智囊 / 迎刃・陳希亮・蘇軾・章綸・姚夔
國朝北方也先,殺其主脫脫不花,自稱大元田盛大可汗,遣使入貢。上命群臣議所以稱之者。禮部郎中章綸言:「可汗,乃戎狄極尊之號,今以號也先則非宜。若止稱太師,恐為之慚忿,犯我邊郵。宜因其部落舊號,稱為瓦剌王,庶幾得體。」從之。大同貓兒莊,本北虜入貢正路。成化初年,使有從他路入者,上因守臣之奏,許之。禮部姚文敏公夔奏請宴賞一切殺禮。虜使不悅。姚諭之云:「故事迤北使臣進貢,俱從正路,朝廷有大禮相待。今爾從小路來,疑非迤北頭目,故只同他處使臣。」虜使不復有言。
新字:国朝北方也先,殺其主脱脱不花,自称大元田盛大可汗,遣使入貢。上命群臣議所以称之者。礼部郎中章綸言:「可汗,乃戎狄極尊之号,今以号也先則非宜。若止称太師,恐為之慚忿,犯我辺郵。宜因其部落旧号,称為瓦剌王,庶幾得体。」従之。大同貓児荘,本北虜入貢正路。成化初年,使有従他路入者,上因守臣之奏,許之。礼部姚文敏公夔奏請宴賞一切殺礼。虜使不悦。姚諭之云:「故事迤北使臣進貢,倶従正路,朝廷有大礼相待。今爾従小路来,疑非迤北頭目,故只同他処使臣。」虜使不復有言。
書き下し
国朝の北方の也先、其の主脱脱不花を殺し、自ら大元田盛大可汗と称し、使を遣わして入貢す。上は群臣に命じて之を称する所以を議せしむ。礼部郎中章綸言う、「可汗は、乃ち戎狄の極尊の号なり。今、以て也先に号するは宜しきに非ず。若し止だ太師と称せば、恐らく之が為に慚忿し、我が辺郵を犯さん。宜しく其の部落の旧号に因り、称して瓦剌王と為せば、庶幾わくは体を得ん」と。之に従う。大同の猫児荘は、本より北虜入貢の正路なり。成化の初年、使いに他路より入る者有り、上は守臣の奏に因りて之を許す。礼部の姚文敏公夔は奏して宴賞は一切殺礼せんことを請う。虜使は悦ばず。姚は之を諭して云う、「故事に迤北の使臣の進貢は、倶に正路より、朝廷に大礼有りて相待つ。今、爾は小路より来たる、迤北の頭目に非ざるを疑う。故に只だ他処の使臣と同じくするのみ」と。虜使は復た言うこと有らず。
現代語訳
我が朝の時代、北方の也先が主君の脱脱不花を殺し、自ら大元田盛大可汗と称し、使者を遣わして入貢してきた。帝は群臣に命じて、彼をどのように呼ぶかを議論させた。礼部郎中の章綸は言った。「可汗は、異民族の最も尊い称号です。いま也先にこの号を与えるのは適切ではありません。もし太師とだけ呼べば、恥じ怒って、我が国の辺境の駅を侵すでしょう。その部族の古い号に従い、瓦剌王と呼べば、体裁にかなうでしょう」。この意見に従った。大同の猫児荘は、もともと北方の異民族が入貢するときの正規の道であった。成化の初め、使者に他の道から入る者がおり、帝は守臣の上奏により許した。礼部の姚夔は上奏して、宴席と賜物をすべて格下げすることを願った。異民族の使者は不満であった。姚は諭して言った。「先例では、北方の使臣の入貢は、みな正規の道から入り、朝廷は大礼で迎える。いま、あなたは小道から来たので、北方の頭目ではないのではと疑う。そのため、他の地の使臣と同じ扱いにするだけだ」。使者はそれ以上何も言わなかった。
解説
この章句が説くこと
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史記 匈奴列伝是に於て孝文帝丞相灌嬰に詔して車騎八万五千を発し、高奴に詣りて、右賢王を撃たしむ。右賢王走りて塞を出づ。文帝太原に幸す。是の時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つの兵を罷む。其の明年、単于漢に書を遺りて曰く、「天の立つる所の匈奴の大単于、敬みて皇帝の恙無きを問ふ。前時皇帝和親の事を言ふ。書の意に称ひ、合歓す。漢の辺吏右賢王を侵侮す。右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ぎ、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。皇帝の譲むる書再び至る。使を発して書を以て報ずるも、来らず。漢の使至らず。漢其の故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るの故を以て、右賢王を罰し、之をして西のかた月氏を求めて之を撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、以て月氏を夷滅し、尽く斬殺して之を降下す。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸々の弓を引くの民、并せて一家と為る。北州已に定まる。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん。未だ皇帝の志を得ざるなり。故に郎中系雩浅をして書を奉じて請はしめ、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝即し匈奴の塞に近づくを欲せずんば、則ち且く吏民に詔して遠く舎せしめん。使者至らば、即ち之を遣れ」と。六月中を以て来りて薪望の地に至る。書至る。漢撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず。撃つべからず。且つ匈奴の地を得るとも、沢鹵にして、居るべきに非ざるなり。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。孝文皇帝の前六年、漢匈奴に書を遺りて曰く、「皇帝敬みて匈奴の大単于の恙無きを問ふ。
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史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。
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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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『講孟余話』梁惠王下 第三章此の章大議論なり、略其の端緒を論ぜん。隣国に交はる、原と是れ諸侯近隣諸国と交はるの道を論ず。然れども昆夷・獯鬻の事を引くを以て、或は錯りて夷狄を待つの道とし、遂に夷狄に事ふるを以て仁智の事とせんことを恐る、是れ細論せずんばあるべからず。凡そ隣国に交はるには親睦を以て主とす。故に力徳義三つの者我に優れる者に在りては、固より奉事すべし。或は力を恃んで強梁なる者ありとも、成る丈は寛仮して敢へて鋒を争はざるべし。若し又小国の如きは愛護して其の他国の侵陵を免れしむべし。凡そ夷狄の陵侮を受け、生民の塗炭となるは、国内相争ふに因る。世道に志ある者、最も意を留むべき事なり。
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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