智囊 / 經務・虞集
〔馮述評〕其後脫脫言:京畿近水地,利召募江南人耕種,歲可收粟麥百餘萬石,不煩海運,京師足食。元主從之,於是立分司農司,以右丞悟良哈台、左丞烏古孫良正兼大司農卿,給分司農司印,西自西山,南至保定、河間,北抵檀順,東及遷民鎮,凡官地及元管各處屯田,悉從分司農司立法佃種,合用工價、牛具、農器、穀種,給鈔五百萬錠。又略仿前集賢學士虞集議,於江、淮召募能種水田及修築圃堰之人各千人,為農師。降空名添設職事敕牒十二道,募農民百人者授正九品,二百人者正八,三百人者從七,就令管領所募之人。所募農夫每人給鈔十錠,期年散歸,遂大稔。何孟春《餘冬序錄》云:「國朝葉文莊公盛巡撫宣府時,修復官牛,官田之法,墾地日廣,積糧日多,以其餘歲易戰馬千八百餘匹。其屯堡廢缺者,咸修復之,不數月,完七百餘所。今邊兵受役權門,終歲勞苦,曾不得占寸地以自衣食,軍儲一切仰給內帑,戰馬之費於太僕者不資,屯堡尚誰修築?悠悠歲月,恐將來之夷禍難支也!」樊升之曰:
新字:〔馮述評〕其後脱脱言:京畿近水地,利召募江南人耕種,歳可収粟麦百余万石,不煩海運,京師足食。元主従之,於是立分司農司,以右丞悟良哈台、左丞烏古孫良正兼大司農卿,給分司農司印,西自西山,南至保定、河間,北抵檀順,東及遷民鎮,凡官地及元管各処屯田,悉従分司農司立法佃種,合用工価、牛具、農器、穀種,給鈔五百万錠。又略仿前集賢学士虞集議,於江、淮召募能種水田及修築圃堰之人各千人,為農師。降空名添設職事勅牒十二道,募農民百人者授正九品,二百人者正八,三百人者従七,就令管領所募之人。所募農夫毎人給鈔十錠,期年散帰,遂大稔。何孟春《余冬序録》云:「国朝葉文荘公盛巡撫宣府時,修復官牛,官田之法,墾地日広,積糧日多,以其余歳易戦馬千八百余匹。其屯堡廃欠者,咸修復之,不数月,完七百余所。今辺兵受役権門,終歳労苦,曽不得占寸地以自衣食,軍儲一切仰給内帑,戦馬之費於太僕者不資,屯堡尚誰修築?悠悠歳月,恐将来之夷禍難支也!」樊升之曰:
書き下し
〔馮述評〕その後、脱脱が言うには、京畿は水に近い地で、江南の人を募って耕作させれば利があり、年に粟麦百余万石を収められ、海運を煩わさずに京師は食に足りる、と。元主はこれに従い、そこで分司農司を立て、右丞悟良哈台、左丞烏古孫良正に大司農卿を兼ねさせ、分司農司の印を与えた。西は西山より、南は保定、河間に至り、北は檀順に抵り、東は遷民鎮に及ぶまで、およそ官地および元の管轄する各地の屯田は、すべて分司農司が法を立てて小作させ、用いるべき工賃・牛具・農器・穀種には、鈔五百万錠を給した。また先の集賢学士虞集の議をおおよそ倣い、江・淮で水田を耕し堰を築ける者を各千人募って農師とした。空名の添設職事の敕牒十二道を下し、農民百人を募る者には正九品、二百人なら正八品、三百人なら従七品を授け、そのまま募った者を管領させた。募った農夫には一人ごとに鈔十錠を給し、一年で解散させたところ、豊作となった。何孟春『餘冬序錄』に曰く、「我が朝の葉文荘公盛が宣府に巡撫した時、官牛・官田の法を修復し、開墾の地は日に広がり、蓄えた糧は日に多く、その余りで毎年戦馬千八百余匹と換えた。屯堡の廃れ欠けていたものも皆修復し、数か月たたぬうちに七百余か所が完成した。今、辺兵は権門に使役され、一年中苦労しながら、わずかな土地も得て自ら衣食することができず、軍の貯えはすべて内帑に頼り、戦馬の費用は太僕にとって計り知れず、屯堡は誰が修築するのか。ぼんやり歳月を過ごせば、将来の夷の禍は支えがたいだろう」と。樊升之曰く、
現代語訳
〔馮夢龍の評〕その後、脱脱が進言した。都に近い水辺の土地に江南の人を募って耕させれば利益があり、毎年粟や麦を百万石余り収穫でき、海運の手間もなく都は食糧に困らなくなる、と。元の君主はこれを受け入れ、分司農司を設置した。右丞の悟良哈台と左丞の烏古孫良正に大司農卿を兼ねさせて印を与えた。西は西山から南は保定・河間、北は檀順、東は遷民鎮までの官有地と各地の既存の屯田は、すべて分司農司が決まりを定めて小作に出し、必要な工賃・牛と農具・種もみのために紙幣五百万錠を支給した。さらに、以前の集賢学士虞集の提案を参考にして、江南・淮河一帯で水田の耕作と堤防築造のできる者を各千人募り、農師とした。名前の空欄の任官証書十二通を発行し、農民百人を集めた者には正九品、二百人なら正八品、三百人なら従七品を与えて、集めた者たちをそのまま統率させた。農夫には一人あたり紙幣十錠を渡し、一年で解散させたところ、大豊作となった。何孟春の『餘冬序錄』には、我が朝の葉盛が宣府で巡撫を務めた時、官牛と官田の制度を立て直し、開墾地は日々広がり、蓄えも増え、余剰で毎年戦馬千八百頭余りと交換し、荒れていた屯堡も数か月で七百か所余り修復した、とある。今は辺境の兵が権力者の家に使われ、一年中苦労しても自分の食い扶持になる土地を持てず、軍の食糧はすべて内廷の金庫頼みで、戦馬の費用も太僕寺には莫大で、屯堡を誰が築くのか。無為に歳月が過ぎれば、将来の異民族の災いは防げなくなるだろう、と嘆いている。樊升之は言う。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』文公三年 秦、西戎に覇たり春、莊叔諸侯の師に會して沈を伐つ、其の楚に服するを以ってなり。沈潰ゆ。凡そ民、其の上を逃るるを潰と曰ひ、上に在るを逃と曰ふ。衛侯陳に如く、晉の成を拜するなり。夏四月、乙亥、王叔文公卒す。來りて赴ぐ。弔すること同盟の如くす、禮なり。秦伯晉を伐つ。河を濟りて舟を焚き、王官及び郊を取る。晉人出でず。遂に茅津より濟り、殽の尸を封じて還る。遂に西戎に霸たり、孟明を用ゐればなり。君子是を以って知る、秦の穆公の君為るや、人を舉ぐることの周きなり、人に與することの壹なるなり。孟明の臣為るや、其の解(おこた)らざるなり、能く懼れて思ふなり。子桑の忠なるや、其の人を知るなり、能く善を舉ぐるなり。《詩》に曰く、「于(ここ)に以って蘩を采る、沼に于てし沚に于てす。于に以って之を用ゐる、公侯の事なり」と。秦の穆之れ有り。「夙夜解らず、以って一人に事ふ」と。孟明之れ有り。「厥の孫謀を詒(のこ)し、以って子を燕翼す」と。子桑之れ有り。秋、宋に螽雨る、隊ちて死するなり。楚の師江を圍む。晉の先僕楚を伐ちて以って江を救ふ。冬、晉江の故を以って周に告ぐ。王叔桓公・晉の陽處父、楚を伐ちて、以って江を救ふ。方城に門し、息の公子朱に遇ひて還る。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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『春秋左氏伝』昭公二十八年 唯だ善の在る所之に縣を與ふと雖も、亦た可ならずや。昔武王商に克ち、光(おほ)いに天下を有つ。其の兄弟の國なる者十有五人、姬姓の國なる者四十人、皆親を舉ぐるなり。夫れ舉ぐるに他無し、唯だ善の在る所なり、親疏一なり。詩に曰く、『唯れ此の文王、帝其の心を度(はか)り、其の德音を莫(さだ)む。其の德克く明らかに、克く明らかに克く類し、克く長じ克く君たり。此の大國に王として、克く順ひ克く比す。文王に比(およ)びて、其の德悔い靡し。既に帝の祉を受け、孫子に施す』と。心能く義を制するを度と曰ひ、德正しくして應和するを莫と曰ひ、四方に照臨するを明と曰ひ、勤施して私無きを類と曰ひ、教誨して倦まざるを長と曰ひ、賞慶刑威あるを君と曰ひ、慈和にして遍く服するを順と曰ひ、善を擇びて之に從ふを比と曰ひ、天地を經緯するを文と曰ふ。九德愆(あやま)たず、事を作して悔い無し。故に天祿を襲(う)け、子孫之に賴る。主の舉ぐるや、文德に近し。及ぶ所其れ遠からんかな」と。賈辛將に其の縣に適かんとし、魏子に見ゆ。魏子曰く、「辛來たれ。昔叔向鄭に適く。
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『長短経』論士諺に曰く「浴するは必ずしも江海ならず、之を垢を去るに要む。馬は必ずしも騏驥ならず、之を善く走るに要む。士は必ずしも賢ならざるなり、之を道を知るに要む。女は必ずしも貴種ならず、之を貞好に要む」と。何を以て之を明らかにせん。淳于髠、斉の宣王に謂いて曰く「古者は馬を好む、王も亦た馬を好む。古者は味を好む、王も亦た味を好む。古者は色を好む、王も亦た色を好む。古者は士を好む、王独り好まず」と。王曰く「国に士無きのみ。有らば則ち寡人も亦た之を悦ばん」と。髠曰く「古に驊騮有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は馬を好むなり。古に豹象の胎有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は味を好むなり。古に毛嬙・西施有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は色を好むなり。王、必ず堯舜禹湯の士を待ちて而る後に之を好まば、則ち堯舜禹湯の士も、亦た王を好まざらん」と。
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『長短経』任長管仲曰く「昇降揖譲、進退閑習なるは、臣は隰朋に如かず。請う、立てて以て大行と為せ。土を闢き粟を聚め、地の利を尽くすは、臣は甯戚に如かず。請う、立てて以て司田と為せ。平原広牧、車は轍を結ばず、士は踵を旋らさず、之を鼓して三軍の士、死を視ること帰するが如きは、臣は王子城父に如かず。請う、立てて以て大司馬と為せ。獄を決し中を折り、不辜を殺さず、不罪を誣いざるは、臣は賓胥無に如かず。請う、立てて以て大理と為せ。君の顔色を犯し、諫を進めて必ず忠、死亡を避けず、富貴に撓まざるは、臣は東郭牙に如かず。請う、立てて以て大諫と為せ。君若し国を治め兵を強くせんと欲せば、則ち五子なる者存す。若し覇王たらんと欲せば、則ち夷吾此に在り」と。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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