智囊 / 億中・喬行簡
嘉定間,山東忠義李全跋扈日甚,朝廷擇人帥山陽,一時文臣無可使,遂用武國。國,武夫也,特換文資,除太府卿以重其行。喬壽朋以書抵史丞相曰:「祖宗朝,制置使多用名將。紹興間,不獨張、韓、劉、岳為之,楊沂中、吳玠、吳璘、劉錡、王燮、成閔諸人亦為之,豈必盡文臣哉?至於文臣任邊事,固有反以觀察使授之者,如韓忠獻、范文正、陳堯咨是也。今若就加本分之官,以重制帥之選,初無不可,乃使之處非其據,遽易以清班,彼修飾邊幅,強自標置,求以稱此,人心固未易服,恐反使人有輕視不平之心,此不可不慮也。」史不能從。國至山陽,偃然自大,受全庭參。全軍忿怒,囚而殺之。自此遂叛。
新字:嘉定間,山東忠義李全跋扈日甚,朝廷択人帥山陽,一時文臣無可使,遂用武国。国,武夫也,特換文資,除太府卿以重其行。喬寿朋以書抵史丞相曰:「祖宗朝,制置使多用名将。紹興間,不独張、韓、劉、岳為之,楊沂中、呉玠、呉璘、劉錡、王燮、成閔諸人亦為之,豈必尽文臣哉?至於文臣任辺事,固有反以観察使授之者,如韓忠献、范文正、陳堯咨是也。今若就加本分之官,以重制帥之選,初無不可,乃使之処非其拠,遽易以清班,彼修飾辺幅,強自標置,求以称此,人心固未易服,恐反使人有軽視不平之心,此不可不慮也。」史不能従。国至山陽,偃然自大,受全庭参。全軍忿怒,囚而殺之。自此遂叛。
書き下し
嘉定の間、山東の忠義李全、跋扈すること日に甚し。朝廷、人を択びて山陽に帥たらしめんとするに、一時の文臣、使うべき無し。遂に武国を用う。国は武夫なり。特に文資に換え、太府卿に除して以て其の行を重くす。喬寿朋、書を以て史丞相に抵りて曰く、「祖宗の朝は、制置使に多く名将を用う。紹興の間、独り張、韓、劉、岳のみ之と為るにあらず、楊沂中、呉玠、呉璘、劉錡、王燮、成閔の諸人も亦た之と為れり。豈に必ずしも尽く文臣ならんや。文臣の辺事に任ずるに至りては、固より反って観察使を以て之に授くる者有り。韓忠献、范文正、陳堯咨の如き是れなり。今、若し就きて本分の官を加え、以て制帥の選を重くせば、初めより不可なること無し。乃ち之をして其の据に非ざる所に処らしめ、遽かに易うるに清班を以てす。彼、辺幅を修飾し、強いて自ら標置して、以て此れに称わんことを求むるも、人心は固より未だ服し易からず。恐らくは反って人をして軽視不平の心有らしめん。此れ慮らざるべからざるなり」と。史、従う能わず。国、山陽に至るや、偃然として自ら大とし、全の庭参を受く。全の軍、忿怒し、囚えて之を殺す。此れより遂に叛く。
現代語訳
嘉定年間、山東の忠義軍の将、李全の横暴が日に日にひどくなった。朝廷は山陽を治める将帥を選ぼうとしたが、当時の文臣には使える者がいなかった。そこで武国という者を用いた。国は武人である。特例で文官の資格に切り替え、太府卿に任じて、その赴任に重みをつけた。喬寿朋は書簡を史丞相(史彌遠)に送って言った。「祖宗の朝では、制置使にはたいてい名将を用いました。紹興の頃には、張俊、韓世忠、劉光世、岳飛だけでなく、楊沂中、呉玠、呉璘、劉錡、王燮、成閔の諸人もこれを務めました。どうして必ず文臣ばかりでしょうか。文臣が辺境の事に当たる場合にも、かえって観察使の官を授けた例があります。韓琦、范仲淹、陳堯咨がそうです。今、もし本来の武官の官位を加えて制帥の選を重くするのなら、はじめから差し支えありません。ところが、その持ち場でない官に置き、急に清らかな文官の位に替えました。彼が身なりを整え、無理に自分を飾ってこれにふさわしくなろうとしても、人心はもともと服しにくいものです。かえって人に軽んじ不満をもつ心を起こさせるのではないかと恐れます。これは考えておかねばなりません」。史は従えなかった。国は山陽に着くと、尊大に構え、李全の庭での拝礼を受けようとした。李全の軍は怒り、国を捕らえて殺した。こうして李全はついに叛いた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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三略・中略軍勢に曰く、弁士をして敵の美を談説せしむること無かれ、其の衆を惑はすが為なり。仁者をして財を主らしむること勿かれ、其の多く施して下に附くが為なり。
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『韓非子』八説第四十七人君の任ずる所は、辯智に非ざれば則ち修潔なり。・・・智に任ずれば則ち君欺かれ、修に任ずれば則ち事亂る。此れ術無きの患なり。
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人物志・材能夫れ人材同じからず、能は各異なる有り。自任の能有り、立法使人の能有り、消息弁護の能有り、徳教を以て人に師たるの能、行事使人譴譲の能有り、司察糾摘の能有り、権奇の能有り、威猛の能有り。夫れ能は材より出で、材は量を同じくせず。材能既に殊なれば、政に任ずるも亦異なる。是の故に、自任の能は、清節の材なり、故に朝に在りては、則ち冢宰の任、国の為にしては、則ち矯直の政なり。立法の能は、治家の材なり、故に朝に在りては、則ち司寇の任、国の為にしては、則ち公正の政なり。計策の能は、術家の材なり、故に朝に在りては、則ち三孤の任、国の為にしては、則ち変化の政なり。人事の能は、智意の材なり、故に朝に在りては、則ち冢宰の佐、国の為にしては、則ち諧合の政なり。行事の能は、譴譲の材なり、故に朝に在りては、則ち司寇の佐、国の為にしては、則ち督責の政なり。権奇の能は、伎倆の材なり、故に朝に在りては、則ち司空の任、国の為にしては、則ち芸事の政なり。司察の能は、臧否の材なり、故に朝に在りては、則ち師氏の佐、国の為にしては、則ち刻削の政なり。威猛の能は、豪傑の材なり、故に朝に在りては、則ち将帥の任、国の為にしては、則ち厳厲の政なり。
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人物志・體別彊楷堅勁なるは、用は楨幹に在り、失は専固に在り。論弁理繹なるは、能は釈結に在り、失は流宕に在り。
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