長短経 / 臣行
奇䇿泉涌遂東説孫權、北抗大魏、以乗勝之師、翼佐取蜀。及𤣥徳臨終、禪以大位、在擾攘之際、立童䝉之主、設官分職、班叙衆才、文以治内、武以折衝然後布其恩澤於國中之人。其行軍也、路不拾遺、毫毛不犯。勲業垂濟而隕。勸其遺文、謨謀𢎞逺矣。已有功則讓于下、下有闕則躬自咎。見善則遷、納諫則改、故聲烈震遐邇也。孟子曰、『聞伯夷之風、貪夫自廉。』余以為覩孔明之忠、奸臣立節。殆將與伊、吕争烈豈徒以樂毅為伍哉?”〕
新字:奇策泉涌遂東説孫権、北抗大魏、以乗勝之師、翼佐取蜀。及玄徳臨終、禅以大位、在擾攘之際、立童䝉之主、設官分職、班叙衆才、文以治内、武以折衝然後布其恩沢於国中之人。其行軍也、路不拾遺、毫毛不犯。勲業垂済而隕。勧其遺文、謨謀弘遠矣。已有功則譲于下、下有闕則躬自咎。見善則遷、納諫則改、故声烈震遐邇也。孟子曰、『聞伯夷之風、貪夫自廉。』余以為睹孔明之忠、奸臣立節。殆将与伊、呂争烈豈徒以楽毅為伍哉?”〕
書き下し
奇策泉のごとく涌き、遂に東のかた孫権に説き、北のかた大魏に抗す。乗勝の師を以て、翼佐して蜀を取る。玄徳の臨終に及び、禅るに大位を以てす。擾攘の際に在りて、童蒙の主を立て、官を設け職を分かち、衆才を班叙す。文以て内を治め、武以て衝を折く。然る後に其の恩沢を国中の人に布く。其の軍を行るや、路に遺を拾わず、毫毛も犯さず。勲業垂れ済らんとして隕つ。其の遺文を勧むるに、謨謀弘遠なり。已に功有れば則ち下に譲り、下に闕有れば則ち躬ら自ら咎む。善を見れば則ち遷り、諫を納るれば則ち改む。故に声烈は遐邇に震うなり。孟子曰く『伯夷の風を聞けば、貪夫も自ら廉なり』と。余、以為えらく、孔明の忠を覩れば、奸臣も節を立つ。殆ど将に伊・呂と烈を争わんとす。豈に徒だ楽毅を以て伍と為さんや」と。〕
現代語訳
奇抜な策が泉のように湧き、ついに東では孫権を説得し、北では大魏に抗した。勝ちに乗じた軍で、助けて蜀を取った。劉備の臨終にあたって、帝位を譲ると言われた。混乱のさなかにあって、幼い主君を立て、官を設け職を分け、多くの人材を序列づけた。文で内を治め、武で外敵を折いた。そうしてから恩沢を国じゅうの人に広めた。軍を動かすときは、道に落ちているものを拾わず、髪の毛一本も侵さなかった。功業が成るまぎわに没した。その遺した文を読めば、はかりごとは遠大である。功があれば下に譲り、下に落ち度があれば自ら咎めを負った。善を見れば移り、諌めを容れれば改めた。だから名声は遠近に響いた。孟子はこう言った。『伯夷の風を聞けば、貪欲な者も自ら清廉になる』。私はこう思う。孔明の忠を見れば、奸臣でさえ節を立てる。おそらく伊尹や呂望と功業を争うほどである。どうして楽毅を同列とできよう」。〕
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』臣行〔或るひと曰く「楽毅は弱燕に相たり、強斉を破り、五国の兵を合わせ、君王の恥を雪ぐ。城を囲みて急に攻めず、将に道窮まりて義服せしめんとす。則ち仁者の師なり。咸な以て武侯に謨謀勝ると為す。可なるか」と。張輔曰く「夫れ五国の兵を以て共に一斉を伐つは、強しと為すに足らず。大いに済西に戦い、尸を伏せ血を流すは、仁と為すに足らず。彼の孔明は文武の徳を包み、長嘯して時を俟つ。劉玄徳は人を知るの明を以て、屢しば其の廬に造り、咨るに済世を以てす。
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『長短経』君徳「劉公は劉璋を待つに賓礼を以てし、諸葛に委ねて疑わず。人君の徳、斯に於て美と為す。彼の孔明なる者は、命世の奇才、伊・呂の儔匹なり。臣主心を同じくし、魚水を譬えと為す。但だ国小さく兵弱く、一隅に斗絶し、二方に支対し、上国に抗衡するを以てす。若し曹公と地を易えて処らしめ、其の長算を騁せ、関・張の武を肆にし、諸葛の文を尽くさしめば、則ち覇王の業成らん」と。「孫主は厥の兄の資に因り、前朝の佐を用い、介するに天険を以てす。僅かに自ら存するを得たり。二人に比ぶれば、理として逮ぶ能わず」と。
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『長短経』君徳〔呉の張儼の黙記に、諸葛亮・司馬宣王二相の優劣を論じて曰く「漢朝傾覆し天下分崩す。二公並びに際会に遭値し、身を明主に託す。孔明は蜀漢の地に起こり、一州の土を蹈む。之を大国に方ぶれば、蓋し九分の一有るなり。歩卒数万を提げ、祁山に長駆し、慨然として馬に河雒に飲ましむるの志有り。仲達は天下十倍の地に拠り、兼并の衆を仗み、牢城に拠り、精鋭を擁す。而れども敵を擒にするの意無く、務めて自ら保つのみ。彼の孔明をして此くの若くにして亡びざらしめば、則ち涼・雍は甲を解かず、中国は鞍を釈かざらん。勝負の勢い、亦た已に決せり。之を司馬に方ぶれば、亦た優らずや」と。〕
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『長短経』君徳〔陳寿云う「劉備の機権幹略は、魏武に逮ばず。基宇も亦た狭き所以なり」と。張輔曰く「何ぞ其れ然らん。夫れ乱を撥むるの主は、当に先ず相を収め将を獲るを以て本と為すべし。一身善く戦うは、恃むに足らざるなり。諸葛孔明は礼に達し変を知る。殆ど王佐の才なり。玄徳に強盛の勢い無くして、而も委質せしむ。関侯・張飛は皆な人傑なり。服して之を使う。夫れ明暗は相い用を為さず、能否は相い使を為さず。武帝は安強に処ると雖も、之が用を為さざるなり。況んや危急の間に在るをや。若し玄徳をして中州を拠有せしめば、将に周室と隆を比せんとす。豈に徒だ二傑のみならんや」と。
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『長短経』三国権時に司徒華歆・司空王朗等、諸葛亮に書を与え、天命を陳べて、国を挙げて藩と称せしめんと欲す。亮、書に答えず、正議を作りて曰く「昔、項羽に在りては、起こるに徳に由らず。華夏に処り、帝者の勢いを秉ると雖も、卒に湯鑊に就き、後来の戒めと為る。魏は審らかに鑑みず、今之に次ぐ。身を免るるを幸いと為すも、戒めは子孫に在り。而るに二三子、多く蘇・張の詭靡の説を逞しくし、驩兜の滔天の辞を奉進し、以て唐帝を誣毀し、禹・稷を諷解せんと欲す。所謂徒に文藻を懐き、翰墨を煩労するもの、大雅の君子の為さざる所なり。又た軍志に曰く『万人必死なれば、天下に横行す』と。昔、軒轅氏は卒数万を整えて、四方を制し海内を定む。況んや数十万の衆を以て、正道に拠りて有罪に臨むをや。干擬すべけんや」と。亮死して後、魏は鄧艾をして蜀を伐たしめ、蜀兵敗る。後主、譙周の策を用いて魏に降る。
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『長短経』臣行諸葛亮、馬謖の街亭に敗るるを以て、之を殺す。後に蔣琬、亮に謂いて曰く「昔、楚は得臣を殺し、然る後に文公の喜び知る可し。天下未だ定まらずして、智計の士を戮す。豈に惜しからずや」と。亮、涕を流して曰く「孫武の能く勝を制する所以の者は、法を用うること明らかなればなり。是を以て楊干、法を乱し、魏絳之を戮す。四海分裂し、兵交わること方に始まる。若し復た法を廃せば、何を用てか賊を討たんや」と。習鑿歯曰く「諸葛亮の上国を兼ぬる能わざるは、豈に宜ならずや。夫れ晋人は林父の後に済すを視る。故に法を廃して功を収む。楚の成は得臣の己を益するに闇し。故に之を殺して以て敗を重ぬ。今、蜀は一方に僻陋にして、才は上国に少なし。而るに其の駿傑を殺し、退きて駑下の用を収む。法を明らかにして才に勝つ。三敗の道に師らず。将に以て業を成さんとす。亦た難からずや」と。