智囊 / 經務・李泌
關中土沃而久荒,所收必厚。戍卒獲利,耕者浸多。邊居人至少,軍士月食官糧,粟麥無以售,其價必賤,名為增價,實比今歲所減多矣。」上曰:「,卿言府兵亦集,如何?」對曰:「戍卒因屯田致富,則安於其土,不復思歸。舊制戍卒三年而代,及其將歸,下令有願留者,即以所開田為永業,家人願來者,本貫給長牒,續食而遣之。據募應之數移報本道,雖河朔諸帥,得免代戍之煩,亦喜聞矣。不過數番,卒皆土著,乃悉以府兵之法理之,是變關中之疲弊為富強也。」〔馮述評〕屯田之議始於趙充國,然羌平,遂罷屯田。又置金城屬國以處降羌,則善後之策未盡也。鄴侯因戍卒成屯田,因屯田復府兵,其言鑿鑿可任,不知何以不行。
新字:関中土沃而久荒,所収必厚。戍卒獲利,耕者浸多。辺居人至少,軍士月食官糧,粟麦無以售,其価必賤,名為增価,実比今歳所減多矣。」上曰:「,卿言府兵亦集,如何?」対曰:「戍卒因屯田致富,則安於其土,不復思帰。旧制戍卒三年而代,及其将帰,下令有願留者,即以所開田為永業,家人願来者,本貫給長牒,続食而遣之。拠募応之数移報本道,雖河朔諸帥,得免代戍之煩,亦喜聞矣。不過数番,卒皆土著,乃悉以府兵之法理之,是変関中之疲弊為富強也。」〔馮述評〕屯田之議始於趙充国,然羌平,遂罷屯田。又置金城属国以処降羌,則善後之策未尽也。鄴侯因戍卒成屯田,因屯田復府兵,其言鑿鑿可任,不知何以不行。
書き下し
関中は土沃えて久しく荒れ、収むる所必ず厚し。戍卒利を獲れば、耕す者浸く多し。辺居の人至って少なく、軍士月ごとに官糧を食らえば、粟麦以て售る無く、其の価必ず賤し。名は価を増すと為すも、実は今歳に比べて減ずる所多し」と。上曰く、「卿の言う府兵も亦た集うとは、如何」と。対えて曰く、「戍卒は屯田に因りて富を致さば、則ち其の土に安んじ、復た帰るを思わず。旧制は戍卒三年にして代わる。其の将に帰らんとするに及び、令を下して留まるを願う者有らば、即ち開く所の田を以て永業と為し、家人の来たるを願う者には、本貫に長牒を給し、続食して之を遣わす。募りに応ずるの数に拠りて本道に移報すれば、河朔の諸帥と雖も、代戍の煩いを免るるを得て、亦た喜び聞かん。数番に過ぎずして、卒は皆な土着す。乃ち悉く府兵の法を以て之を理めば、是れ関中の疲弊を変じて富強と為すなり」と。〔馮述評〕屯田の議は趙充国に始まる。然れども羌平らぐや、遂に屯田を罷む。又金城属国を置きて以て降羌を処す、則ち善後の策未だ尽くさざるなり。鄴侯は戍卒に因りて屯田を成し、屯田に因りて府兵を復す。其の言鑿鑿として任ずべし。何を以て行われざるかを知らず。
現代語訳
関中は土地が肥えているのに久しく荒れており、収穫は必ず多いでしょう。守備兵が利益を得れば、耕す者も次第に増えます。辺境に住む人は至って少なく、兵士は毎月官の食糧を食べているため、穀物や麦は売り先がなく、その値は必ず安くなります。名目は価格を上乗せして買い取ることですが、実際には今年よりかなり安くなるのです」。皇帝は言った。「そなたの言う府兵も再び集まるというのは、どういうことか」。答えて言った。「守備兵が屯田によって豊かになれば、その土地に安住し、もう帰ろうと思わなくなります。昔の制度では守備兵は三年で交代しました。帰る時期が近づいた時に、命令を出して、留まりたい者がいれば、開墾した田をそのまま永久の所有とし、家族が来たい者には、本籍地から長期の通行証を与え、食糧を継続して支給して送り出します。応募した人数に従って本道に通知すれば、河朔の諸将も、交代の手間が省けるので、喜んで聞くでしょう。何度か繰り返すうちに、兵は皆土着します。そこで全て府兵の法で統治すれば、これは関中の疲弊を富強に変えることです」。〔馮述評〕屯田の議は趙充国に始まる。しかし羌が平定されると、すぐ屯田をやめた。また金城属国を置いて降伏した羌を収容したが、事後の対策はまだ十分でなかった。鄴侯(李泌)は守備兵によって屯田を成立させ、屯田によって府兵を復活させた。その言葉は確かで実行に耐える。なぜ実施されなかったのかは分からない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』經務・李泌武后より以来、承平日に久しく、武備漸く弛む。開元の末、張説始めて長徴兵を募り、之を弓広騎と謂い、其の後益す六軍と為る。李林甫の相たるに及び、諸軍は皆な人を募りて之を為し、兵は土着せず、又宗族無く、自ら重惜せず、禍乱遂に生ず。徳宗、李泌と議し、旧制に復せんと欲す。泌対えて曰く、「今歳関東の卒を徴して京西を戍る者十七万人、粟二百四万斛を計る。国家比ごろ飢乱に遭い、経費充たず、未だ府兵を復するに暇あらず」と。上曰く、「亟かに戍卒を減じ、之を帰さば、如何」と。対えて曰く、「陛下誠に能く臣の言を用いば、戍卒を減ぜず、百姓を擾さずして、糧食皆な足り、粟麦日に賤く、府兵も亦た成るべし」と。上曰く、「果たして能く是の如きか」と。対えて曰く、「此れ須らく急ぎて之を為すべし。旬月を過ぐれば及ばず。今、吐蕃久しく原、蘭の間に居り、牛を以て糧を運ぶ。糧尽くれば、牛用うる所無し。請う、左蔵の悪繒を発し、染めて采纈と為し、党項に因りて之を市わしめん。毎頭二三匹、十八万匹を計り、六万余頭を致すべし。又諸冶に命じて農器を鋳せしめ、麦種を糴し、分かちて縁辺の軍鎮に賜い、戍卒を募りて荒田を耕して之を種えしめん。明年の麦熟するを約し、倍して其の種を償い、其の余は時価に拠りて五分に一を増し、官は為に糴して貯え、来春の種禾も亦た之の如くせん。
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『智囊』經務・李泌唐制、府兵は平日皆な田畝に安居し、府ごとに折衝有りて之を領す。折衝は農隙を以て戦陣を教習し、国家に事有りて征発すれば、則ち符契を以て其の州及び府に下し、参験して之を発す。期する所の処に至れば、将帥按閲し、教習精しからざる者有れば、則ち其の折衝を罪し、甚だしき者は罪刺史に及ぶ。軍還れば、則ち勲を賜い賞を加え、便道に之を罷む。行く者は近ければ時を逾えず、遠ければ歳を経ず。高宗、劉仁軌を以て洮河鎮守と為し、以て吐蕃を図らしむ。始めて久戍の役有り。
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『新論』守禦(田を授けて之を佃せしむれば、一夫五六石の地税を除けば、亦た以て兵役を給するに足る。今諸国其の制或は此の如き者有り。如し給するに俸米を以てすれば、則ち五六石の税の能く給する所に非ず。五石の入、公四民六を以て之を率すれば、得る所は二石に過ぎず。田無くして二石の米を食めば、其の一家終歳の衣糧を給する能はざること、固より論亡きのみ。故に二石の米は、以て兵に給するに足らず、五石の田は、以て卒を養ふべし。田と米との差、之の如し。)此の如き者は、皆議者の困しむ所なり。今民の利とする所に因りて、之が制を設くれば、則ち其の費省くべくして、民収むべし。田の廃する者は、必ず税重くして地薄き者なり。地の空間なる者は、必ず土瘠せて利少なき者なり。二者要衝の区には多く有らざる所と雖も、浜海の地にも亦た往往之有らずんばあらず。兵卒をして就きて之を佃せしめ、税重き者は或は其の税を除き、利少なき者は或は之に田器及び他の什器を授け、其の土民の募に応じて伍に入る者の如きは、其の田に就きて畝を量りて其の租を除く。是の如くなれば則ち屯田の意用ふべきなり。
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『智囊』經務・徐階〔馮述評〕漢の法の善きは、民は即ち兵、守令は即ち将、故に郡国は自ら能く寇を制す。唐の府兵は、猶お井田の遺法有り、張説の弓広騎に変じてより、兵農始めて分かれ、流れて藩鎮と為り、将校有りて守令無し。宋より以来に迄るまで、無事なれば則ち専ら守令に責め、而るに将校は韜鈐の術を講ぜず、有事なれば則ち専ら将校に責め、而るに守令は帷幄の籌に参ぜず。是れ戦と守と両つながら倶に虚しきなり。徐文貞の此の議は、深く季世の塌冗の弊を究む。階は又た虜の庭を宣、大に移して牧するを念い、虜と雑居し、士卒は耕種するを得ず、米麦は每石の値、中金三両に至り、而るに給する所の月糧は僅かに七鐶、米菽すら且つ継がず。時に畿内の二麦熟し、石の直は四鐶に止まり、時に及びて数十万石を収買す可し。石ごとに費五鐶にして居庸を出で、宣府に抵る可く、費八鐶にして紫荊を出で、大同に抵る可し。大約して之を合計するに、費は金一両に止まり、而して士卒は一月の食に飽く可く、其の地の米麦も、当に亦た漸く平らぐべし。上疏して之を行う。
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『智囊』經務・虞集〔馮述評〕その後、脱脱が言うには、京畿は水に近い地で、江南の人を募って耕作させれば利があり、年に粟麦百余万石を収められ、海運を煩わさずに京師は食に足りる、と。元主はこれに従い、そこで分司農司を立て、右丞悟良哈台、左丞烏古孫良正に大司農卿を兼ねさせ、分司農司の印を与えた。西は西山より、南は保定、河間に至り、北は檀順に抵り、東は遷民鎮に及ぶまで、およそ官地および元の管轄する各地の屯田は、すべて分司農司が法を立てて小作させ、用いるべき工賃・牛具・農器・穀種には、鈔五百万錠を給した。また先の集賢学士虞集の議をおおよそ倣い、江・淮で水田を耕し堰を築ける者を各千人募って農師とした。空名の添設職事の敕牒十二道を下し、農民百人を募る者には正九品、二百人なら正八品、三百人なら従七品を授け、そのまま募った者を管領させた。募った農夫には一人ごとに鈔十錠を給し、一年で解散させたところ、豊作となった。何孟春『餘冬序錄』に曰く、「我が朝の葉文荘公盛が宣府に巡撫した時、官牛・官田の法を修復し、開墾の地は日に広がり、蓄えた糧は日に多く、その余りで毎年戦馬千八百余匹と換えた。屯堡の廃れ欠けていたものも皆修復し、数か月たたぬうちに七百余か所が完成した。今、辺兵は権門に使役され、一年中苦労しながら、わずかな土地も得て自ら衣食することができず、軍の貯えはすべて内帑に頼り、戦馬の費用は太僕にとって計り知れず、屯堡は誰が修築するのか。ぼんやり歳月を過ごせば、将来の夷の禍は支えがたいだろう」と。樊升之曰く、
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『智囊』億中・李泌・李絳李絳、唐の憲宗の朝に在りて、魏博の田季安死し、子の懐諫弱きに値う。李吉甫、兵を興して之を討たんことを請う。絳は以為らく、魏博は必ずしも兵を用いず、当に自ら朝廷に帰すべしと。吉甫、盛んに兵を用いざるべからざるの状を陳ぶ。絳曰く、「臣、竊かに両河の藩鎮の跋扈する者を観るに、皆兵を分かちて以て諸将に隷し、専ら一人に在らしめず。其の権任太だ重くして、間に乗じて己を謀るを恐るるが故なり。諸将は勢い均しく力敵し、相い制する能わず。広く相い連結せんと欲すれば、則ち衆心同じからずして、其の謀は必ず泄る。独り起こりて変を為さんと欲すれば、則ち兵少なく力微にして、勢い必ず成らず。跋扈する者は此れを恃みて以て長策と為す。然れども臣、竊かに之を思うに、若し常に厳明の主帥の、能く諸将の死命を制する者を得て以て之に臨まば、則ち粗ぼ自ら図ること能わん。今、懐諫は乳臭の子にして、自ら聴断する能わず、軍府の大権は、必ず帰する所有らん。諸将の厚薄均しからざれば、怨怒必ず起こる。然らば則ち向日の兵を分かつの策は、適に今日の禍乱の階と為るに足る。田氏は屠肆と為らずんば、則ち悉く俘囚とならん、何ぞ天兵を煩わさんや。但だ願わくは陛下兵を按じて威を養い、諸道に厳敕して、士馬を選びて以て後効を観、賊中をして之を知らしめば、数月に過ぎずして、必ず軍中に自ら効す者有らん。時に至らば、唯だ朝廷の応ずること敏速にして、其の機会に中り、爵禄を愛まずして以て其の人を賞するに在り、両河の藩鎮をして其の麾下の聞きて之に效いて以て朝廷の賞を取らんことを恐れしめば、亦た恐懼して恭慎と為らん。此れ所謂不戦にして人の兵を屈する者なり」と。
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