智囊 / 經務・劉渙・吳潛
治平間,河北凶荒,繼以地震,民無粒食,往往賤賣耕牛,以苟歲月。是時劉渙知澶州,盡發公帑之錢以買牛,明年震搖息,逋民歸,無牛可耕,價騰踴十倍,渙以所買牛,依元直賣與,故河北一路,唯澶州民不失所。先是制置使司歲調明、溫、台三郡民船防定海,戍淮東、京口,船在籍者率多損失。每按籍科調,吏並緣為奸,民甚苦之。吳潛至,立義船法,令三郡都縣各選鄉之有材力者,以主團結。如一都歲調三舟,而有舟者五六十家,則眾辦六舟,半以應命,半以自食其利,有餘貲,俾蓄以備來歲用。凡丈尺有則,印烙有文,調用有時,著為成式。其船專留江滸,不時輪番下海巡綽。船戶各欲保護鄉井,竟出大舟以聽調發,旦日於三江合兵,民船閱之,環海肅然。設永平寨於夜飛山,統以偏校,餉以生券,給以軍艦,使漁戶有籍而行旅無虞。設向頭寨,外防倭麗,內蔽京師。又立烽燧,分為三路,皆發軔於招寶山,一達大洋壁下山,一達向頭寨,一達本府看教亭。從亭密傳一牌,竟達轅帳,而沿江沿海,號火疾馳,觀者悚惕。〔馮述評〕海上如此聯絡佈置,使鯨波蛟穴之地如在幾席,呼吸相通,何寇之敢乘?
新字:治平間,河北凶荒,継以地震,民無粒食,往往賤売耕牛,以苟歳月。是時劉渙知澶州,尽発公帑之銭以買牛,明年震揺息,逋民帰,無牛可耕,価騰踴十倍,渙以所買牛,依元直売与,故河北一路,唯澶州民不失所。先是制置使司歳調明、温、台三郡民船防定海,戍淮東、京口,船在籍者率多損失。毎按籍科調,吏並縁為奸,民甚苦之。呉潜至,立義船法,令三郡都県各選郷之有材力者,以主団結。如一都歳調三舟,而有舟者五六十家,則衆辦六舟,半以応命,半以自食其利,有余貲,俾蓄以備来歳用。凡丈尺有則,印烙有文,調用有時,著為成式。其船専留江滸,不時輪番下海巡綽。船戸各欲保護郷井,竟出大舟以聴調発,旦日於三江合兵,民船閲之,環海粛然。設永平寨於夜飛山,統以偏校,餉以生券,給以軍艦,使漁戸有籍而行旅無虞。設向頭寨,外防倭麗,内蔽京師。又立烽燧,分為三路,皆発軔於招宝山,一達大洋壁下山,一達向頭寨,一達本府看教亭。従亭密伝一牌,竟達轅帳,而沿江沿海,号火疾馳,観者悚惕。〔馮述評〕海上如此聯絡佈置,使鯨波蛟穴之地如在幾席,呼吸相通,何寇之敢乗?
書き下し
治平の間、河北は凶荒にして、継ぐに地震を以てし、民は粒食無く、往往にして耕牛を賤売して以て歳月を苟す。是の時、劉渙、澶州を知し、尽く公帑の銭を発して以て牛を買う。明年、震揺息み、逋民帰る。牛の耕すべき無く、価は騰踴すること十倍なり。渙、買う所の牛を以て、元の直に依りて売与す。故に河北一路、唯だ澶州の民のみ所を失わず。先に是れ制置使司は歳ごとに明、温、台の三郡の民船を調して定海を防ぎ、淮東、京口を戍らしむ。船の籍に在る者は率ね多く損失す。籍に按じて科調する毎に、吏は並縁して奸を為し、民甚だ之に苦しむ。呉潜至り、義船の法を立つ。三郡の都県をして各おの郷の材力有る者を選びて以て団結を主らしむ。如し一都歳に三舟を調し、而して舟有る者五六十家なれば、則ち衆して六舟を弁じ、半ばは以て命に応じ、半ばは以て自ら其の利を食み、余貲有らば、蓄えて以て来歳の用に備えしむ。凡そ丈尺に則有り、印烙に文有り、調用に時有り、著して成式と為す。其の船は専ら江滸に留め、時ならず輪番して海に下りて巡綽す。船戸は各おの郷井を保護せんと欲し、競いて大舟を出だして調発を聴く。旦日に三江に合兵し、民船之を閲するに、環海粛然たり。永平寨を夜飛山に設け、偏校を以て統べ、生券を以て餉し、軍艦を給し、漁戸をして籍有らしめて行旅をして虞無からしむ。向頭寨を設け、外は倭麗を防ぎ、内は京師を蔽う。又烽燧を立て、分かちて三路と為し、皆な招宝山に発軔す。一は大洋の壁下山に達し、一は向頭寨に達し、一は本府の看教亭に達す。亭より密かに一牌を伝え、竟に轅帳に達す。沿江沿海、号火疾馳し、観る者悚惕す。〔馮述評〕海上に此の如く連絡布置し、鯨波蛟穴の地をして几席に在るが如く、呼吸相い通ぜしめば、何の寇か敢えて乗ぜん。
現代語訳
治平年間、河北は凶作に加えて地震にも襲われ、民は食べる物もなく、たいてい耕作用の牛を安く売って日々をしのいだ。この時、劉渙は澶州の長官であり、公庫の銭をすべて出して牛を買った。翌年、地震が収まり、逃げていた民が帰ってきたが、耕す牛がなく、価格は十倍に高騰していた。劉渙は買った牛を元の値段どおりに売り渡した。そのため、河北一帯で澶州の民だけが居場所を失わなかった。以前、制置使司は毎年、明州、温州、台州の三郡の民船を徴発して定海を守らせ、淮東や京口の守備に当てた。登録された船はたいてい損失した。名簿に従って割り当てるたびに、役人は便乗して悪事を働き、民は大いに苦しんだ。呉潜が着任して、義船の法を立てた。三郡の都県にそれぞれ郷里の力ある者を選ばせ、団結を取りまとめさせた。たとえば一つの都で毎年三隻を徴発され、船を持つ家が五、六十戸あれば、皆で六隻を用意し、半分は命令に応じ、半分は自分でその利益を得て、余りの資金があれば蓄えて翌年の費用に備えさせた。船の寸法には規定があり、焼印には文字があり、徴発には期限があり、これを明文化して規則とした。その船は専ら川岸に留め、時々輪番で海に出て巡回した。船主はそれぞれ郷里を守ろうとして、競って大きな船を出して徴発に応じた。翌朝、三江で合同の演習をし、民の船を閲兵すると、海を囲んで厳粛であった。永平寨を夜飛山に設け、副将に統率させ、手形で給与を渡し、軍艦を支給して、漁民に戸籍を持たせ旅人に憂いなからしめた。向頭寨を設け、外は日本や高麗を防ぎ、内は都を守った。さらに烽火台を建てて三路に分け、すべて招宝山を起点にした。一つは大洋の壁下山に達し、一つは向頭寨に達し、一つは本府の看教亭に達した。亭からひそかに札を一枚伝えると、ついに本営の幕に達した。川沿い海沿いで合図の火が疾走し、見る者は身が引き締まった。〔馮述評〕海上にこのように連絡と配置を整え、波の荒れる魚の巣窟のような地を机の上のように見通し、呼吸が通じるようにすれば、どんな賊が付け入ることができようか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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『春秋左氏伝』襄公十八年 太子、剣を抜きて鞅を断つ十二月戊戌、秦周に及びて雍門の萩を伐つ。范鞅雍門に門す。其の御追喜、戈を以って犬を門中に殺す。孟莊子其の橁を斬りて、以って公の琴と為す。己亥、雍門及び西郭・南郭を焚く。劉難・士弱、諸侯の師を率ゐて、申池の竹木を焚く。壬寅、東郭・北郭を焚く。范鞅揚門に門す。州綽東閭に門す。左驂迫りて、東門の中に還り、枚を以って闔を數ふ。齊侯駕して、將に郵棠に走らんとす。大子と郭榮と馬を扣へて曰く、「師速やかにして疾し、略するなり。將に退かんとす。君何ぞ懼れん。且つ社稷の主は、以って輕んずべからず。輕んずれば則ち眾を失ふ。君必ず之を待て」と。將に之を犯さんとす。大子劍を抽きて鞅を斷つ。乃ち止む。甲辰、東のかた侵して濰に及び、南のかた沂に及ぶ。
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史記 刺客列伝千金の資幣物を持ちて、厚く秦王の寵臣中庶子蒙嘉に遺る。嘉為に先づ秦王に言ひて曰く、「燕王誠に大王の威を振怖し、敢て兵を挙げて以て軍吏に逆らはず、願はくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県の如くにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。恐懼して敢て自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封し、燕王庭に拝送し、使をして以て大王に聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ」と。秦王之を聞き、大いに喜び、乃ち朝服し、九賓を設け、燕の使者に咸陽宮に見ゆ。荊軻、樊於期の頭の函を奉じ、而して秦舞陽地図の柙を奉じ、次を以て進む。陛に至り、秦舞陽色変じ振恐す。群臣之を怪しむ。荊軻顧みて舞陽を笑ひ、前みて謝して曰く、「北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず。故に振慴す。願はくは大王少しく之を仮借し、使を前に畢ふるを得しめよ」と。秦王軻に謂ひて曰く、「舞陽の持つ所の地図を取れ」と。軻既に図を取りて之を奏す。秦王図を発く。図窮まりて匕首見る。因りて左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す。未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起つ。袖絶ゆ。剣を抜かんとするも、剣長く、其の室を操る。時に惶急し、剣堅く、故に立ちどころに抜くべからず。荊軻秦王を逐ふ。秦王柱を環りて走る。群臣皆愕き、卒かに意はざるに起こり、尽く其の度を失ふ。而して秦の法、群臣の殿上に侍する者は尺寸の兵を持つを得ず。諸郎中の兵を執るもの皆殿下に陳なり、詔召有るに非ずんば上るを得ず。急なる時に方り、下の兵を召すに及ばず。故を以て荊軻乃ち秦王を逐ふ。而して卒かに惶急し、以て軻を撃つ無く、而して手を以て共に之を搏つ。是の時侍医夏無且、其の奉ずる所の薬嚢を以て荊軻に提つ。秦王方に柱を環りて走り、卒かに惶急して、為す所を知らず。左右乃ち曰く、「王剣を負へ」と。
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