智囊 / 迎刃・蘇軾・范仲淹
高麗僧壽介狀稱「臨發日,國母令齎金塔祝壽」。東坡見狀,密奏云:「高麗苟簡無禮,若朝廷受而不報,或報之輕,則夷虜得以為詞;若受而厚報之,是以重禮答其無禮之餽也。臣已一面令管勾職員退還其狀,云:『朝廷清嚴,守臣不敢專擅奏聞。』臣料此僧勢不肯已,必云本國遣來獻壽,今茲不奏,歸國得罪不輕。臣欲於此僧狀後判云:『州司不奉朝旨,本國又無來文,難議投進,執狀歸國照會。』如此處分,只是臣一面指揮,非朝廷拒絕其獻,頗似穩便。」范仲淹知延州,移書諭元昊以利害,元昊復書悖慢。仲淹具奏其狀,焚其書,不以上聞。夷簡謂宋庠等曰:「人臣無外交,希文何敢如此?」宋庠意夷簡誠深罪范公遂言「仲淹可斬」。仲淹奏曰:「臣始聞虜悔過,故以書誘諭之;會任福敗,虜勢益振,故復書悖慢。臣以為使朝廷見之而不能討,則辱在朝廷;故對官屬焚之,使若朝廷初不聞者,則辱專在臣矣。」杜衍時為樞密副使,爭甚力,於是罷庠知揚州。而仲淹不問。
新字:高麗僧寿介状称「臨発日,国母令齎金塔祝寿」。東坡見状,密奏云:「高麗苟簡無礼,若朝廷受而不報,或報之軽,則夷虜得以為詞;若受而厚報之,是以重礼答其無礼之餽也。臣已一面令管勾職員退還其状,云:『朝廷清厳,守臣不敢専擅奏聞。』臣料此僧勢不肯已,必云本国遣来献寿,今茲不奏,帰国得罪不軽。臣欲於此僧状後判云:『州司不奉朝旨,本国又無来文,難議投進,執状帰国照会。』如此処分,只是臣一面指揮,非朝廷拒絶其献,頗似穏便。」范仲淹知延州,移書諭元昊以利害,元昊復書悖慢。仲淹具奏其状,焚其書,不以上聞。夷簡謂宋庠等曰:「人臣無外交,希文何敢如此?」宋庠意夷簡誠深罪范公遂言「仲淹可斬」。仲淹奏曰:「臣始聞虜悔過,故以書誘諭之;会任福敗,虜勢益振,故復書悖慢。臣以為使朝廷見之而不能討,則辱在朝廷;故対官属焚之,使若朝廷初不聞者,則辱専在臣矣。」杜衍時為枢密副使,争甚力,於是罷庠知揚州。而仲淹不問。
書き下し
高麗の僧寿介、状に称す、「発つ日に臨み、国母は金塔を齎して祝寿せしむ」と。東坡、状を見て、密かに奏して云う、「高麗は苟簡にして礼無し。若し朝廷が受けて報いず、或いは之に報ゆること軽ければ、則ち夷虜は以て詞と為すを得ん。若し受けて厚く之に報ゆれば、是れ重礼を以て其の無礼の餽に答うるなり。臣は已に一面に管勾職員をして其の状を退還せしめ、『朝廷は清厳にして、守臣は敢えて専擅して奏聞せず』と云わしむ。臣料るに此の僧は勢い已まざらんとし、必ず云わん、本国の遣わして来たりて寿を献ぜしむるに、今茲に奏せずんば、国に帰りて罪を得ること軽からずと。臣は此の僧の状の後に於いて判して云わんと欲す、『州司は朝旨を奉ぜず、本国にも又た来文無し、投進を議し難し、状を執りて国に帰りて照会せよ』と。此くの如く処分すれば、只だ是れ臣の一面の指揮にして、朝廷が其の献を拒絶するに非ず、頗る穏便に似たり」と。范仲淹、延州に知たり、書を移して元昊に利害を諭す。元昊の復書は悖慢なり。仲淹は具さに其の状を奏し、其の書を焚き、上聞せず。夷簡、宋庠らに謂いて曰く、「人臣に外交無し。希文は何ぞ敢えて此くの如きや」と。宋庠は夷簡が誠に深く范公を罪せんと意い、遂に「仲淹は斬る可し」と言う。仲淹奏して曰く、「臣、始め虜が過ちを悔ゆと聞き、故に書を以て誘諭せり。会ま任福敗れ、虜の勢い益ます振るい、故に復書は悖慢なり。臣は、朝廷をして之を見て討つ能わざらしめば、辱は朝廷に在り。故に官属に対して之を焚き、朝廷が初めより聞かざるが若くせしめば、辱は専ら臣に在り、と以為えり」と。杜衍、時に枢密副使たり、争うこと甚だ力む。是に於いて庠を罷めて揚州に知たらしむ。而して仲淹は問わず。
現代語訳
高麗の僧の寿介が文書に書いた。「出発の日に、国母が金の塔を持たせて、祝寿のために届けさせました」と。蘇軾はこの文書を見て、密かに上奏した。「高麗は軽率で礼がありません。もし朝廷が受け取って返礼しない、あるいは返礼が軽ければ、異民族に口実を与えます。もし受け取って厚く返礼すれば、重い礼で相手の無礼な贈り物に答えることになります。私はすでに一方で担当職員にこの文書を突き返させ、『朝廷は清く厳しく、守臣は勝手に上奏できない』と言わせました。思うにこの僧は引き下がらず、必ず、本国が遣わして祝寿を献上させたのに、今ここで上奏されなければ、帰国して重い罪を得ると言うでしょう。私はこの僧の文書の後に判を書こうと思います。『州の役所は朝廷の命を受けておらず、本国からも公文書がないので、献上を取り次ぎ難い。文書を持って帰国して照会せよ』と。このように処置すれば、これは私一人の指示であって、朝廷が献上を拒絶したのではなく、かなり穏便でしょう」。范仲淹は延州の長官であったとき、書簡を送って元昊に利害を諭した。元昊の返書は傲慢無礼だった。仲淹は詳しくその事情を上奏し、その書は焚いて、朝廷には知らせなかった。呂夷簡は宋庠らに言った。「臣下に外交はない。希文はどうしてこのようなことをするのか」。宋庠は夷簡が本当に深く范公を罪しようとしていると思い、「仲淹は斬るべきです」と言った。仲淹は上奏して言った。「私は初め、敵が過ちを悔いたと聞いたので、書簡で諭しました。たまたま任福が敗れ、敵の勢いがいっそう盛んになったので、返書は傲慢でした。私は、朝廷がそれを見ながら討てないなら、恥は朝廷にあると考えました。そこで部下の前で焚き、朝廷が初めから聞いていないようにすれば、恥はもっぱら私にあると思ったのです」。杜衍は当時、枢密副使で、強く争った。そこで宋庠を免じて揚州に赴任させた。仲淹は罪を問われなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 匈奴列伝是に於て孝文帝丞相灌嬰に詔して車騎八万五千を発し、高奴に詣りて、右賢王を撃たしむ。右賢王走りて塞を出づ。文帝太原に幸す。是の時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つの兵を罷む。其の明年、単于漢に書を遺りて曰く、「天の立つる所の匈奴の大単于、敬みて皇帝の恙無きを問ふ。前時皇帝和親の事を言ふ。書の意に称ひ、合歓す。漢の辺吏右賢王を侵侮す。右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ぎ、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。皇帝の譲むる書再び至る。使を発して書を以て報ずるも、来らず。漢の使至らず。漢其の故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るの故を以て、右賢王を罰し、之をして西のかた月氏を求めて之を撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、以て月氏を夷滅し、尽く斬殺して之を降下す。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸々の弓を引くの民、并せて一家と為る。北州已に定まる。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん。未だ皇帝の志を得ざるなり。故に郎中系雩浅をして書を奉じて請はしめ、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝即し匈奴の塞に近づくを欲せずんば、則ち且く吏民に詔して遠く舎せしめん。使者至らば、即ち之を遣れ」と。六月中を以て来りて薪望の地に至る。書至る。漢撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず。撃つべからず。且つ匈奴の地を得るとも、沢鹵にして、居るべきに非ざるなり。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。孝文皇帝の前六年、漢匈奴に書を遺りて曰く、「皇帝敬みて匈奴の大単于の恙無きを問ふ。
-
史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。
-
史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
-
『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
-
『講孟余話』梁惠王下 第三章此の章大議論なり、略其の端緒を論ぜん。隣国に交はる、原と是れ諸侯近隣諸国と交はるの道を論ず。然れども昆夷・獯鬻の事を引くを以て、或は錯りて夷狄を待つの道とし、遂に夷狄に事ふるを以て仁智の事とせんことを恐る、是れ細論せずんばあるべからず。凡そ隣国に交はるには親睦を以て主とす。故に力徳義三つの者我に優れる者に在りては、固より奉事すべし。或は力を恃んで強梁なる者ありとも、成る丈は寛仮して敢へて鋒を争はざるべし。若し又小国の如きは愛護して其の他国の侵陵を免れしむべし。凡そ夷狄の陵侮を受け、生民の塗炭となるは、国内相争ふに因る。世道に志ある者、最も意を留むべき事なり。
-
史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る