智囊 / 遠猶・陳瓘
陳瓘方赴召命,至闕,聞有中旨,令三省繳進前後臣僚章疏之降出者。瓘謂宰屬謝聖藻曰:「此必有奸人圖蓋己愆而為此謀者。若盡進入,則異時是非變亂,省官何以自明?」因舉蔡京上疏請滅劉摯等家族,乃妄言攜劍入內欲斬王圭等數事。謝驚悚,即白時宰,錄副本於省中。其後京黨欺誣蓋抹之說不能盡行,由有此跡,不可泯也。鄒浩還朝,帝首言及諫立後事,獎歎再三,詢:「諫草安在?」對曰:「焚之矣。」退告陳瓘,瓘曰:「禍其始此乎?異時奸人妄出一緘,則不可辨矣。」初,哲宗一子獻愍太子茂,昭懷劉氏為妃時所生,帝未有子,而中宮虛位,後因是得立,然才三月而夭。浩凡三諫立劉后,隨削其稿。蔡京用事,素忌浩,乃使其黨為偽疏,言「劉后殺卓氏而奪其子,欺人可也,詎可以欺天乎?」徽宗詔暴其事,遂再謫衡州別駕,尋竄昭州,果如言。〔馮述評〕二事一局也。謝從之而免讒,鄒違之而構誣。「人無遠慮,必有近憂。」尤信!
新字:陳瓘方赴召命,至闕,聞有中旨,令三省繳進前後臣僚章疏之降出者。瓘謂宰属謝聖藻曰:「此必有奸人図蓋己愆而為此謀者。若尽進入,則異時是非変乱,省官何以自明?」因舉蔡京上疏請滅劉摯等家族,乃妄言攜剣入内欲斬王圭等数事。謝驚悚,即白時宰,録副本於省中。其後京党欺誣蓋抹之説不能尽行,由有此跡,不可泯也。鄒浩還朝,帝首言及諫立後事,獎嘆再三,詢:「諫草安在?」対曰:「焚之矣。」退告陳瓘,瓘曰:「禍其始此乎?異時奸人妄出一緘,則不可弁矣。」初,哲宗一子献愍太子茂,昭懐劉氏為妃時所生,帝未有子,而中宮虚位,後因是得立,然才三月而夭。浩凡三諫立劉后,随削其稿。蔡京用事,素忌浩,乃使其党為偽疏,言「劉后殺卓氏而奪其子,欺人可也,詎可以欺天乎?」徽宗詔暴其事,遂再謫衡州別駕,尋竄昭州,果如言。〔馮述評〕二事一局也。謝従之而免讒,鄒違之而構誣。「人無遠慮,必有近憂。」尤信!
書き下し
陳瓘、方に召命に赴き、闕に至るに、中旨有りて、三省をして前後の臣僚の章疏の降出せる者を繳進せしむと聞く。瓘、宰属謝聖藻に謂いて曰く、「此れ必ず奸人の己が愆を蓋わんと図りて此の謀を為す者有らん。若し尽く進入せば、則ち異時の是非変乱せば、省官何を以て自ら明らかにせん」と。因りて蔡京が上疏して劉摯らの家族を滅ぼさんことを請い、乃ち妄りに剣を携えて内に入り王圭らを斬らんと欲すと言う数事を挙ぐ。謝驚悚し、即ち時宰に白し、副本を省中に録す。其の後、京の党の欺誣蓋抹の説は尽くは行われず、此の跡有るに由りて、泯すべからざればなり。鄒浩、朝に還り、帝首に立后を諫むる事に及び、獎歎すること再三、詢う、「諫草は安くに在るか」と。対えて曰く、「之を焚けり」と。退きて陳瓘に告ぐ。瓘曰く、「禍は其れ此に始まるか。異時奸人妄りに一緘を出さば、則ち辨ずべからず」と。初め、哲宗の一子献愍太子茂は、昭懐劉氏の妃たりし時に生む所にして、帝未だ子有らず、中宮は位を虚しくし、後は是に因りて立つを得るも、然れども才かに三月にして夭す。浩は凡そ三たび劉后を立つるを諫め、隨って其の稿を削る。蔡京の事を用うるに、素より浩を忌み、乃ち其の党をして偽疏を為らしむ、「劉后は卓氏を殺して其の子を奪う。人を欺くは可なり、詎ぞ以て天を欺くべけんや」と言う。徽宗、詔して其の事を暴かしめ、遂に再び衡州別駕に謫し、尋いで昭州に竄す。果たして言の如し。〔馮述評〕二事は一局なり。謝は之に従いて讒を免れ、鄒は之に違いて誣を構えらる。「人に遠慮無くんば、必ず近憂有り」、尤も信なり。
現代語訳
陳瓘が召されて都に着いたとき、内廷の命令があって、三省に、前後の臣僚が上奏した文書で下げ渡されたものをすべて回収して提出させようとしていると聞いた。陳瓘は宰相の属官の謝聖藻に言った。「これは必ず奸臣が自分の過ちを隠そうとして企んだものだろう。もし全部提出したら、後で是非が変えられたとき、省の官はどうやって自分を証明するのか」。そこで、蔡京が上奏して劉摯らの一族を滅ぼすよう願い出たとき、剣を携えて宮中に入り王圭らを斬ろうとしたとでたらめを言った件など、数件を挙げた。謝は驚き、すぐに当時の宰相に報告して、省の中に副本を写しておいた。その後、蔡京の一党が欺いて塗り潰そうとした説は、完全には通らなかった。この記録が残り、消し去れなかったからである。鄒浩が朝廷に戻り、皇帝は真っ先に皇后の擁立を諫めた件に触れ、何度も称賛して「諫言の草稿はどこにあるか」と尋ねた。鄒浩は「焼きました」と答えた。退出して陳瓘に告げると、陳瓘は言った。「禍はここから始まるのではないか。後に奸人が偽の書面を出したら、弁明できなくなる」。当初、哲宗の一人息子の献愍太子茂は、昭懐劉氏が妃だったときに産んだ子で、皇帝にはまだ子がなく、皇后の座が空いていたので、劉氏はそのために皇后に立てられたが、太子はわずか三か月で夭折した。鄒浩は三度、劉氏を皇后に立てることを諫め、そのたびに原稿を削除していた。蔡京は政権を握ると、前から鄒浩を忌み嫌っていたので、仲間に偽の上奏文を作らせた。「劉后は卓氏を殺してその子を奪った。人を欺くのは可能でも、天を欺けるでしょうか」。徽宗は詔を出してその件を暴かせ、鄒浩は再び衡州別駕に左遷され、さらに昭州に流された。果たして陳瓘の言葉どおりになった。〔馮夢龍の評〕二つの事は同じ局面である。謝聖藻は助言に従って讒言を免れ、鄒浩は従わなかったので偽りの罪を着せられた。「人に遠い見通しがなければ、必ず近い憂いがある」というのは、まことにその通りである。
解説
この章句が説くこと
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