況んや長安の両門、承天・端門・午門は、止だ軍夫の出入を容るるのみ。再び車輛を加うれば、阻塞して行き難し。見今、大工動作し、両闕門の外に空地多し。黄土を挖るべし。用い卻えれば、軍をして焦土を搬して填上せしめ、黄土を用いて蓋うこと三尺なれば、豈に両便ならずや」と。黄曰く、「善し」と。
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『智囊』經務・鄭曉時会議するに、午門の台基及び奉天門・殿楼等の台基・階級・石柱磉・花板・石面は、紛紛として決せず。公は言わんと欲するも、衆の信ぜざるを恐れ、特に大匠の徐杲を造り請教す。杲は匠芸なりと雖も、亦た心から公に服し、即ち左右を屏く。公曰く、「今、三事あり。一に午門の台基は、衆議は前三面を拆去すること一丈、新たに土を築き石を砌かんとす。此の如くすれば、恐らくは今の工作は国初の堅固に及ばず。万一、楼成りて後に旧基は動かず、新基は傾側すれば、費は巨万ならん。只だ台下の亀脚・束腰・墩板等の石を将て、火に焚かれ壊されざる者を除きて之を留め、其の壊れたる者は燼余を鑿ち出し、約深さ一尺五寸、節に新石を做して補入し、内の土を堅からしめ、仍お木杉板を用いて之を障えば、決して圮壊せず。三面を三工に分かてば、一月に過ぎずして完わるべし。唯だ左右の掖門の両旁の須弥座石は最も大にして且つ厚く、換え難し。必ず旁石を換え斉えて後、前の如く鑿ち出し、約深さ二尺五寸にして、新石を做成して垫上し、旧石と空斉し、鉄創を用いて肩進すれば、亦た力を為し易し」と。徐曰く、「善し」と。
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『智囊』經務・賀盛瑞金剛牆は実土にして、在工の夫は止だ二十余名。二人一筐にして、三五日に非ざれば不可なり。公、令を下して曰く、「多く土を抬ぐること一筐ごとに、銭二文を加う。朱木屑を以て記と為す」と。各夫は飛走し、日を終えずして畢る。錦衣衛、鹵簿を修せんことを題し、費を計ること万金。公は其の濫なるを嫌い、監工の内臣が毁壊せる者を持ち、俱に司に送る。公は之を閲し、謂いて曰く、「此れ諸弁が公の精明を畏れ、此の伎倆を作して以て題中の疏語を実にするのみ。然らずんば、駕閣庫に未だ火を聞かず、而して銅帯は胡ぞ由りて焦げん。旧は宜しく腐るべきに、胡ぞ直ちに断ずること切るが如きや」と。内臣は言の如く以て諸弁を詰め、且つ参せんと言う。諸弁は跪き泣きて免を求め、工完りて敢えて嘩する無し。用いること千に及ばずして、鹵簿は已に煥然たり。永寧長公主の挙殯あり。例として席殿・群房等、約三百余間を搭ぐ。内使は臨行の時に俱に拆去す。公は令して隙地を擇びて搭蓋せしめ、揪棍を以て杉木の纜眼の下に横穿して之を埋め、席は麻繩を用いて連合せしむ。在工の人は、公の作の無益なるを笑わざる無し。殯を訖わるや、内官は果たして来たりて木を取らんとす。木根は牢固にして、席は復た連合し、即ち力を以て繩を断ちて之を取るも易からず、遂に舍てて去る。公は夫匠を呼びて謂いて曰く、「山中に風雨暴至すれど、屋の避くべき無し。大殿の拆つ外、余の小房は汝の輩に留めて宿食を作さしめん。何如」と。眾は僉な曰く、「便なり」と。公曰く、「毎一席の官価は一分五釐なるも、今は只だ七釐を作り、工価に抵てん。拆棚の日には、悉く爾らの将ち去るに聴す。麻を断ちて麻筋に作り、木は回料に作せ。何如」と。眾は又た曰く、「便なり」と。
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『智囊』經務・賀盛瑞嘉靖中、三殿を修す。中道の階石は長さ三丈、闊さ一丈、厚さ五尺。順天等八府の民夫二万を派し、旱船を造りて拽運す。府県の佐二官を派して之を督せしめ、里ごとに一井を掘り、以て旱舡を澆ぎ、渴飲を資け、二十八日にして京に到るを計る。官民の費は総計して銀十一万両有奇。万暦中、鼎建の両宮の大石も、御史亦た五城の人夫を僉用するの議あり。工部郎中賀盛瑞は、主事郭知易の議を用い、十六輪の大車を造り、騾一千八百頭を用いて拽運し、二十二日にして京に到るを計る。費は七千両に足らず。又た四輪の官車百輛を造り、殷実の戸を召募して之を領せしめ、木石を拽運し、毎日騾を計りて直を給す。其の車価は輛ごとに百金、毎年その運価二十両を扣し、五年を以て率と為し、官銀は固より在り、一民も擾がず。慈寧宮の石礎二十余あり、公、令して工所に運入せしむ。内監は嘩然として旧しと言う。公曰く、「石、安んぞ旧しと言うを得ん。一鑿すれば便ち新たなり。事あらば我自ら当たらん。爾の累ならざるなり」と。
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