智囊 / 遠猶・李沆
李沆為相,王旦參知政事,以西北用兵,或至旰食。旦歎曰:「我輩安能坐致太平,得優游無事耶!」沆曰:「少有憂勤,足為警戒。他日四方寧謐,朝廷未必無事。語曰:『外寧必有內憂。』譬人有疾,常在目前,則知憂而治之。沆死,子必為相,遽與虜和親,一朝疆埸無事,恐人主漸生侈心耳!」旦未以為然。沆又日取四方水旱、盜賊及不孝惡逆之事奏聞,上為之變色,慘然不悅。旦以為:「細事不足煩上聽,且丞相每奏不美之事,拂上意。」沆曰:「人主少年,當使知四方艱難,常懷憂懼。不然,血氣方剛,不留意聲色狗馬,則土木、甲兵、禱祠之事作矣。吾老不及見,此參政他日之憂也。」沆沒後,真宗以契丹既和,西夏納款,遂封岱、祠汾,大營宮殿,搜講墜典,靡有暇日。旦親見王欽若、丁謂等所為,欲諫,則業已同之。欲去,則上遇之厚,乃知沆先識之遠,歎曰:「李文靖真聖人也!」
新字:李沆為相,王旦参知政事,以西北用兵,或至旰食。旦嘆曰:「我輩安能坐致太平,得優游無事耶!」沆曰:「少有憂勤,足為警戒。他日四方寧謐,朝廷未必無事。語曰:『外寧必有内憂。』譬人有疾,常在目前,則知憂而治之。沆死,子必為相,遽与虜和親,一朝疆埸無事,恐人主漸生侈心耳!」旦未以為然。沆又日取四方水旱、盗賊及不孝悪逆之事奏聞,上為之変色,惨然不悦。旦以為:「細事不足煩上聴,且丞相毎奏不美之事,払上意。」沆曰:「人主少年,当使知四方艱難,常懐憂懼。不然,血気方剛,不留意声色狗馬,則土木、甲兵、祷祠之事作矣。吾老不及見,此参政他日之憂也。」沆没後,真宗以契丹既和,西夏納款,遂封岱、祠汾,大営宮殿,捜講墜典,靡有暇日。旦親見王欽若、丁謂等所為,欲諫,則業已同之。欲去,則上遇之厚,乃知沆先識之遠,嘆曰:「李文靖真聖人也!」
書き下し
李沆、相たり、王旦、参知政事たり。西北に兵を用うるを以て、或いは旰食に至る。旦歎じて曰く、「我が輩、安んぞ坐して太平を致し、優游として事無きを得んや」と。沆曰く、「少しく憂勤有るは、警戒と為すに足る。他日四方寧謐ならば、朝廷未だ必ずしも事無からず。語に曰く、『外寧ければ必ず内憂有り』と。譬えば人に疾有り、常に目前に在れば、則ち憂うるを知りて之を治む。沆死せば、子必ず相と為り、遽かに虜と和親し、一朝にして疆埸事無くんば、恐らくは人主漸く侈心を生ぜんのみ」と。旦、未だ以て然りとせず。沆又日々四方の水旱、盗賊、及び不孝悪逆の事を取りて奏聞し、上之が為に色を変え、惨然として悦ばず。旦以為えらく、「細事は上聴を煩わすに足らず、且つ丞相、毎に不美の事を奏するは、上意に払う」と。沆曰く、「人主は少年なり、当に四方の艱難を知らしめ、常に憂懼を懐かしむべし。然らずんば、血気方に剛にして、声色・狗馬に意を留めざれば、則ち土木・甲兵・禱祠の事作らん。吾老いて見るに及ばず、此れ参政の他日の憂いなり」と。沆没して後、真宗、契丹既に和し、西夏款を納るるを以て、遂に岱に封じ汾に祠り、大いに宮殿を営み、墜典を捜講し、暇日有る靡し。旦、親しく王欽若・丁謂らの所為を見て、諫めんと欲すれば、則ち業に已に之に同じ。去らんと欲すれば、則ち上の遇すること厚し。乃ち沆の先識の遠きを知り、歎じて曰く、「李文靖は真の聖人なり」と。
現代語訳
李沆が宰相、王旦が参知政事だったとき、西北で戦いが続き、朝廷は遅い夕食になるほど忙しかった。王旦は嘆いた。「私たちはいつになったら座っていて太平を招き、のんびり無事に過ごせるのだろう」。李沆は言った。「少し苦労があるくらいが、ちょうどよい戒めになる。いつか四方が静まったら、朝廷はむしろ無事ではいられなくなる。諺に『外が安らかなら必ず内に憂いが生まれる』という。病人にたとえれば、病気がいつも目の前にあれば、心配して治療する。私が死んだら、君が必ず宰相になるだろうが、すぐに異民族と和睦して国境が静まり、君主が次第におごりの心を生むことが心配だ」。王旦はそれを受け入れなかった。李沆はまた毎日、各地の水害や干ばつ、盗賊、親不孝や悪逆の事件を選んで報告し、皇帝は顔色を変えて沈み込んだ。王旦は「些細な事で陛下を煩わせる必要はないし、宰相が毎回不快な報告ばかりするのは陛下の意に逆らう」と思った。李沆は言った。「君主はお若い。天下の苦難を知らせ、いつも畏れ慎む心を持たせるべきだ。そうでなければ血気盛んな年頃で、音楽や女色、犬や馬に気を向けなければ、土木工事や軍事、祈祷の事業を始めるだろう。私は年老いて見られないが、これは君の将来の憂いだ」。李沆の没後、真宗は契丹と和睦し、西夏が帰順したことから、泰山で封禅を行い汾陰で祭祀し、大いに宮殿を造営し、廃れた儀礼を探し出して復活させ、暇がなかった。王旦は王欽若や丁謂らのやり方を目の当たりにし、諫めようとしたがすでに自分も同調してしまっていた。辞職しようとしたが、皇帝の厚遇があった。そこで李沆の先見の深さを悟り、「李文靖は本当に聖人だ」と嘆いた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公七年 猶ほ鐘声を聞く秋、邾を伐ち、范門に及ぶ。猶ほ鍾聲を聞く。大夫諫むるも、聽かず。茅成子、吳に告げんことを請ふ。許さずして曰く、「魯は柝を擊てば邾に聞こゆ。吳は二千里、三月ならずんば至らず。何ぞ我に及ばん。且つ國內豈に足らざらんや」と。成子、茅を以て叛く。師遂に邾に入り、其の公宮に處る。眾師晝に掠む。邾の眾は繹に保つ。師宵に掠む。邾子益を以て來り、亳社に獻じ、諸を負瑕に囚ふ。負瑕、故に繹有り。邾の茅夷鴻、束帛乘韋を以て、自ら救ひを吳に請ひて曰く、「魯は晉を弱しとして吳を遠しとし、其の眾を馮恃して君の盟に背き、君の執事を辟(さ)けて、以て我が小國を陵ぐ。邾は敢へて自ら愛むに非ず。君の威の立たざるを懼るるなり。君の威の立たざるは、小國の憂ひなり。若し夏に鄫衍に盟ひて、秋にして之に背き、求むるを成して違はずんば、四方の諸侯、其れ何を以てか君に事へん。且つ魯の賦は八百乘、君の貳なり。邾の賦は六百乘、君の私なり。私を以て貳に奉ずるは、唯だ君之を圖れ」と。吳子之に從ふ。宋人曹を圍む。鄭の桓子思曰く、「宋人曹を有たば、鄭の患ひなり。以て救はざるべからず」と。
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『春秋左氏伝』成公七年 懼るるを知る七年春、吳郯を伐つ。郯成す。季文子曰く、「中國旅を振るはず、蠻夷入りて伐つ。而して之を或いは恤ふる莫し。弔ふ者無きなり夫。詩に曰く、『昊天に弔(いた)まれず、亂定まる靡し』と。其れ此の謂か。上に弔はざる有らば、其れ誰か亂を受けざらん。吾が亡ぶること日無からん」と。君子曰く、「懼るるを知ること是くの如くならば、斯に亡びず」と。鄭の子良成公に相として以て晉に如きて見え、且つ師を拜す。夏、曹の宣公來朝す。秋、楚の子重鄭を伐ち、氾に師す。諸侯鄭を救ふ。鄭の共仲・侯羽、楚の師に軍し、鄖公鍾儀を囚へて、諸を晉に獻ず。
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『講孟余話』公孫丑上 第四章此の章両つの「是の時に及びて」の語を下す。朱註並びに「惟れ日も足らざるの意」と云ふ、最も妙なり、味はふべし。今や東墨西欧駸々として来り逼る、官皆枉げて其の意に適従す。輿地図を披きて是れを検するに、蝦夷のクシュンコタン既に魯人の城塁を築く。松前の箱館、伊豆の下田已に墨人の互市場となる。肥前の長崎、暗払の来航頻々なり。其の他武蔵の神奈川、志摩の鳥羽、摂津の難波等、夷人已に去ると雖も、腥膻の気汗染して未だ去らず。然らば則ち神州の其の汗を受けざる者幾許ぞや。事已に茲に至る、間暇又幾時ぞや。幸に今数年の災を紓ぶ、実は不治の病を護す。是の時に乗じ惟れ日も足らずとして、日夜刻苦勉励、上に在りては其の政教を修め、士大夫に在りては其の学芸を錬り、農工商賈は各々其の業を勤め、務めて牖戸を綢繆し、下民の侮を禦ぐべし。然るに今は然らず、是の時に乗じ惟れ日も足らず日夜般楽怠敖すること何事ぞや。古今同慨なるかな。
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『春秋左氏伝』定公六年 乃ち今為すべし四月己丑、吳の大子終纍、楚の舟師を敗り、潘子臣・小惟子及び大夫七人を獲。楚國大いに惕れ、亡びんことを懼る。子期、又陵師を以て繁揚に敗る。令尹子西、喜びて曰く、「乃ち今為すべし」と。是に於いてか郢を鄀に遷して、其の政を改紀し、以て楚國を定む。周の儋翩、王子朝の徒を率ゐ、鄭人に因りて將に以て亂を周に作さんとす。鄭、是に於いてか馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外を伐つ。六月、晉の閻沒、周を戍り、且つ胥靡に城く。
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『宋名臣言行録』前集巻九・田錫蘇軾、公の奏議に序して曰く、太平興國より以来、咸平に至るまで、天下大治と謂う可し。而して田公の言、常に不測の憂いの近く朝夕に在る有るが若きは何ぞや。古の君子は必ず治世を憂えて明主を危ぶむ。明主は絶人の資有りて、治世は畏る可きの防無し。夫れ絶人の資有らば必ず其の臣を輕んじ、畏る可きの防無くんば必ず其の民を易る。此れ君子の甚だ懼るる所なり。漢の文の時に方たり、刑措きて用いず、兵革試みず。而して賈誼の言に曰く、天下に長太息す可き者有り、流涕す可き者有り、痛哭す可き者有りと。後世、是を以て漢の文を少とせず。亦た是を以て賈誼を甚とせず。此れに由りて之を觀れば、君子の治世に遇いて明主に事うる、法、當に是くの如くなるべきなり。
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『韓非子』解老第二十人禍有れば則ち心畏恐し、心畏恐すれば則ち行い端直に...行い端直なれば則ち思慮熟し、思慮熟すれば則ち事理を得、事理を得れば則ち必ず功を成す。
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