智囊 / 經務・蘇軾
蘇軾知杭州時,歲適大旱,飢疫並作。軾請於朝,免本路上供米三之一。故米不翔貴;復得賜度僧牒百,易米以救飢者。明年方春,即減價糶常平米,民遂免大旱之苦。杭州江海之地,水泉鹹苦,居民稀少。唐刺史李泌始引西湖水作六井,民足於水,故井邑日富。及白居易復濬西湖,放水入運河,自河入田,取溉至千頃。然湖水多葑,自唐及錢氏,歲輒開治,故湖水足用。宋廢而不理,至是湖中葑積,為田一十五萬餘丈,而水無幾矣。運河失河水之利,則取給於江湖,潮渾濁多淤,河行闤闠中,三年一淘,為市井大患,而六井亦幾廢。軾始至,濬茅山、鹽橋二河,以茅山一河專受江潮,以鹽橋一河專受湖水。
新字:蘇軾知杭州時,歳適大旱,飢疫並作。軾請於朝,免本路上供米三之一。故米不翔貴;復得賜度僧牒百,易米以救飢者。明年方春,即減価糶常平米,民遂免大旱之苦。杭州江海之地,水泉鹹苦,居民稀少。唐刺史李泌始引西湖水作六井,民足於水,故井邑日富。及白居易復濬西湖,放水入運河,自河入田,取溉至千頃。然湖水多葑,自唐及銭氏,歳輒開治,故湖水足用。宋廃而不理,至是湖中葑積,為田一十五万余丈,而水無幾矣。運河失河水之利,則取給於江湖,潮渾濁多淤,河行闤闠中,三年一淘,為市井大患,而六井亦幾廃。軾始至,濬茅山、塩橋二河,以茅山一河専受江潮,以塩橋一河専受湖水。
書き下し
蘇軾、杭州に知たりし時、歳、適ま大旱にして、飢疫並び作る。軾、朝に請い、本路の上供米の三の一を免ぜしむ。故に米は翔貴せず。復た度僧牒百を賜わるを得、米に易えて以て飢うる者を救う。明年、方に春なるに、即ち価を減じて常平米を糶し、民は遂に大旱の苦しみを免る。杭州は江海の地にして、水泉は鹹苦、居民稀少なり。唐の刺史李泌、始めて西湖の水を引きて六井を作り、民は水に足り、故に井邑は日びに富む。白居易に及びて復た西湖を濬い、水を放ちて運河に入れ、河より田に入れ、取り溉ぐこと千頃に至る。然れども湖水に葑多く、唐より銭氏に及ぶまで、歳ごとに輒ち開治し、故に湖水は用に足る。宋に至りて廃して理めず、是に至りて湖中に葑積もり、田と為ること一十五万余丈、而して水は幾ばくも無し。運河は河水の利を失えば、則ち江湖に取給し、潮は渾濁にして淤多く、河は闤闠の中を行き、三年に一たび淘うれば、市井の大患たり、而して六井も亦た幾んど廃す。軾、始めて至り、茅山・塩橋の二河を濬い、茅山の一河を以て専ら江潮を受け、塩橋の一河を以て専ら湖水を受く。
現代語訳
蘇軾が杭州の長官であった時、その年はちょうど大干ばつで、飢饉と疫病が同時に起きた。蘇軾は朝廷に願い出て、この路が納める上供米の三分の一を免除してもらった。そのため米の値は高騰しなかった。さらに度牒(僧の資格証)百通を賜り、米と交換して飢えた者を救った。翌年、春になったばかりのころに、すぐ値を下げて常平倉の米を売り、民は大干ばつの苦しみを免れた。杭州は江と海に近い土地で、水は塩辛く苦く、住民も少なかった。唐の刺史李泌が初めて西湖の水を引いて六つの井戸を作り、民は水に不自由しなくなって、街は日々豊かになった。白居易の時には再び西湖を浚い、水を運河に放ち、河から田に入れ、千頃の田を潤すまでになった。だが湖水には水草の根が多く(葑)、唐から銭氏の時代まで毎年開削して整備したので、湖水は十分役立った。宋代になると放置して手入れせず、この時には湖中に葑が積もって田となり、その面積は十五万余丈、水はほとんど残っていなかった。運河は湖水の恵みを失って長江や湖から水を取るようになり、潮は濁って泥が多く、河は市街の中を通るので、三年に一度浚うのが市民の大きな悩みとなり、六つの井戸もほとんど廃れていた。蘇軾は着任するとまず茅山・塩橋の二つの河を浚い、茅山の河は専ら長江の潮を受け、塩橋の河は専ら湖水を受けるようにした。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾杭は本と江海の地。水泉は鹹苦なり。唐の刺史李泌始めて西湖の水を引きて六井を作る。民水に足れり。白居易に及びて復た西湖を浚え、水を運河に淤ぎ、河より田に入れ、漑ぐ所千頃に至る。然れども湖水は葑多く、久しく開治を廢す。是に至りて積むこと二十五萬餘丈、而して水は幾ばくも無し。運河は湖水の利を失い、給を江潮に取る。潮は濁りて淤多し。河は闤闠の中を行き、三年に一たび淘う。市井の大患と爲る。而して六井も亦た幾ど廢る。
-
『智囊』經務・蘇軾復た堰閘を造り、以て湖水の蓄泄の限と為し、然る後に潮は市に入らず、且つ餘力を以て復た六井を完くし、民は稍や其の利を獲たり。軾、間ま湖上に至り、周く視ること良や久しくして曰く、「今、葑田を去らんと欲するも、将た安くにか之を置かん。湖の南北は三十里、湖を環りて往来すれば、終日にして達せず。若し葑田を取りて湖中に積み、長堤と為して以て南北を通ぜしめば、則ち葑田は去りて行く者は便ならん。呉人は麦を種え、春に輒ち芟除して寸草も遺さず。葑田若し去れば、人を募りて麦を種えしめ、その利を収めて以て修湖に備うれば、則ち湖は当に復た堙塞せざるべし」と。乃ち救荒の余りを取り、銭糧の万石を以て数うるものを得、復た朝に請い、百僧の度牒を得て、以て役者を募る。堤成りて、芙蓉・楊柳を其の上に植え、之を望めば図画の如し。杭人、之を名づけて「蘇公堤」と曰う。〔馮述評〕華亭の宋彦云う、「西湖の蓄水は、専ら以て運河を資くるなり。湖浜には水田多く、春夏の間は旱に苦しみ、秋には又た澇に苦しむ。専ら一司を設け、水利を精究するに若くは莫し。湖は宜しく開広濬深すべし。諸山の水溢るれば則ち能く受け、諸田の旱に苦しめば則ち能く泄ぐ。閘司は又た浅深を俟ちて以て啓閉すれば、則ち運に阻滞無く、而して三輔の内の膏腴は相い望むべし」と。按ずるに、此れは宋人が都城の漕計の為にせしなり。其の実、今日も亦た宜しく之を行うべし。邇来、西湖は漸く淤し、力ある者は業を占むるを喜ぶ。地方に任ずる者は、その終わりを慮らざるべからず。
-
『宋名臣言行録』前集巻七・范仲淹皇祐二年、吴中大いに饑う。殍殣、路に枕す。時に公、浙西を領す。粟を發し及び民を募りて存餉す。術を為すこと甚だ備わる。吳人、競渡を喜び、佛事を為すを好む。公乃ち民の競渡を縱にす。太守、日々に出でて湖上に宴す。春より夏に至るまで、居民、巷を空しくして出遊す。又た諸佛寺の主首を召して之に諭して曰く、饑歳は工價至って賤し。以て大いに土木の役を興す可しと。是に於て諸寺の工作鼎興す。又た敖倉・吏舍を新たにす。日に千夫を役す。監司、杭州の荒政を恤れまず、嬉遊節あらず、及び公私の興造、民力を傷耗するを奏劾す。公乃ち自ら宴遊及び興造する所以を條叙す。皆な有餘の財を發して以て貧者に惠まんと欲す。貿易・飲食・工技・服力の人、公私に食を仰ぐ者、日に慮んぞ數萬人ならざらんや。荒政の施、此より大なるは莫し。是の歳、兩浙、惟だ杭州のみ晏然として、民流徙せず。皆な公の惠なり。
-
『智囊』謬數・范仲淹皇祐二年、呉中大いに飢う。時に范仲淹、浙西を領し、粟を発し及び民を募りて餉を存すること、術為るに甚だ備わる。呉人は競渡を喜び、仏事を為すを好む。仲淹乃ち民の競渡を縦にし、太守は日に出でて湖上に宴す。春自り夏に至るまで、居民は巷を空しくして出遊す。又諸仏寺の主守を召し、之に諭して曰く、「今歳は工価至って賤し。以て大いに土木を興すべし」と。是に於いて諸寺の工作並び興り、又倉廒・吏舎を新たにし、日に千夫を役す。監司、杭州は荒政を恤えず、遊宴興作して財を傷い民を労すと劾奏す。公乃ち条奏す、「此の如き所以は、正に有余の財を発して以て貧者に恵み、工技傭力の人をして、皆公私に仰食することを得しめ、転じて溝壑に徙らざらしめんと欲するのみ」と。是の歳、唯だ杭のみ飢えて害せず。〔述評〕《周礼》荒政十二に、或いは工作を興して以て失業の人を聚むとあり。但だ他人は挙行する能わず、文正のみ之を行う。凡そ出遊する者は、必ず其の力の以て遊ぶに足る者なり。遊ぶ者一人にして、遊に頼りて以て活くる者は、幾十人なるかを知らず。万暦の時、吾が蘇大いに荒れ、当事者は歳の倹なるを以て遊舡を禁ず。富家の児は率ね饌を僧舎に治めて楽しみと為し、而して遊船の数百人は皆業を失い流徙す。時務に通ぜざる者、類ね此の如し。
-
『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾公始めて至りて二河を浚う。茅山の一河を以て江潮を受け、鹽橋の一河を以て湖水を受く。復た堰閘を造りて以て湖水畜洩の限と爲す。然る後に潮市に入らず。且つ餘力を以て復た六井を完うす。又た葑田を取りて湖中に積みて長堤と爲し、以て南北を通ず。人を募りて菱を湖中に種え、其の利を收めて以て湖を修むるに備う。杭人其の堤を名づけて蘇公堤と曰うと云う。
-
『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏越州を通判す。歳饑う。常平の以て賑給するに足らざるを度り、而して田に居り野に處る人は皆城郭に至る能わず。至る者は羣聚して疾癘の虞れ有り。期に前んじて屬縣に喩し、富人を召して其の粟の數を自ら實せしむ。摠て十五萬石を得たり。常平の價を視て稍ミ增して以て民に予う。民便に從いて粟を受くるを得、田里を出でずして食に餘り有り。粟の價爲に平らかとなる。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る