宋名臣言行録 / 前集巻七・范仲淹
皇祐二年吴中大饑殍殣枕路時公領浙西發粟及募民存餉為術甚備吳人喜競渡好為佛事公乃縱民競渡太守日出宴于湖上自春至夏居民空巷出遊又召諸佛寺主首諭之曰饑嵗工價至賤可以大興土木之役于是諸寺工作鼎興又新敖倉吏舍日役千夫監司奏劾杭州不恤荒政嬉遊不節及公私興造傷耗民力公乃自條叙所以宴遊及興造皆欲發有餘之財以惠貧者貿易飲食工技服力之人仰食於公私者日無慮數萬人荒政之施莫此為大是嵗兩浙惟杭州晏然民不流徙皆公之惠也
新字:皇祐二年呉中大饑殍殣枕路時公領浙西発粟及募民存餉為術甚備呉人喜競渡好為仏事公乃縦民競渡太守日出宴于湖上自春至夏居民空巷出遊又召諸仏寺主首諭之曰饑歳工価至賤可以大興土木之役于是諸寺工作鼎興又新敖倉吏舎日役千夫監司奏劾杭州不恤荒政嬉遊不節及公私興造傷耗民力公乃自条叙所以宴遊及興造皆欲発有余之財以恵貧者貿易飲食工技服力之人仰食於公私者日無慮数万人荒政之施莫此為大是歳両浙惟杭州晏然民不流徙皆公之恵也
書き下し
皇祐二年、吴中大いに饑う。殍殣、路に枕す。時に公、浙西を領す。粟を發し及び民を募りて存餉す。術を為すこと甚だ備わる。吳人、競渡を喜び、佛事を為すを好む。公乃ち民の競渡を縱にす。太守、日々に出でて湖上に宴す。春より夏に至るまで、居民、巷を空しくして出遊す。又た諸佛寺の主首を召して之に諭して曰く、饑歳は工價至って賤し。以て大いに土木の役を興す可しと。是に於て諸寺の工作鼎興す。又た敖倉・吏舍を新たにす。日に千夫を役す。監司、杭州の荒政を恤れまず、嬉遊節あらず、及び公私の興造、民力を傷耗するを奏劾す。公乃ち自ら宴遊及び興造する所以を條叙す。皆な有餘の財を發して以て貧者に惠まんと欲す。貿易・飲食・工技・服力の人、公私に食を仰ぐ者、日に慮んぞ數萬人ならざらんや。荒政の施、此より大なるは莫し。是の歳、兩浙、惟だ杭州のみ晏然として、民流徙せず。皆な公の惠なり。
現代語訳
皇祐二年、呉中はひどい飢饉になった。飢え死にした者が道に横たわった。当時、公は浙西を統べていた。倉の穀物を出し、民を募って救い養った。その手立てはたいそう行き届いていた。呉の人は競漕を喜び、仏事を行うのを好んだ。公はそこで民に競漕を自由にさせた。太守は毎日出て湖上で宴を張った。春から夏まで、住民は町を空にして遊びに出た。さらに諸寺の住職を呼んで告げて言った。「飢饉の年は職人の賃金が極めて安い。大いに土木の工事を起こすことができる」。そこで諸寺の工事が盛んに興った。さらに倉と役所の建物を新しくした。日に千人を使役した。監察官は、杭州が飢饉の対策を顧みず、遊びに節度がなく、そのうえ公私の建築が民の力を損ない減らしていると弾劾を奏上した。公はそこで自分から、宴遊と建築の理由を条ごとに述べた。どれも余りのある財を出して貧しい者を恵もうとしたものである。売り買い、飲食、職人の技、力仕事の人で、公と私の双方から食を仰いでいる者は、日に数万人を下らなかった。飢饉対策の施しで、これより大きなものはない。この年、両浙でただ杭州だけが穏やかで、民は流れ出なかった。すべて公の恵みであった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』謬數・范仲淹皇祐二年、呉中大いに飢う。時に范仲淹、浙西を領し、粟を発し及び民を募りて餉を存すること、術為るに甚だ備わる。呉人は競渡を喜び、仏事を為すを好む。仲淹乃ち民の競渡を縦にし、太守は日に出でて湖上に宴す。春自り夏に至るまで、居民は巷を空しくして出遊す。又諸仏寺の主守を召し、之に諭して曰く、「今歳は工価至って賤し。以て大いに土木を興すべし」と。是に於いて諸寺の工作並び興り、又倉廒・吏舎を新たにし、日に千夫を役す。監司、杭州は荒政を恤えず、遊宴興作して財を傷い民を労すと劾奏す。公乃ち条奏す、「此の如き所以は、正に有余の財を発して以て貧者に恵み、工技傭力の人をして、皆公私に仰食することを得しめ、転じて溝壑に徙らざらしめんと欲するのみ」と。是の歳、唯だ杭のみ飢えて害せず。〔述評〕《周礼》荒政十二に、或いは工作を興して以て失業の人を聚むとあり。但だ他人は挙行する能わず、文正のみ之を行う。凡そ出遊する者は、必ず其の力の以て遊ぶに足る者なり。遊ぶ者一人にして、遊に頼りて以て活くる者は、幾十人なるかを知らず。万暦の時、吾が蘇大いに荒れ、当事者は歳の倹なるを以て遊舡を禁ず。富家の児は率ね饌を僧舎に治めて楽しみと為し、而して遊船の数百人は皆業を失い流徙す。時務に通ぜざる者、類ね此の如し。
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『宋名臣言行録』後集巻五・趙抃吳越大いに饑え、民の死する者半ばを過ぐ。公救荒の術とする所を盡くす。廩を發き分を勸め、而して家貲を以て之に先んず。生くる者は食を得、病む者は藥を得、死する者は藏るるを得たり。令を下して城を修め、民をして其の力を食ましむ。故に越人饑うと雖も怨まず。
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『智囊』經務・蘇軾蘇軾、杭州に知たりし時、歳、適ま大旱にして、飢疫並び作る。軾、朝に請い、本路の上供米の三の一を免ぜしむ。故に米は翔貴せず。復た度僧牒百を賜わるを得、米に易えて以て飢うる者を救う。明年、方に春なるに、即ち価を減じて常平米を糶し、民は遂に大旱の苦しみを免る。杭州は江海の地にして、水泉は鹹苦、居民稀少なり。唐の刺史李泌、始めて西湖の水を引きて六井を作り、民は水に足り、故に井邑は日びに富む。白居易に及びて復た西湖を濬い、水を放ちて運河に入れ、河より田に入れ、取り溉ぐこと千頃に至る。然れども湖水に葑多く、唐より銭氏に及ぶまで、歳ごとに輒ち開治し、故に湖水は用に足る。宋に至りて廃して理めず、是に至りて湖中に葑積もり、田と為ること一十五万余丈、而して水は幾ばくも無し。運河は河水の利を失えば、則ち江湖に取給し、潮は渾濁にして淤多く、河は闤闠の中を行き、三年に一たび淘うれば、市井の大患たり、而して六井も亦た幾んど廃す。軾、始めて至り、茅山・塩橋の二河を濬い、茅山の一河を以て専ら江潮を受け、塩橋の一河を以て専ら湖水を受く。
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏越州を通判す。歳饑う。常平の以て賑給するに足らざるを度り、而して田に居り野に處る人は皆城郭に至る能わず。至る者は羣聚して疾癘の虞れ有り。期に前んじて屬縣に喩し、富人を召して其の粟の數を自ら實せしむ。摠て十五萬石を得たり。常平の價を視て稍ミ增して以て民に予う。民便に從いて粟を受くるを得、田里を出でずして食に餘り有り。粟の價爲に平らかとなる。
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『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦益利路の人飢うるを以て、體量安撫使と爲る。公至れば則ち税を蠲减して以て人を募りて粟を入れしむ。壯なる者を招募し、等第して刺して以て廂禁軍と爲す。一人軍に充つれば、數口の家、以て全活するを得たり。劒門關に檄して、民の流移して東する者を禁ずる勿からしむ。簡州、食に艱しむこと甚だしと爲す。明道中、災傷を以て嘗て粟を納れしめ、後に糶りし錢十六餘萬、常平に歸す。公曰く、是の錢は乃ち賑濟の餘なり、官緡に非ざるなりと。庫を發きて盡く以て四等以下の戸に給す。貪殘不職の吏を逐い、冗役七百六十人を罷め、饘粥を爲りて飢人一百九十餘萬を活かす。蜀人曰く、使者の來るは、我を更生せしむるなりと。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁久しく旱して雨ふらず。公将來必ず食を闕かんと度る。遂に盡く境内の客舟を籍し、其の主を召して之に諭して曰く、民将に食無からんとす。爾等商販するに唯だ五穀を以てせよ。佛寺の中に貯え、□食を闕く時、吾汝が爲に糶るを主らんと。衆賈命に從い運販すること停まらず。以て春首に至り、蓄うる所は無慮十數萬。諸縣饑うるも獨り境内の民のみ知らざるなり。

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