智囊 / 經務・劉本道
先是漕運京糧,唯通州倉臨河近便。自通州抵京倉,陸運四十餘里,費殷而增耗不給;各處赴京操軍,久役用乏。本道慮二者之病,奏將通州倉糧於各月無事之時,令歇操軍旋運至京,每二十石給賞官銀一兩;而漕運之糧止於通州交納,就彼增置倉廒三百間,以便收貯,歲積羨餘米五十餘萬石,以廣京儲。上賜二品服以旌之。〔馮按〕本道常州江陰人,由掾吏受知於靖遠伯王驥,引置幕下,奏授刑部照磨;從征雲南,多用其策。正統中,從金尚書濂征閩賊,活脅從者萬餘,升戶部員外郎。景泰初,西北多事,民不聊生,本道請給價買牛二千頭,並易穀種與之。貴州邊倉糧侵盜事覺,輾轉坐連,推本道往治,不逾月,而積弊洞然。上嘉其廉能,賜五雲彩緞。天順初,進戶部右侍郎,總督京畿及通州、淮安糧儲。本道固以才進,而先輩引賢不拘資格,祖宗用人不偏科目,皆今日所當法也。
新字:先是漕運京糧,唯通州倉臨河近便。自通州抵京倉,陸運四十余里,費殷而增耗不給;各処赴京操軍,久役用乏。本道慮二者之病,奏将通州倉糧於各月無事之時,令歇操軍旋運至京,毎二十石給賞官銀一両;而漕運之糧止於通州交納,就彼增置倉廒三百間,以便収貯,歳積羨余米五十余万石,以広京儲。上賜二品服以旌之。〔馮按〕本道常州江陰人,由掾吏受知於靖遠伯王驥,引置幕下,奏授刑部照磨;従征雲南,多用其策。正統中,従金尚書濂征閩賊,活脅従者万余,升戸部員外郎。景泰初,西北多事,民不聊生,本道請給価買牛二千頭,並易穀種与之。貴州辺倉糧侵盗事覚,輾転坐連,推本道往治,不逾月,而積弊洞然。上嘉其廉能,賜五雲彩緞。天順初,進戸部右侍郎,総督京畿及通州、淮安糧儲。本道固以才進,而先輩引賢不拘資格,祖宗用人不偏科目,皆今日所当法也。
書き下し
先に京糧を漕運するに、唯だ通州倉のみ河に臨みて近便なり。通州より京倉に抵るまで、陸運すること四十余里、費殷にして増耗給せず。各処より京に赴く操軍は、久しく役せられて用乏し。本道は二者の病を慮り、奏して通州倉の糧を各月事無きの時に、歇操の軍をして旋運して京に至らしめ、二十石ごとに賞の官銀一両を給す。而して漕運の糧は通州に交納するに止め、彼に就きて倉廒三百間を増置し、以て収貯に便にす。歳ごとに羨余の米五十余万石を積み、以て京儲を広む。上、二品の服を賜い以て之を旌す。〔馮按〕本道は常州江陰の人。掾吏より靖遠伯王驥に知られ、引きて幕下に置かれ、奏して刑部照磨を授けらる。雲南に従征し、多くその策を用う。正統中、金尚書濂に従いて閩の賊を征し、脅従の者万余を活かし、戸部員外郎に升る。景泰の初め、西北に事多く、民は生を聊んぜず、本道は価を給して牛二千頭を買い、並びに穀種を易えて之に与えんことを請う。貴州の辺倉の糧の侵盗の事覚われ、輾転して坐連す。本道を推して往きて治めしむるに、月を逾えずして積弊洞然たり。上、その廉能を嘉し、五雲の彩緞を賜う。天順の初め、戸部右侍郎に進み、京畿及び通州・淮安の糧儲を総督す。本道は固より才を以て進むも、先輩の賢を引くに資格に拘わらず、祖宗の人を用うるに科目に偏らざるは、皆な今日の当に法るべき所なり。
現代語訳
以前は、都へ送る穀物の漕運は、通州倉だけが河に面して便利だった。通州から京の倉までは陸路で四十里余りあり、費用がかさんで、増える損耗も補いきれなかった。各地から都に来て訓練を受ける兵は、長く使役されて金に困っていた。劉本道は、この二つの弊害を憂え、通州倉の糧を毎月の仕事のない時期に、非番の訓練兵に順に運ばせて都に届けさせ、二十石ごとに官の銀一両を褒賞として与えることを上奏した。そのうえで漕運の穀物は通州に納めるだけにし、そこに倉庫三百間を増設して貯蔵に便利にした。毎年余剰の米五十余万石が積み上がり、都の蓄えを増やした。皇帝は二品の服を賜って彼を表彰した。〔馮夢龍の注〕劉本道は常州江陰の人である。下級役人から靖遠伯王驥に見いだされて幕下に置かれ、上奏により刑部照磨を授かった。雲南の遠征に従軍して多くの策が用いられた。正統年間、尚書金濂に従って福建の賊を討ち、脅されて従った者一万余人を助命し、戸部員外郎に昇った。景泰の初め、西北に事件が多く、民が生活できなくなると、劉本道は代金を支給して牛二千頭を買い、種もみも交換して与えるよう願い出た。貴州の辺境の倉の食糧横領が発覚し、次々に連座者が出た時、劉本道が派遣されて処理にあたり、一か月たたずに積年の弊害がはっきり解明された。皇帝はその清廉と有能さをほめて五色雲の綾絹を賜った。天順の初め、戸部右侍郎に進み、京畿および通州・淮安の食糧貯蔵を総督した。劉本道はもとより才によって昇進したが、先輩が賢者を引き立てるのに資格にこだわらず、祖宗が人を用いるのに科挙の出身に偏らなかったことは、今日にこそ見習うべきことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』文公三年 秦、西戎に覇たり春、莊叔諸侯の師に會して沈を伐つ、其の楚に服するを以ってなり。沈潰ゆ。凡そ民、其の上を逃るるを潰と曰ひ、上に在るを逃と曰ふ。衛侯陳に如く、晉の成を拜するなり。夏四月、乙亥、王叔文公卒す。來りて赴ぐ。弔すること同盟の如くす、禮なり。秦伯晉を伐つ。河を濟りて舟を焚き、王官及び郊を取る。晉人出でず。遂に茅津より濟り、殽の尸を封じて還る。遂に西戎に霸たり、孟明を用ゐればなり。君子是を以って知る、秦の穆公の君為るや、人を舉ぐることの周きなり、人に與することの壹なるなり。孟明の臣為るや、其の解(おこた)らざるなり、能く懼れて思ふなり。子桑の忠なるや、其の人を知るなり、能く善を舉ぐるなり。《詩》に曰く、「于(ここ)に以って蘩を采る、沼に于てし沚に于てす。于に以って之を用ゐる、公侯の事なり」と。秦の穆之れ有り。「夙夜解らず、以って一人に事ふ」と。孟明之れ有り。「厥の孫謀を詒(のこ)し、以って子を燕翼す」と。子桑之れ有り。秋、宋に螽雨る、隊ちて死するなり。楚の師江を圍む。晉の先僕楚を伐ちて以って江を救ふ。冬、晉江の故を以って周に告ぐ。王叔桓公・晉の陽處父、楚を伐ちて、以って江を救ふ。方城に門し、息の公子朱に遇ひて還る。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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『春秋左氏伝』昭公二十八年 唯だ善の在る所之に縣を與ふと雖も、亦た可ならずや。昔武王商に克ち、光(おほ)いに天下を有つ。其の兄弟の國なる者十有五人、姬姓の國なる者四十人、皆親を舉ぐるなり。夫れ舉ぐるに他無し、唯だ善の在る所なり、親疏一なり。詩に曰く、『唯れ此の文王、帝其の心を度(はか)り、其の德音を莫(さだ)む。其の德克く明らかに、克く明らかに克く類し、克く長じ克く君たり。此の大國に王として、克く順ひ克く比す。文王に比(およ)びて、其の德悔い靡し。既に帝の祉を受け、孫子に施す』と。心能く義を制するを度と曰ひ、德正しくして應和するを莫と曰ひ、四方に照臨するを明と曰ひ、勤施して私無きを類と曰ひ、教誨して倦まざるを長と曰ひ、賞慶刑威あるを君と曰ひ、慈和にして遍く服するを順と曰ひ、善を擇びて之に從ふを比と曰ひ、天地を經緯するを文と曰ふ。九德愆(あやま)たず、事を作して悔い無し。故に天祿を襲(う)け、子孫之に賴る。主の舉ぐるや、文德に近し。及ぶ所其れ遠からんかな」と。賈辛將に其の縣に適かんとし、魏子に見ゆ。魏子曰く、「辛來たれ。昔叔向鄭に適く。
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『長短経』論士諺に曰く「浴するは必ずしも江海ならず、之を垢を去るに要む。馬は必ずしも騏驥ならず、之を善く走るに要む。士は必ずしも賢ならざるなり、之を道を知るに要む。女は必ずしも貴種ならず、之を貞好に要む」と。何を以て之を明らかにせん。淳于髠、斉の宣王に謂いて曰く「古者は馬を好む、王も亦た馬を好む。古者は味を好む、王も亦た味を好む。古者は色を好む、王も亦た色を好む。古者は士を好む、王独り好まず」と。王曰く「国に士無きのみ。有らば則ち寡人も亦た之を悦ばん」と。髠曰く「古に驊騮有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は馬を好むなり。古に豹象の胎有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は味を好むなり。古に毛嬙・西施有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は色を好むなり。王、必ず堯舜禹湯の士を待ちて而る後に之を好まば、則ち堯舜禹湯の士も、亦た王を好まざらん」と。
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『長短経』任長管仲曰く「昇降揖譲、進退閑習なるは、臣は隰朋に如かず。請う、立てて以て大行と為せ。土を闢き粟を聚め、地の利を尽くすは、臣は甯戚に如かず。請う、立てて以て司田と為せ。平原広牧、車は轍を結ばず、士は踵を旋らさず、之を鼓して三軍の士、死を視ること帰するが如きは、臣は王子城父に如かず。請う、立てて以て大司馬と為せ。獄を決し中を折り、不辜を殺さず、不罪を誣いざるは、臣は賓胥無に如かず。請う、立てて以て大理と為せ。君の顔色を犯し、諫を進めて必ず忠、死亡を避けず、富貴に撓まざるは、臣は東郭牙に如かず。請う、立てて以て大諫と為せ。君若し国を治め兵を強くせんと欲せば、則ち五子なる者存す。若し覇王たらんと欲せば、則ち夷吾此に在り」と。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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