宋名臣言行録 / 後集巻九・蘇軾
杭本江海之地水泉鹹苦唐刺史李泌始引西湖水作六井民足於水及白居易復浚西湖淤水入運河自河入田所溉至千頃然湖水多葑久廢開治至是積二十五萬餘丈而水無幾矣運河失湖水之利取給於江潮潮濁多淤河行闤闠中三年一淘為市井大患而六井亦幾廢
新字:杭本江海之地水泉鹹苦唐刺史李泌始引西湖水作六井民足於水及白居易復浚西湖淤水入運河自河入田所溉至千頃然湖水多葑久廃開治至是積二十五万余丈而水無幾矣運河失湖水之利取給於江潮潮濁多淤河行闤闠中三年一淘為市井大患而六井亦幾廃
書き下し
杭は本と江海の地。水泉は鹹苦なり。唐の刺史李泌始めて西湖の水を引きて六井を作る。民水に足れり。白居易に及びて復た西湖を浚え、水を運河に淤ぎ、河より田に入れ、漑ぐ所千頃に至る。然れども湖水は葑多く、久しく開治を廢す。是に至りて積むこと二十五萬餘丈、而して水は幾ばくも無し。運河は湖水の利を失い、給を江潮に取る。潮は濁りて淤多し。河は闤闠の中を行き、三年に一たび淘う。市井の大患と爲る。而して六井も亦た幾ど廢る。
現代語訳
杭州はもともと大河と海の土地である。湧き水は塩辛く苦い。唐の刺史李泌がはじめて西湖の水を引いて六つの井戸を作った。民は水に不自由しなくなった。白居易に至ってあらためて西湖を浚え、水を運河に導き、河から田に入れて、灌漑するところは千頃に及んだ。ところが湖の水は水草が多く、長く浚渫が廃されていた。この時に至って積もること二十五万余丈、そして水はいくらも残っていなかった。運河は湖の水の恵みを失い、供給を長江の潮に取った。潮は濁って泥が多い。河は市街のただ中を通り、三年に一度さらう。市中の大きな厄介ごととなった。そして六つの井戸もほとんど廃れていた。
解説
壊れた経緯が、順を追って書かれています。壊したものはありません。**長く浚渫が廃されていた。**やらなかっただけです。そして積もったものが数字になりました。**積もること二十五万余丈、そして水はいくらも残っていなかった。**水が減ると、代わりを潮に求めます。潮は濁っているので、市街を通る河が詰まる。三年に一度さらう羽目になる。手入れを止めた一点から、別の場所に負担が回っていきました。
この章句が説くこと
杭は本と江海の地水泉は鹹苦なり唐の刺史李泌始めて西湖の水を引きて六井を作る然れども湖水は葑多く久しく開治を廃す是に至りて積むこと二十五万余丈而して水は幾ばくも無し放置堆積
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『宋名臣言行録』前集巻七・范仲淹皇祐二年、吴中大いに饑う。殍殣、路に枕す。時に公、浙西を領す。粟を發し及び民を募りて存餉す。術を為すこと甚だ備わる。吳人、競渡を喜び、佛事を為すを好む。公乃ち民の競渡を縱にす。太守、日々に出でて湖上に宴す。春より夏に至るまで、居民、巷を空しくして出遊す。又た諸佛寺の主首を召して之に諭して曰く、饑歳は工價至って賤し。以て大いに土木の役を興す可しと。是に於て諸寺の工作鼎興す。又た敖倉・吏舍を新たにす。日に千夫を役す。監司、杭州の荒政を恤れまず、嬉遊節あらず、及び公私の興造、民力を傷耗するを奏劾す。公乃ち自ら宴遊及び興造する所以を條叙す。皆な有餘の財を發して以て貧者に惠まんと欲す。貿易・飲食・工技・服力の人、公私に食を仰ぐ者、日に慮んぞ數萬人ならざらんや。荒政の施、此より大なるは莫し。是の歳、兩浙、惟だ杭州のみ晏然として、民流徙せず。皆な公の惠なり。
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