智囊 / 知微・張方平
富鄭公自亳移汝,過南京。,張安道留守,公來見,坐久之。公徐曰:「人固難知也!」安道曰:「得非王安石乎?亦豈難知者。往年方平知貢舉,或薦安石有文學,宜辟以考校,姑從之。,安石既來,一院之事皆欲紛更,方平惡其人,即檄以出,自此未嘗與語也。」富公有愧色。〔馮述評〕曲逆之宰天下,始於一肉;荊公之紛天下,兆於一院。善觀人者,必於其微。寇準不識丁謂,而王旦識之。富弼、曾公亮不識安石,而張方平、蘇洵、鮮于侁、李師中識之。人各有所明暗也。洵作《辨奸論》,謂安石「不近人情」,侁則以沽激,師中則以眼多白。三人決法不同而皆驗。或薦宋莒公兄弟〔郊、祁〕可大用。昭陵曰:「大者可;小者每上殿,則廷臣無一人是者。」已而莒公果相,景文竟終於翰長。若非昭陵之早識,景文得志,何減荊公!
新字:富鄭公自亳移汝,過南京。,張安道留守,公来見,坐久之。公徐曰:「人固難知也!」安道曰:「得非王安石乎?亦豈難知者。往年方平知貢舉,或薦安石有文学,宜辟以考校,姑従之。,安石既来,一院之事皆欲紛更,方平悪其人,即檄以出,自此未嘗与語也。」富公有愧色。〔馮述評〕曲逆之宰天下,始於一肉;荊公之紛天下,兆於一院。善観人者,必於其微。寇準不識丁謂,而王旦識之。富弼、曽公亮不識安石,而張方平、蘇洵、鮮于侁、李師中識之。人各有所明暗也。洵作《弁奸論》,謂安石「不近人情」,侁則以沽激,師中則以眼多白。三人決法不同而皆験。或薦宋莒公兄弟〔郊、祁〕可大用。昭陵曰:「大者可;小者毎上殿,則廷臣無一人是者。」已而莒公果相,景文竟終於翰長。若非昭陵之早識,景文得志,何減荊公!
書き下し
富鄭公、亳より汝に移るに、南京を過ぐ。張安道留守たり。公来たりて見え、坐すること之を久しくす。公徐ろに曰く、「人は固より知り難きかな。」安道曰く、「王安石のことではありませぬか。何ぞ知り難き者ならんや。往年方平、貢挙を知るに、或る人安石に文学有りと薦め、辟して考校せしむべしと言う。姑く之に従う。安石既に来たるや、一院の事、皆な紛更せんと欲す。方平其の人を悪み、即ち檄して出だし、此れより未だ嘗て与に語らざるなり。」富公愧色有り。〔馮述評〕曲逆の天下に宰たるは一肉に始まり、荊公の天下を紛らすは一院に兆す。善く人を観る者は、必ず其の微に於いてす。寇準は丁謂を識らずして王旦之を識り、富弼・曾公亮は安石を識らずして張方平・蘇洵・鮮于侁・李師中之を識る。人各おの明暗する所有るなり。洵は『弁姦論』を作りて安石を「人情に近からず」と謂い、侁は則ち名を沽り激するを以てし、師中は則ち眼に白多きを以てす。三人の決する法は同じからずして皆な験あり。或いは宋莒公兄弟〔郊・祁〕大いに用うべしと薦む。昭陵曰く、「兄は可なり。弟は上殿する毎に、廷臣一人も是とする者無し。」已にして莒公果たして相となり、景文は竟に翰長に終わる。若し昭陵の早識に非ざれば、景文志を得れば、何ぞ荊公に減ぜん。
現代語訳
富弼が亳州から汝州へ移る途中、南京に立ち寄った。留守の張方平(安道)のもとへ挨拶に行き、しばらく座って話し込んだ。富弼はおもむろに「人というものは、まことに見抜きがたいものだな」と言った。張方平は「王安石のことではありませんか。あの男は決して見抜きにくい人物ではありません。以前私が貢挙を担当したとき、安石には文才があるので採用して答案の審査に当たらせてはと薦める者がいて、ひとまず従いました。ところが安石が来ると、役所の仕事を何もかも変更しようとしました。私はその人柄を嫌い、すぐに文書を出して追い出し、それ以来一度も口をきいていません」と答えた。富弼は恥じ入った顔をした。〔馮夢龍の評〕陳平(曲逆侯)が天下の宰相になる器は、社日の一切れの肉の配り方に現れ、王安石が天下をかき乱すことは、一つの役所での振る舞いに前兆があった。人を見る名人は、必ずほんの小さな兆しで見抜く。寇準は丁謂を見抜けなかったが王旦は見抜き、富弼や曾公亮は安石を見抜けなかったが、張方平・蘇洵・鮮于侁・李師中は見抜いた。人にはそれぞれ明るい所と暗い所があるものだ。蘇洵は『弁姦論』を書いて安石を人情に外れた人物だと言い、鮮于侁は名声を求めて人を驚かす人物だとし、李師中は眼に白目が多いことを理由にした。三人の判断の方法は違ったが、いずれも的中した。また、宋郊・宋祁の兄弟を大いに用いるべきだと薦める者がいた。仁宗は「兄のほうはよい。弟のほうは、御前に出るたびに廷臣の誰一人として良しとしない」と言った。やがて兄の宋庠は果たして宰相となり、弟の景文(宋祁)は翰林学士の長で終わった。もし仁宗の早い見抜きがなかったなら、景文が志を得ていたとして、王安石に何ほども劣らぬ害をなしたであろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』文公三年 秦、西戎に覇たり春、莊叔諸侯の師に會して沈を伐つ、其の楚に服するを以ってなり。沈潰ゆ。凡そ民、其の上を逃るるを潰と曰ひ、上に在るを逃と曰ふ。衛侯陳に如く、晉の成を拜するなり。夏四月、乙亥、王叔文公卒す。來りて赴ぐ。弔すること同盟の如くす、禮なり。秦伯晉を伐つ。河を濟りて舟を焚き、王官及び郊を取る。晉人出でず。遂に茅津より濟り、殽の尸を封じて還る。遂に西戎に霸たり、孟明を用ゐればなり。君子是を以って知る、秦の穆公の君為るや、人を舉ぐることの周きなり、人に與することの壹なるなり。孟明の臣為るや、其の解(おこた)らざるなり、能く懼れて思ふなり。子桑の忠なるや、其の人を知るなり、能く善を舉ぐるなり。《詩》に曰く、「于(ここ)に以って蘩を采る、沼に于てし沚に于てす。于に以って之を用ゐる、公侯の事なり」と。秦の穆之れ有り。「夙夜解らず、以って一人に事ふ」と。孟明之れ有り。「厥の孫謀を詒(のこ)し、以って子を燕翼す」と。子桑之れ有り。秋、宋に螽雨る、隊ちて死するなり。楚の師江を圍む。晉の先僕楚を伐ちて以って江を救ふ。冬、晉江の故を以って周に告ぐ。王叔桓公・晉の陽處父、楚を伐ちて、以って江を救ふ。方城に門し、息の公子朱に遇ひて還る。
-
史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
-
『春秋左氏伝』昭公二十八年 唯だ善の在る所之に縣を與ふと雖も、亦た可ならずや。昔武王商に克ち、光(おほ)いに天下を有つ。其の兄弟の國なる者十有五人、姬姓の國なる者四十人、皆親を舉ぐるなり。夫れ舉ぐるに他無し、唯だ善の在る所なり、親疏一なり。詩に曰く、『唯れ此の文王、帝其の心を度(はか)り、其の德音を莫(さだ)む。其の德克く明らかに、克く明らかに克く類し、克く長じ克く君たり。此の大國に王として、克く順ひ克く比す。文王に比(およ)びて、其の德悔い靡し。既に帝の祉を受け、孫子に施す』と。心能く義を制するを度と曰ひ、德正しくして應和するを莫と曰ひ、四方に照臨するを明と曰ひ、勤施して私無きを類と曰ひ、教誨して倦まざるを長と曰ひ、賞慶刑威あるを君と曰ひ、慈和にして遍く服するを順と曰ひ、善を擇びて之に從ふを比と曰ひ、天地を經緯するを文と曰ふ。九德愆(あやま)たず、事を作して悔い無し。故に天祿を襲(う)け、子孫之に賴る。主の舉ぐるや、文德に近し。及ぶ所其れ遠からんかな」と。賈辛將に其の縣に適かんとし、魏子に見ゆ。魏子曰く、「辛來たれ。昔叔向鄭に適く。
-
『長短経』論士諺に曰く「浴するは必ずしも江海ならず、之を垢を去るに要む。馬は必ずしも騏驥ならず、之を善く走るに要む。士は必ずしも賢ならざるなり、之を道を知るに要む。女は必ずしも貴種ならず、之を貞好に要む」と。何を以て之を明らかにせん。淳于髠、斉の宣王に謂いて曰く「古者は馬を好む、王も亦た馬を好む。古者は味を好む、王も亦た味を好む。古者は色を好む、王も亦た色を好む。古者は士を好む、王独り好まず」と。王曰く「国に士無きのみ。有らば則ち寡人も亦た之を悦ばん」と。髠曰く「古に驊騮有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は馬を好むなり。古に豹象の胎有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は味を好むなり。古に毛嬙・西施有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は色を好むなり。王、必ず堯舜禹湯の士を待ちて而る後に之を好まば、則ち堯舜禹湯の士も、亦た王を好まざらん」と。
-
『長短経』任長管仲曰く「昇降揖譲、進退閑習なるは、臣は隰朋に如かず。請う、立てて以て大行と為せ。土を闢き粟を聚め、地の利を尽くすは、臣は甯戚に如かず。請う、立てて以て司田と為せ。平原広牧、車は轍を結ばず、士は踵を旋らさず、之を鼓して三軍の士、死を視ること帰するが如きは、臣は王子城父に如かず。請う、立てて以て大司馬と為せ。獄を決し中を折り、不辜を殺さず、不罪を誣いざるは、臣は賓胥無に如かず。請う、立てて以て大理と為せ。君の顔色を犯し、諫を進めて必ず忠、死亡を避けず、富貴に撓まざるは、臣は東郭牙に如かず。請う、立てて以て大諫と為せ。君若し国を治め兵を強くせんと欲せば、則ち五子なる者存す。若し覇王たらんと欲せば、則ち夷吾此に在り」と。
-
史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る