智囊 / 通簡・趙豫
趙豫為松江府太守。每見訟者非急事,則諭之曰:「明日來。」始皆笑之,故有「松江太守明日來」之謠。不知訟者來,一時之忿,經宿氣平,或眾為譬解,因而息者多矣。比之鉤鉅致人而自為名者。其所存何啻霄壤?〔馮述評〕李若谷教一門人云:「清勤和緩。」門人曰:「清、勤、和,則既聞命矣,緩安可為也?」李公曰:「天下甚事不自忙裡錯的?」「明日來」一語,不但自不錯,並欲救人之錯。〔按:是時周侍郎忱為巡撫。凡有經畫,必與趙豫議之。意亦取其詳審乎?〕陸子靜九淵知荊門軍。嘗夜與僚屬坐,吏白老者訴甚急,呼問之,體戰,言不可解;俾吏狀之,謂其子為群卒所殺。陸判「翌日至」。僚屬怪之。陸曰:「子安知不在?」凌晨追究,其子蓋無恙也。此亦能緩之效。然唯能勤而後能緩;不然,則廢事耳。
新字:趙予為松江府太守。毎見訟者非急事,則諭之曰:「明日来。」始皆笑之,故有「松江太守明日来」之謡。不知訟者来,一時之忿,経宿気平,或衆為譬解,因而息者多矣。比之鉤鉅致人而自為名者。其所存何啻霄壤?〔馮述評〕李若谷教一門人云:「清勤和緩。」門人曰:「清、勤、和,則既聞命矣,緩安可為也?」李公曰:「天下甚事不自忙裡錯的?」「明日来」一語,不但自不錯,並欲救人之錯。〔按:是時周侍郎忱為巡撫。凡有経画,必与趙予議之。意亦取其詳審乎?〕陸子静九淵知荊門軍。嘗夜与僚属坐,吏白老者訴甚急,呼問之,体戦,言不可解;俾吏状之,謂其子為群卒所殺。陸判「翌日至」。僚属怪之。陸曰:「子安知不在?」凌晨追究,其子蓋無恙也。此亦能緩之効。然唯能勤而後能緩;不然,則廃事耳。
書き下し
趙豫、松江府の太守と為る。訟うる者の急事に非ざるを見る毎に、則ち之を諭して曰く、「明日来たれ」と。始め皆之を笑い、故に「松江の太守は明日来たれ」の謡有り。知らず、訟うる者の来たるは一時の忿りにして、宿を経れば気平らぎ、或いは衆が為に譬解して、因りて息む者多きを。鉤鉅して人を致し自ら名を為す者に比ぶれば、其の存する所は何ぞ啻に霄壌のみならんや。〔馮述評〕李若谷、一門人に教えて云う、「清勤和緩」と。門人曰く、「清・勤・和は則ち既に命を聞けり、緩は安んぞ為す可けんや」と。李公曰く、「天下の甚事か忙しき裡より錯らざる」と。「明日来たれ」の一語は、但だ自ら錯らざるのみならず、並びに人の錯りを救わんと欲す。〔按ずるに、是の時周侍郎忱は巡撫たり。凡そ経画有れば、必ず趙豫と之を議す。意は亦た其の詳審を取るか。〕陸子静九淵、荊門軍に知たり。嘗て夜、僚属と坐す。吏、老いたる者が訴うること甚だ急なりと白す。呼びて之を問えば、体戦き、言は解す可からず。吏をして之を状せしむれば、其の子が群卒に殺されたりと謂う。陸は「翌日至れ」と判す。僚属之を怪しむ。陸曰く、「子の安くんぞ在らざるを知らんや」と。凌晨に追究すれば、其の子は蓋し恙無し。此れ亦た能く緩にするの効なり。然れども唯だ能く勤めて而る後に能く緩にす。然らざれば、則ち事を廃するのみ。
現代語訳
趙豫は松江府の太守であった。訴え出る者を見て、急ぎの用でなければ、いつも「明日来なさい」と諭した。はじめは皆これを笑い、「松江の太守は明日来い」という俗謡までできた。しかし知らないのだ、訴えに来る者は一時の怒りに駆られているだけで、一晩たてば気が静まり、あるいは周囲が取りなして、それで収まる例が多いことを。細かい手練手管で人を引き寄せ、名声を得ようとする者と比べれば、その心がけの差は天と地どころではない。〔馮述評〕李若谷がある門人に「清・勤・和・緩」と教えた。門人は「清・勤・和は承知しましたが、緩はどうして実行できましょう」と言った。李公は言った。「世の中のどんな失敗が、慌てた中から出ないものがあるか」。「明日来い」の一言は、自分が誤らないだけでなく、人の誤りまで救おうとするものである。〔按ずるに、この時、周侍郎忱が巡撫であった。およそ計画があれば、必ず趙豫と相談した。その詳しく慎重な点を取ったのであろうか。〕陸子静こと九淵が荊門軍の長官であったとき、夜に部下と座っていた。役人が、老人が急いで訴え出ていると告げた。呼んで尋ねたが、老人は体が震え、言葉も聞き取れない。役人に書面にさせると、息子が兵士たちに殺されたと言う。陸は「明日来なさい」と書き付けた。部下はこれを怪しんだ。陸は言った。「息子が無事でないと、どうして分かろうか」。翌朝早く調べると、息子はたしかに無事であった。これもまた、ゆっくり構えることの効果である。ただし、よく勤めてこそゆっくり構えることができる。そうでなければ、仕事を投げ出すだけである。
解説
この章句が説くこと
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