智囊 / 億中・李泌・李絳
漢武好大之主,非大言不投;唐肅倚望鄴侯頗大,不大言不塞其望,望之不塞,又將遷跡他人,而其志不行矣。是皆巧於投主者也。荊公巧於投神宗而拙於酬相位,所謂言有大而誇者耶?諸葛隆中數語,不敢出一大言,正與先主局量相配;若衛鞅之乾秦王,先說以帝道、王道,而後及富強,此借所必不入以堅其入,又非大言之比矣。
新字:漢武好大之主,非大言不投;唐粛倚望鄴侯頗大,不大言不塞其望,望之不塞,又将遷跡他人,而其志不行矣。是皆巧於投主者也。荊公巧於投神宗而拙於酬相位,所謂言有大而誇者耶?諸葛隆中数語,不敢出一大言,正与先主局量相配;若衛鞅之乾秦王,先説以帝道、王道,而後及富強,此借所必不入以堅其入,又非大言之比矣。
書き下し
漢の武は好大の主にして、大言に非ざれば投ぜず。唐の粛は鄴侯に倚望すること頗る大にして、大言ならざれば其の望みを塞がず、望み塞がざれば、又将に迹を他人に遷さんとして、其の志行われず。是れ皆巧みに主に投ずる者なり。荊公は神宗に投ずるに巧みにして、相位に酬ゆるに拙し、所謂言の大にして誇なる者か。諸葛の隆中の数語は、敢えて一大言をも出ださず、正に先主の局量と相い配す。衛鞅の秦王を干むるが若きは、先に説くに帝道・王道を以てし、而る後に富強に及ぶ、此れ必ず入らざる所を借りて以て其の入るを堅くするにして、又大言の比に非ず。
現代語訳
漢の武帝は大きなことを好む君主で、大言でなければ心に響かなかった。唐の粛宗は鄴侯に大きな期待を寄せており、大言でなければその期待に応えられず、期待に応えられなければ、また別の人物に頼ることになり、鄴侯の志は行われなかった。これらはみな、君主にうまく取り入る者の例である。荊公(王安石)は神宗に取り入ることには巧みだったが、宰相の位に報いることは拙く、いわゆる言葉が大きくて誇大な者であったか。諸葛亮の隆中での数語は、一つの大言も出さず、まさに先主劉備の器量にふさわしかった。衛鞅が秦王に仕官を求めた時、はじめに帝道・王道を説き、そのあとで富国強兵に及んだのは、必ず受け入れられないことをあえて言って、のちに受け入れられることを固める手法であり、これもまた大言の類ではない。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』見大・諸葛亮諸葛丞相の赦を惜しむと言う者有り。亮答えて曰く、世を治むるには大徳を以てし、小恵を以てせず。故に匡衡・呉漢は赦を為すを願わず。先帝も亦た言う、吾れ陳元方・鄭康成の間に周旋し、見る毎に啓告せらるるに、治乱の道は悉くせり。曾て赦に及ばざるなり。劉景升父子の歳歳赦宥するが若きは、治に何の益あらんや、と。費禕の政を為すに及び、始めて姑息を事とし、蜀遂に以て削らる。〔馮述評〕子産は子太叔に謂いて曰く、唯だ徳有る者のみ、能く寛を以て民を服す。其の次は猛に如くは莫し。夫れ火は烈しく、民望みて之を畏る。故に死する者鮮し。水は懦弱にして、民狎れて之を玩ぶ。則ち死する者多し。故に寛は難し、と。太叔は政を為すに猛に忍びず、寛なり。是に於いて鄭国に盗多し。太叔之を悔ゆ。仲尼曰く、政寛なれば則ち民慢り、慢れば則ち之を糾すに猛を以てす。猛なれば則ち民残われ、残われれば則ち之に施すに寛を以てす。寛以て猛を済し、猛以て寛を済す。政是を以て和す、と。商君の刑は棄灰に及ぶ、猛に過ぐる者なり。梁武は死刑を見る輒ち涕泣して之を縦つ、寛に過ぐる者なり。『論語』は小過を赦し、『春秋』は肆大眚を譏る。之を合わせて、政の和を得るなり。
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『智囊』億中・李泌・李絳制命、魏州に至り、興は感泣して涕を流し、士衆は鼓舞せざる無し。李絳又た言う、「魏博は五十餘年、皇化に沾わず、一旦六州の地を挙げて来り帰す。河朔の腹心を刳り、叛乱の巣穴を傾く。重賞の其の望みを過ぐる有らずんば、則ち以て士卒の心を慰め、四鄰をして勧慕せしむる無し。請う、内庫の銭百五十万緡を発して以て之に賜わんことを」と。左右の宦官以て太だ多しと為す。絳曰く、「田興は専地の利を貪らず、四鄰の患いを顧みず、命を聖朝に帰す。陛下奈何ぞ小費を愛しみて大計を遺れ、以て一道の人心を収めざるや。借使い国家が十五万の兵を発して以て六州を取り、期年にして之に克たば、其の費豈に唯だ百五十万緡のみならんや」と。上悦びて曰く、「朕の悪衣菲食して、貨財を蓄聚する所以は、正に四方を平定せんが為なり。然らずんば、徒だ之を府庫に貯えて何をか為さん」と。即ち知制誥裴度を遣わして魏博に至り宣慰せしめ、銭百五十万を以て軍士を賞し、六州の百姓は復を給すること一年なり。軍士賜を受け、歓声雷の如し。成徳・兗鄆の使者数輩、之を見て相い顧みて色を失い、歎じて曰く、「倔強にして果たして何の益あらんや」と。李泌嘗て言う、「善く敵を料る者は、将を料りて兵を料らず」と。泌の陝城を策し、絳の魏博を揣るは、皆な将を料るの法なり。
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