智囊 / 知微・沈諸梁
楚太子建廢,殺於鄭,其子曰勝,在吳,子西欲召之。沈諸梁聞之,見子西曰:「聞子召王孫勝,信乎?」曰:「然。」子高曰:「將焉用之?」曰:「吾聞之,勝直而剛,欲置之境。」子高曰:「不可。吾聞之,勝也詐而亂,彼其父為戮於楚,其心又狷而不潔。若其狷也,不忘舊怨,而不以潔悛德,思報怨而已。夫造勝之怨者,皆不在矣。若來而無寵,速其怒也;若其寵之,貪而無厭,思舊怨以修其心,苟國有釁,必不居矣。吾聞國家將敗,必用奸人,而嗜其疾味,其子之謂乎?夫誰無疾眚,能者早除之。舊怨滅宗,國之疾眚也;為之關龠,猶恐其至也,是之謂日惕。若召而近之,死無日矣!」弗從,召之,使處吳境,為白公。後敗吳師,請以戰備獻,遂作亂,殺子西、子期於朝。
新字:楚太子建廃,殺於鄭,其子曰勝,在呉,子西欲召之。沈諸梁聞之,見子西曰:「聞子召王孫勝,信乎?」曰:「然。」子高曰:「将焉用之?」曰:「吾聞之,勝直而剛,欲置之境。」子高曰:「不可。吾聞之,勝也詐而乱,彼其父為戮於楚,其心又狷而不潔。若其狷也,不忘旧怨,而不以潔悛徳,思報怨而已。夫造勝之怨者,皆不在矣。若来而無寵,速其怒也;若其寵之,貪而無厭,思旧怨以修其心,苟国有釁,必不居矣。吾聞国家将敗,必用奸人,而嗜其疾味,其子之謂乎?夫誰無疾眚,能者早除之。旧怨滅宗,国之疾眚也;為之関龠,猶恐其至也,是之謂日惕。若召而近之,死無日矣!」弗従,召之,使処呉境,為白公。後敗呉師,請以戦備献,遂作乱,殺子西、子期於朝。
書き下し
楚の太子建廃せられ、鄭に殺さる。其の子を勝と曰い、呉に在り。子西、之を召さんと欲す。沈諸梁、之を聞き、子西に見えて曰く、「聞くならく、子、王孫勝を召すと。信なるか。」曰く、「然り。」子高曰く、「将た焉れを用うるか。」曰く、「吾之を聞く、勝は直にして剛なり。之を境に置かんと欲す。」子高曰く、「不可なり。吾之を聞く、勝や詐にして乱す。彼の其の父は楚に戮せられ、其の心又た狷にして潔からず。若し其れ狷なるや、旧怨を忘れず、而して潔きを以て徳を悛めず、怨みを報ぜんと思うのみ。夫れ勝の怨みを造る者は、皆な在らず。若し来たりて寵無ければ、其の怒りを速やかにす。若し之を寵すれば、貪りて厭くこと無く、旧怨を思いて以て其の心を修め、苟くも国に釁有らば、必ず居らず。吾聞く、国家の将に敗れんとするや、必ず奸人を用い、其の疾味を嗜むと。其れ子の謂いか。夫れ誰か疾眚無からん。能者は早く除く。旧怨宗を滅ぼすは、国の疾眚なり。之が為に関鑰すら、猶お其の至るを恐る。是れ之を日に惕ると謂う。若し召して之を近づけば、死すること日無からん。」従わず。之を召し、呉の境に処らしめ、白公と為す。後に呉の師を敗り、戦備を献ぜんと請い、遂に乱を作し、子西・子期を朝に殺す。
現代語訳
楚の太子建が廃されて鄭で殺された。その子を勝といい、呉にいた。令尹の子西は、勝を呼び戻そうとした。沈諸梁(子高)はこれを聞き、子西に会って言った。「あなたが王孫勝を召されると聞きましたが、本当ですか。」「そうだ。」「どう用いるおつもりですか。」子西は言った。「私が聞くところでは、勝は正直で剛直だという。国境に置いて守らせたいのだ。」子高は言った。「いけません。私の聞くところでは、勝は偽りが多くて乱を好みます。その父は楚で殺され、心も偏狭で潔くありません。偏狭な者は昔の怨みを忘れず、潔さで自分の徳を改めようともせず、ただ報復を思うだけです。勝の怨みを作った者たちは皆もう世にいません。来ても寵遇しなければ、怒りを早めます。寵遇すれば、貪って満足を知らず、昔の怨みを思い起こして気持ちを固め、国に隙があれば必ずじっとしていません。私は、国家が滅びようとするときには、必ず奸人を用い、その毒の味を好むと聞いています。あなたのことではありませんか。誰にも病や過ちはあるもので、有能な者は早く取り除きます。昔の怨みで一族を滅ぼしかねない者は国の病です。それに対して門を固く閉じても、なお来るのを恐れるのです。これを日々慎むと言います。召して近づければ、死は遠くありません。」子西は従わず、勝を召し、呉との国境に置いて白公とした。のちに勝は呉の軍を破り、その戦利の武具を献上したいと願い出て、ついに反乱を起こし、朝廷で子西・子期を殺した。
解説
この章句が説くこと
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史記 淮陰侯列伝因りて王に問ひて曰く、「今東郷して権を天下に争ふは、豈に項王に非ずや」と。漢王曰く、「然り」と。曰く、「大王自ら料るに勇悍仁彊、項王に孰与れぞ」と。漢王黙然たること良久しくして、曰く、「如かざるなり」と。信再拝して賀して曰く、「惟だ信も亦大王如かずと為すなり。然れども臣嘗て之に事ふ。請ふ項王の人と為りを言はん。項王喑噁叱咤すれば、千人皆廃す。然れども賢将に任属すること能はず。此れ特だ匹夫の勇のみ。項王人を見るに恭敬慈愛、言語嘔嘔たり。人疾病有れば、涕泣して食飲を分かつ。人をして功有りて当に封爵すべき者あらしむるに至りては、印刓敝するも、忍びて予ふること能はず。此れ所謂婦人の仁なり。項王天下に覇として諸侯を臣とすと雖も、関中に居らずして彭城に都す。義帝の約に背くこと有りて、親愛を以て王とす。諸侯平かならず。諸侯の項王の義帝を遷逐して江南に置くを見るや、亦皆帰りて其の主を逐ひて自ら善地に王たり。項王の過ぐる所残滅せざる者無し。天下怨み多く、百姓親附せず、特だ威彊に劫かさるるのみ。名は覇と為すと雖も、実は天下の心を失ふ。故に曰く其の彊は弱め易しと。今大王誠に能く其の道に反し、天下の武勇に任ぜば、何の誅せざる所あらん。天下の城邑を以て功臣を封ぜば、何の服せざる所あらん。
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『智囊』經務・汪立信・文天祥北人南侵し、文天祥疏を上りて言う、「朝廷は姑息牽制の意多く、奮発剛断の意少なし。乞う、師孟を斬りて鼓に釁り、以て将士の気を作せ」と。且つ言う、「宋は五季の乱に懲り、藩鎮を削り、邑郡を建て、一時は以て尾大の弊を矯むるに足ると雖も、然れども国は変を以て弱まり、故に敵一州に至れば則ち一州破れ、一県に至れば則ち一県残われ、中原陸沈す。痛悔何ぞ及ばん。今宜しく天下を分かちて四鎮と為し、都督を建てて其の中に統御せしむべし。広西を以て湖広に益し、閫を長沙に建つ。広東を以て江西に益し、閫を隆興に建つ。福建を以て江東に益し、閫を番陽に建つ。淮西を以て淮東に益し、閫を揚州に建つ。長沙には鄂を取らしめ、隆興には蘄・黄を取らしめ、番陽には江東を取らしめ、揚州には両淮を取らしむ。其の地をして大きく力をして衆からしめ、以て敵に抗するに足らしめ、日を約して斉しく奮い、進む有りて退く無く、日夜之を図らしめば、彼は備え多く力分かれ、奔命に疲れん。而して吾が民の豪傑なる者、又た間を伺いて其の中より出でん。此の如くんば、則ち敵を却くること難からず」と。〔馮評〕靖康に李綱有るも用いず、而して黄潜善・江伯彦を用う。咸淳に汪立信有るも用いず、而して賈似道を用う。徳祐に文天祥有るも用いず、而して陳宜中を用う。然れば則ち宋は金に衰えず、自ら衰うるなり。元に亡びず、自ら亡ぶるなり。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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『春秋左氏伝』文公三年 秦、西戎に覇たり春、莊叔諸侯の師に會して沈を伐つ、其の楚に服するを以ってなり。沈潰ゆ。凡そ民、其の上を逃るるを潰と曰ひ、上に在るを逃と曰ふ。衛侯陳に如く、晉の成を拜するなり。夏四月、乙亥、王叔文公卒す。來りて赴ぐ。弔すること同盟の如くす、禮なり。秦伯晉を伐つ。河を濟りて舟を焚き、王官及び郊を取る。晉人出でず。遂に茅津より濟り、殽の尸を封じて還る。遂に西戎に霸たり、孟明を用ゐればなり。君子是を以って知る、秦の穆公の君為るや、人を舉ぐることの周きなり、人に與することの壹なるなり。孟明の臣為るや、其の解(おこた)らざるなり、能く懼れて思ふなり。子桑の忠なるや、其の人を知るなり、能く善を舉ぐるなり。《詩》に曰く、「于(ここ)に以って蘩を采る、沼に于てし沚に于てす。于に以って之を用ゐる、公侯の事なり」と。秦の穆之れ有り。「夙夜解らず、以って一人に事ふ」と。孟明之れ有り。「厥の孫謀を詒(のこ)し、以って子を燕翼す」と。子桑之れ有り。秋、宋に螽雨る、隊ちて死するなり。楚の師江を圍む。晉の先僕楚を伐ちて以って江を救ふ。冬、晉江の故を以って周に告ぐ。王叔桓公・晉の陽處父、楚を伐ちて、以って江を救ふ。方城に門し、息の公子朱に遇ひて還る。
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