智囊 / 遠猶・喻樗
張濬與趙鼎同志輔治,務在塞幸門、抑近習,相得甚歡。人知其將並相,史館校勘喻樗獨曰:「二人宜且同在樞府,他日趙退則張繼之,立事任人,未甚相遠,則氣脈長。若同在相位,萬一不合而去,則必更張,是賢者自相悖戾矣。」〔馮述評〕曹可以繼蕭,費、董可以繼諸葛,此君子所以自衍其氣脈也。若乃不貴李責力,以遺孝和;不貴張齊賢,以遺真廟。是人主自以私恩為市,非帝王之公矣。
新字:張濬与趙鼎同志輔治,務在塞幸門、抑近習,相得甚歓。人知其将並相,史館校勘喩樗独曰:「二人宜且同在枢府,他日趙退則張継之,立事任人,未甚相遠,則気脈長。若同在相位,万一不合而去,則必更張,是賢者自相悖戻矣。」〔馮述評〕曹可以継蕭,費、董可以継諸葛,此君子所以自衍其気脈也。若乃不貴李責力,以遺孝和;不貴張斉賢,以遺真廟。是人主自以私恩為市,非帝王之公矣。
書き下し
張濬と趙鼎は志を同じくして治を輔け、務めて幸門を塞ぎ近習を抑うるに在り、相い得ること甚だ歓ぶ。人は其の将に並びに相たらんとするを知る。史館校勘喻樗、独り曰く、「二人は宜しく且つ同じく枢府に在るべし。他日、趙退かば則ち張之に継ぎ、事を立て人を任ずること、未だ甚だしくは相い遠からざれば、則ち気脈長し。若し同じく相位に在りて、万一合わずして去らば、則ち必ず更張す。是れ賢者自ら相い悖戻するなり」と。〔馮述評〕曹は以て蕭に継ぐべく、費・董は以て諸葛に継ぐべし。此れ君子の自ら其の気脈を衍ぶる所以なり。乃ち李を貴ばず力を責め、以て孝和に遺し、張斉賢を貴ばず、以て真廟に遺すが若きは、是れ人主自ら私恩を以て市を為し、帝王の公に非ざるなり。
現代語訳
張濬と趙鼎は志を同じくして政治を補佐し、賄賂の門を塞ぎ、君主の側近を抑えることに努め、たいへん気が合っていた。人々は二人が同時に宰相になるだろうと思った。史館校勘の喻樗だけが言った。「二人はしばらく一緒に枢密院にいるべきです。のちに趙鼎が退けば張濬がその後を継ぎ、事を立て人を任用することが、あまり違わなければ、政治の気脈が長く続きます。もし同時に宰相の地位にいて、万一不和になって去れば、必ず大きく変更が行われます。それでは賢者同士が自ら互いに背くことになります」。〔馮夢龍の評〕曹参は蕭何を継ぐことができ、費禕と董允は諸葛亮を継ぐことができた。これは君子が自ら政治の気脈を伸ばす所以である。ところが、李沆を重んじずに力を責め、孝和皇帝(章帝か)に遺し、張斉賢を重んじなかったことを真宗に遺したなどという場合は、君主自らが私的な恩を売り物にしたもので、帝王の公のあり方ではない。
解説
この章句が説くこと
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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『南洲翁遺訓』第一条廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を蹈み、広く賢人を選挙し、能く其の職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認る以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之れを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之れを愛し置くものぞと申さるるに付、然らば『尚書』仲虺之誥に「徳懋んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対するは此の義にて候ひしやと請問せしに、翁欣然として、其の通りぞと申されき。
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『智囊』集哲・李文姬李固がすでに策免されると、禍を免れぬことを知り、二子を郷里に帰らせた。時に燮は十三歳、姉の文姫は同郡の趙伯英の妻で、賢くて智があった。二兄の帰るのを見て、ことの本末を知り、黙然として独り悲しみ、言った、「李氏は滅びる。太公以来、徳を積み仁を累ねてきたのに、どうしてこのようなことに遭うのか。」密かに二兄と謀り、あらかじめ燮を隠し、京師に還ると托言したので、人は皆これを信じた。ほどなく難が起こり、郡に下って固の三子を捕らえ、二兄は害を受けた。文姫は父の門生王成に告げた、「君は義を執って先公に仕え、古人の節がある。いま六尺の孤を君に託します。李氏の存滅は君にかかっています。」成はその義に感じ、燮を連れて江を下り、徐州の界内に入り、姓名を変えて酒屋の雇人とさせ、自分は市で卜を売った。名は異居としながら、陰で往来し、燮は学を受けた。酒屋の主はこれを怪しみ、尋常の人ではないと思い、娘を燮に妻わせた。燮は経学に専心した。十余年のあいだに梁冀が誅され、災異がしばしば現れ、翌年、史官が上言した、「赦令を出すべきで、また冤死した大臣の子孫を存録すべきです。」ここに天下に大赦し、あわせて固の後嗣を求めた。燮は本末を酒屋の主に告げ、主は車を整えて厚く贈ったが、皆受けなかった。郷里に還り、姉弟は相見えて、悲しみは傍らの人を感動させた。やがて燮を戒めて言った、「先公は正直で、漢の忠臣であったのに、朝廷の傾乱に遭い、梁冀が虐を恣にして、我が宗祀の血食を絶やそうとした。いま弟が幸いに生き延びたのは、天ではないか。衆人との交わりを絶ち、みだりに往来してはならない。慎んで梁氏に一言も加えてはならない。梁氏に加えれば主上に連なり、禍が重ねて至る。ただ咎を引き受けるのみである。」
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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