智囊 / 剖疑・范仲淹・李晟
范仲淹一日攜子純仁訪民家。民舍有鼓為妖,坐未幾,鼓自滾至庭,盤旋不已,見者皆股栗。仲淹徐謂純仁曰:「此鼓久不擊,見好客至,故自來庭以尋槌耳。」令純仁削槌以擊之,其鼓立碎。李忠公之為相也,政事堂有會食之案。吏人相傳:「移之則宰臣當罷,不遷者五十年。」公曰:「朝夕論道之所,豈可使朽蠹之物穢而不除。俗言拘忌,何足聽也!」遂撤而焚之,其下錐去積壤十四畚,議者偉焉。
新字:范仲淹一日攜子純仁訪民家。民舎有鼓為妖,坐未幾,鼓自滾至庭,盤旋不已,見者皆股栗。仲淹徐謂純仁曰:「此鼓久不撃,見好客至,故自来庭以尋槌耳。」令純仁削槌以撃之,其鼓立砕。李忠公之為相也,政事堂有会食之案。吏人相伝:「移之則宰臣当罷,不遷者五十年。」公曰:「朝夕論道之所,豈可使朽蠹之物穢而不除。俗言拘忌,何足聴也!」遂撤而焚之,其下錐去積壤十四畚,議者偉焉。
書き下し
范仲淹、一日、子の純仁を携えて民家を訪ぬ。民舎に鼓の妖を為す有り。坐すること未だ幾ばくならざるに、鼓自ら庭に滾り至り、盤旋して已まず。見る者皆な股栗す。仲淹、徐ろに純仁に謂いて曰く、「此の鼓、久しく撃たれず、好客の至るを見て、故に自ら庭に来たりて槌を尋ぬるのみ」と。純仁をして槌を削りて之を撃たしむれば、其の鼓立ちどころに砕く。李忠公の相たるや、政事堂に会食の案有り。吏人相い伝う、「之を移さば則ち宰臣当に罷むべし、遷さざること五十年」と。公曰く、「朝夕道を論ずるの所に、豈に朽蠹の物をして穢れて除かざらしむべけんや。俗言の拘忌、何ぞ聴くに足らん」と。遂に撤して之を焚く。其の下より壌を積むこと十四畚を錐去す。議者偉とす。
現代語訳
范仲淹はある日、息子の純仁を連れて民家を訪ねた。その家には、怪異を起こす太鼓があった。座ってまもなく、太鼓がひとりでに庭へ転がり出て、ぐるぐると回り続けた。見ていた人々は皆震え上がった。仲淹はゆっくりと純仁に言った。「この太鼓は長く打たれていなかったので、よいお客が来たのを見て、自分から庭に来て撥を探しているのだ」。そこで純仁に撥を削らせて打たせると、太鼓はたちまち砕けた。李晟(李忠公)が宰相だった時、政事堂に会食用の机があった。役人たちは言い伝えていた。「これを移せば宰相は職を失う。だから五十年動かさなかった」。李公は言った。「朝晩、国の道を論じる場所に、どうして朽ちて虫の食った物を汚れたまま置いておけようか。世間の言う禁忌など、聞くに値しない」。そしてついに取り払って焼いた。その下からは、積もった土が十四籠分も出た。議論する者たちは立派だと評した。
解説
この章句が説くこと
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