智囊 / 知微・穆生
楚元王初敬禮申公等,穆生不嗜酒,元王每置酒,常為穆生設醴。及王戊即位,常設,後忘設焉,穆生退曰:「可以逝矣。醴酒不設,王之意怠,不去,楚人將鉗我於市。」稱疾臥。申公、白生強起之,曰:「獨不念先王之德與?今王一旦失小禮,何足至此?」穆生曰:「《易》稱:知幾其神。幾者,動之微,吉凶之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。先王所以禮吾三人者,為道存也;今而忽之,是忘道也。忘道之人,胡可與久處?吾豈為區區之禮哉?」遂謝病去。申公、白生獨留,王戊稍淫暴,二十年,為薄太后服,私奸。削東海、薛郡,乃與吳通謀。二人諫不聽,胥靡之,衣之赭衣,舂於市。
新字:楚元王初敬礼申公等,穆生不嗜酒,元王毎置酒,常為穆生設醴。及王戊即位,常設,後忘設焉,穆生退曰:「可以逝矣。醴酒不設,王之意怠,不去,楚人将鉗我於市。」称疾臥。申公、白生強起之,曰:「独不念先王之徳与?今王一旦失小礼,何足至此?」穆生曰:「《易》称:知幾其神。幾者,動之微,吉凶之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。先王所以礼吾三人者,為道存也;今而忽之,是忘道也。忘道之人,胡可与久処?吾豈為区区之礼哉?」遂謝病去。申公、白生独留,王戊稍淫暴,二十年,為薄太后服,私奸。削東海、薛郡,乃与呉通謀。二人諫不聴,胥靡之,衣之赭衣,舂於市。
書き下し
楚の元王、初め申公らを敬礼す。穆生は酒を嗜まず、元王、酒を置く毎に、常に穆生の為に醴を設く。王戊の位に即くに及び、常に設けしも、後に忘れて設けず。穆生退きて曰く、「以て逝くべし。醴酒設けられざるは、王の意怠れるなり。去らずんば、楚人将に我を市に鉗せんとす。」疾と称して臥す。申公・白生強いて之を起こして曰く、「独り先王の徳を念わざるか。今王一旦小礼を失うこと、何ぞ此に至るに足らんや。」穆生曰く、「『易』に称す、幾を知るは其れ神なりと。幾とは動の微にして、吉凶の先ず見るる者なり。君子は幾を見て作ち、終日を俟たず。先王の吾が三人を礼する所以は、道の存するが為なり。今にして之を忽せにするは、是れ道を忘るるなり。道を忘るる人と、胡ぞ与に久しく処るべけんや。吾豈に区区の礼の為ならんや。」遂に病と謝して去る。申公・白生は独り留まる。王戊は稍や淫暴にして、二十年、薄太后の為に服するに、私奸あり。東海・薛郡を削らる。乃ち呉と通謀す。二人諫むるも聴かれず、之を胥靡し、赭衣を之に衣せ、市に舂かしむ。
現代語訳
楚の元王は、初めのころ申公らを敬い礼遇していた。穆生は酒を飲まなかったので、元王は酒宴を開くたびに、いつも穆生のために甘酒を用意した。王戊が位を継ぐと、はじめは同じように用意していたが、のちに忘れて用意しなくなった。穆生は退いて言った。「もう立ち去ってよい。甘酒が用意されないのは、王の心が怠った証拠だ。去らなければ、楚の人々は私を市で首枷にかけるだろう。」そして病気だと称して寝込んだ。申公と白生は無理に起こして言った。「先王の恩徳を思わないのか。いま王が一度、小さな礼を失っただけで、どうしてそこまで言うのか。」穆生は言った。「『易』に『兆しを知るのは神妙だ』とある。兆しとは、動きの微かなもので、吉凶が先に現れるものだ。君子は兆しを見て立ち、一日も待たない。先王が私たち三人を礼遇した理由は、道が存したからだ。今これを軽んじるのは、道を忘れたことになる。道を忘れた人と、どうして長く共にいられよう。私はわずかな礼のために言っているのではない。」そして病気を理由に辞して去った。申公と白生だけが留まった。王戊はしだいに放蕩で乱暴になり、薄太后の喪に服している間にも密通した。東海郡と薛郡を削られ、ついに呉と通謀した。二人は諫めたが聞き入れられず、罪人として赤い衣を着せられ、市で米つきをさせられた。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』成公二年 背城借一諸侯何ぞ害せん。然らずんば、寡君の使臣に命ずるや、則ち辭有り。曰く、「子君の師を以て敝邑に辱くす。不腆の敝賦、以て從者を犒ふ。君の震を畏れ、師徒橈敗す。吾子惠みて齊國の福を徼め、其の社稷を泯ぼさず、舊好を繼がしめば、唯だ是れ先君の敝器土地は敢へて愛まず。子又許さずんば、請ふ餘燼を收合して、城を背にして一を借らん。敝邑の幸あらば、亦た云に從はん。況んや其れ不幸ならば、敢へて唯だ命を是れ聽かざらんや」と。魯・衛諫めて曰く、「齊我を疾めり。其の死亡する者は、皆親暱なり。子若し許さずんば、我を讎とすること必ず甚だしからん。唯だ子なれば則ち又何をか求めん。子其の國寶を得、我も亦た地を得て難に紓ぶ。其の榮多し。齊・晉も亦た唯だ天の授くる所なり、豈に必ずしも晉ならんや」と。晉人之を許す。對へて曰く、「群臣賦輿を帥ゐて、以て魯・衛の為に請ふ。若し苟くも以て口を藉る有りて、寡君に復せば、君の惠なり。敢へて唯だ命を是れ聽かざらんや」と。禽鄭師より公を逆ふ。
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『春秋左氏伝』閔公元年 心苟くも瑕無くば士蒍曰く、「大子立つを得ず。之に都城を分かちて、位するに卿を以ってす。先づ之が爲に極めたり、又焉んぞ立つを得ん。之を逃るるに如かず、罪をして至らしむる無かれ。吳の大伯と爲る、亦た可ならずや。猶ほ令名有り、其の及ぶよりは與し。且つ諺に曰く、『心苟くも瑕無くば、何ぞ家無きを恤へん』と。天若し大子に祚せば、其れ晉無からんや」と。卜偃曰く、「畢萬の後必ず大ならん。萬は、盈數なり。魏は、大名なり。是を以って始めて賞す、天之を啟けり。天子を兆民と曰ひ、諸侯を萬民と曰ふ。今之に名づくるに大を以ってし、以って盈數に從ふ、其れ必ず眾有らん」と。初め、畢萬晉に仕へんことを筮し、《屯》の《比》に之くに遇ふ。辛廖之を占ひて曰く、「吉なり。《屯》は固く、《比》は入る、吉孰れか焉より大ならん。其れ必ず蕃昌せん。《震》土と爲り、車馬に從ひ、足之に居り、兄之に長たり、母之を覆ひ、眾之に歸す。六體易らず、合して能く固く、安くして能く殺す、公侯の卦なり。公侯の子孫は、必ず其の始めに復らん」と。
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葉隠・聞書第一方々(ほうぼう)招請(しょうせい)に参られ心入(こころい)れになり、話など致され候由(そうろうよし)。この前(まえ)数年(すうねん)の内も、人の為になることばかりを楽(たの)しみ、極々(ごくごく)の奉公好(ほうこうず)きなり。それゆゑ一(ひと)かど御用(ごよう)には立たれ候。人は得意な方に老耄する者なれば、奉公老耄(ほうこうろうもう)、人の為になりても老耄はあぶなきなり。老人は他出せぬが重(おも)くして、しまりよきなり。
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史記 留侯世家矰繳有りと雖も、尚ほ安くにか施す所あらん」と。歌ふこと数闋、戚夫人噓唏して流涕す、上起ちて去り、酒を罷む。竟に太子を易へざりし者は、留侯の本此の四人を招きし力なり。留侯上に従ひて代を撃ち、奇計を馬邑の下に出だし、及び蕭何を相国に立つ、上と従容として天下の事を言ふ所甚だ衆きも、天下の存亡する所以に非ず、故に著さず。留侯乃ち称して曰く、「家世々韓に相たり、韓の滅ぶるに及び、万金の資を愛しまず、韓の為に讐を彊秦に報い、天下振動す。今三寸の舌を以て帝者の師と為り、万戸に封ぜられ、列侯に位す、此れ布衣の極みなり、良に於て足れり。願はくは人間の事を棄て、赤松子に従ひて游ばんと欲するのみ」と。乃ち辟穀を学び、道引して身を軽くす。会々高帝崩じ、呂后留侯を徳とし、乃ち彊ひて之に食はしめて、曰く、「人生一世の間、白駒の隙を過ぐるが如し、何ぞ自ら苦しむこと此くの如きに至るや」と。留侯已むを得ず、彊ひて聴きて食ふ。後八年にして卒し、謚して文成侯と為す。子不疑代はりて侯たり。子房始め見る所の下邳の圯上の老父の太公の書を与へし者、後十三年高帝に従ひて済北を過ぎ、果たして穀城山下の黄石を見、取りて之を葆祠す。留侯死し、并せて黄石と葬る。冢に上る伏臘毎に、黄石を祠る。留侯不疑、孝文帝五年不敬に坐し、国除かる。太史公曰く、学者多く鬼神無しと言ふ、然れども物有りと言ふ。留侯の見る所の老父の書を予ふるが如きに至りては、亦た怪しむべし。高祖困しみに離ること数々なり、而して留侯常に功力有り、豈に天に非ずと謂ふべけんや。上曰く、「夫れ策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、吾子房に如かず」と。余以為へらく其の人は計魁梧奇偉ならんと、其の図を見るに至りては、状貌婦人好女の如し。蓋し孔子曰く、「貌を以て人を取れば、之を子羽に失ふ」と。留侯も亦た云ふ。
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