智囊 / 經務・富弼・滕元發・原杰
富鄭公知青州。河朔大水,民流就食。弼勸所部民出粟,益以官廩,得公私庐室十餘區,散處其人,以便薪水。官吏自前資,待缺,寄居者,皆賦以祿,使即民所聚,選老弱病瘠者廩之,仍書其勞,約他日為奏請受賞。率五日,遣人持酒肉飯糗慰籍,出於至誠,人人為盡力。山林陂澤之利,可資以生者,聽流民擅取,死者為大塚埋之,目曰叢塚。明年,麥大熟,民各以遠近受糧歸,募為兵者萬計。帝聞之,遣使褒勞。前此救災者皆聚民城郭中,為粥食之,蒸為疾疫,或待哺數日,不得粥而僕,名救之而實殺之。弼立法簡盡,天下傳以為式。〔馮述評〕能於極貧弱中做出富強來,真經國大手。
新字:富鄭公知青州。河朔大水,民流就食。弼勧所部民出粟,益以官廩,得公私庐室十余区,散処其人,以便薪水。官吏自前資,待欠,寄居者,皆賦以禄,使即民所聚,選老弱病瘠者廩之,仍書其労,約他日為奏請受賞。率五日,遣人持酒肉飯糗慰籍,出於至誠,人人為尽力。山林陂沢之利,可資以生者,聴流民擅取,死者為大塚埋之,目曰叢塚。明年,麦大熟,民各以遠近受糧帰,募為兵者万計。帝聞之,遣使褒労。前此救災者皆聚民城郭中,為粥食之,蒸為疾疫,或待哺数日,不得粥而僕,名救之而実殺之。弼立法簡尽,天下伝以為式。〔馮述評〕能於極貧弱中做出富強来,真経国大手。
書き下し
富鄭公、青州を知す。河朔大水あり、民流れて食に就く。弼、部する所の民に粟を出すを勧め、益すに官廩を以てし、公私の廬室十余区を得て、其の人を散処せしめ、以て薪水に便す。官吏の前資にして缺を待つ者、寄居する者には、皆な禄を賦し、民の聚まる所に即かしめ、老弱病瘠の者を選びて之を廩し、仍お其の労を書し、他日奏請して賞を受けしむるを約す。率ね五日ごとに人を遣わして酒肉飯糗を持ちて慰籍し、至誠より出で、人人為に力を尽くす。山林陂沢の利の以て資りて生くべき者は、流民の擅に取るを聴し、死者は大塚を為りて之を埋め、目して叢塚と曰う。明年、麦大いに熟し、民各おの遠近を以て糧を受けて帰る。募りて兵と為る者万を以て計う。帝聞きて、使を遣わして褒労す。此より前の災を救う者は皆な民を城郭の中に聚め、粥を為りて之に食わしめ、蒸して疾疫と為り、或いは哺を待つこと数日にして、粥を得ずして僕れ、名は之を救うも実は之を殺す。弼の法を立つること簡尽、天下伝えて以て式と為す。〔馮述評〕能く極貧弱の中に於いて富強を做出す、真に経国の大手なり。
現代語訳
富鄭公(富弼)は青州の長官になった。河朔に大洪水があり、民は流れて食を求めた。弼は管轄する民に穀物を出すよう勧め、官の倉の穀を加えて、公私の家屋十数か所を確保し、避難民を分散して住まわせ、薪や水の便を図った。官吏のうち前任で空席を待つ者や寄寓している者にも、すべて俸給を与え、民が集まる所に赴かせて、老人、弱者、病人、やせ衰えた者を選んで食糧を支給させ、その働きを記録して、後日上奏して褒賞を受けさせると約束した。おおよそ五日ごとに人を遣わして酒、肉、飯、干し飯を持たせて慰め、真心から出たものなので、人々は皆彼のために力を尽くした。山林や池沢の利益で生計の足しにできるものは、流民が自由に取ることを許し、死者は大きな塚を造って埋葬し、「叢塚」と名づけた。翌年、麦が大いに実り、民はそれぞれ遠近に応じて糧を受け取って帰った。募集に応じて兵となった者は万単位にのぼった。皇帝はこれを聞き、使者を遣わしてねぎらった。これ以前の災害救済では、皆民を城の中に集めて粥を炊いて食べさせたが、蒸れて疫病となり、あるいは数日待って粥にありつけないまま倒れ、名目は救済でも実際は殺していた。弼の定めた方法は簡潔で行き届いており、天下に伝わって手本となった。〔馮述評〕極貧と弱さの中から、富強を生み出せる者こそ、国を治める大家である。
解説
この章句が説くこと
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