宋名臣言行録 / 前集巻九・田錫
蘇軾序公奏議曰自太平興國以來至於咸平可謂天下大治而田公之言常若有不測之憂近在朝夕者何哉古之君子必憂治世而危明主明主有絶人之資而治世無可畏之防夫有絶人之資必輕其臣無可畏之防必易其民此君子所甚懼也方漢文時刑措不用兵革不試而賈誼之言曰天下有可長太息者有可流涕者有可痛哭者後世不以是少漢文亦不以是甚賈誼由此觀之君子之遇治世而事明主法當如是也
新字:蘇軾序公奏議曰自太平興国以来至於咸平可謂天下大治而田公之言常若有不測之憂近在朝夕者何哉古之君子必憂治世而危明主明主有絶人之資而治世無可畏之防夫有絶人之資必軽其臣無可畏之防必易其民此君子所甚懼也方漢文時刑措不用兵革不試而賈誼之言曰天下有可長太息者有可流涕者有可痛哭者後世不以是少漢文亦不以是甚賈誼由此観之君子之遇治世而事明主法当如是也
書き下し
蘇軾、公の奏議に序して曰く、太平興國より以来、咸平に至るまで、天下大治と謂う可し。而して田公の言、常に不測の憂いの近く朝夕に在る有るが若きは何ぞや。古の君子は必ず治世を憂えて明主を危ぶむ。明主は絶人の資有りて、治世は畏る可きの防無し。夫れ絶人の資有らば必ず其の臣を輕んじ、畏る可きの防無くんば必ず其の民を易る。此れ君子の甚だ懼るる所なり。漢の文の時に方たり、刑措きて用いず、兵革試みず。而して賈誼の言に曰く、天下に長太息す可き者有り、流涕す可き者有り、痛哭す可き者有りと。後世、是を以て漢の文を少とせず。亦た是を以て賈誼を甚とせず。此れに由りて之を觀れば、君子の治世に遇いて明主に事うる、法、當に是くの如くなるべきなり。
現代語訳
蘇軾が公の奏議に序を書いて言った。「太平興国から咸平に至るまで、天下は大いに治まっていたといえる。それなのに田公の言葉が、いつも測り知れない憂いが朝夕のうちに迫っているかのようなのは、どうしてか。古の君子は必ず治まった世を憂え、明君を危ぶむ。明君には人並みはずれた資質があり、治まった世には畏れるべき備えが無い。そもそも人並みはずれた資質があれば、必ずその臣を軽んじる。畏れるべき備えが無ければ、必ずその民を侮る。これが君子のたいそう恐れるところである。漢の文帝の時に当たって、刑は置かれて用いられず、武具は試されなかった。それなのに賈誼の言葉に『天下に長い溜め息をつくべきことがあり、涙を流すべきことがあり、痛哭すべきことがある』とある。後世の人は、それによって漢の文帝を低く見ることもなく、それによって賈誼を極端だとすることもない。これによって見れば、君子が治まった世に遇って明君に仕えるやり方は、当然このようであるべきなのだ」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『講孟余話』公孫丑上 第四章此の章両つの「是の時に及びて」の語を下す。朱註並びに「惟れ日も足らざるの意」と云ふ、最も妙なり、味はふべし。今や東墨西欧駸々として来り逼る、官皆枉げて其の意に適従す。輿地図を披きて是れを検するに、蝦夷のクシュンコタン既に魯人の城塁を築く。松前の箱館、伊豆の下田已に墨人の互市場となる。肥前の長崎、暗払の来航頻々なり。其の他武蔵の神奈川、志摩の鳥羽、摂津の難波等、夷人已に去ると雖も、腥膻の気汗染して未だ去らず。然らば則ち神州の其の汗を受けざる者幾許ぞや。事已に茲に至る、間暇又幾時ぞや。幸に今数年の災を紓ぶ、実は不治の病を護す。是の時に乗じ惟れ日も足らずとして、日夜刻苦勉励、上に在りては其の政教を修め、士大夫に在りては其の学芸を錬り、農工商賈は各々其の業を勤め、務めて牖戸を綢繆し、下民の侮を禦ぐべし。然るに今は然らず、是の時に乗じ惟れ日も足らず日夜般楽怠敖すること何事ぞや。古今同慨なるかな。
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『春秋左氏伝』成公七年 懼るるを知る七年春、吳郯を伐つ。郯成す。季文子曰く、「中國旅を振るはず、蠻夷入りて伐つ。而して之を或いは恤ふる莫し。弔ふ者無きなり夫。詩に曰く、『昊天に弔(いた)まれず、亂定まる靡し』と。其れ此の謂か。上に弔はざる有らば、其れ誰か亂を受けざらん。吾が亡ぶること日無からん」と。君子曰く、「懼るるを知ること是くの如くならば、斯に亡びず」と。鄭の子良成公に相として以て晉に如きて見え、且つ師を拜す。夏、曹の宣公來朝す。秋、楚の子重鄭を伐ち、氾に師す。諸侯鄭を救ふ。鄭の共仲・侯羽、楚の師に軍し、鄖公鍾儀を囚へて、諸を晉に獻ず。
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『春秋左氏伝』哀公七年 猶ほ鐘声を聞く秋、邾を伐ち、范門に及ぶ。猶ほ鍾聲を聞く。大夫諫むるも、聽かず。茅成子、吳に告げんことを請ふ。許さずして曰く、「魯は柝を擊てば邾に聞こゆ。吳は二千里、三月ならずんば至らず。何ぞ我に及ばん。且つ國內豈に足らざらんや」と。成子、茅を以て叛く。師遂に邾に入り、其の公宮に處る。眾師晝に掠む。邾の眾は繹に保つ。師宵に掠む。邾子益を以て來り、亳社に獻じ、諸を負瑕に囚ふ。負瑕、故に繹有り。邾の茅夷鴻、束帛乘韋を以て、自ら救ひを吳に請ひて曰く、「魯は晉を弱しとして吳を遠しとし、其の眾を馮恃して君の盟に背き、君の執事を辟(さ)けて、以て我が小國を陵ぐ。邾は敢へて自ら愛むに非ず。君の威の立たざるを懼るるなり。君の威の立たざるは、小國の憂ひなり。若し夏に鄫衍に盟ひて、秋にして之に背き、求むるを成して違はずんば、四方の諸侯、其れ何を以てか君に事へん。且つ魯の賦は八百乘、君の貳なり。邾の賦は六百乘、君の私なり。私を以て貳に奉ずるは、唯だ君之を圖れ」と。吳子之に從ふ。宋人曹を圍む。鄭の桓子思曰く、「宋人曹を有たば、鄭の患ひなり。以て救はざるべからず」と。
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『春秋左氏伝』定公六年 乃ち今為すべし四月己丑、吳の大子終纍、楚の舟師を敗り、潘子臣・小惟子及び大夫七人を獲。楚國大いに惕れ、亡びんことを懼る。子期、又陵師を以て繁揚に敗る。令尹子西、喜びて曰く、「乃ち今為すべし」と。是に於いてか郢を鄀に遷して、其の政を改紀し、以て楚國を定む。周の儋翩、王子朝の徒を率ゐ、鄭人に因りて將に以て亂を周に作さんとす。鄭、是に於いてか馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外を伐つ。六月、晉の閻沒、周を戍り、且つ胥靡に城く。
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『智囊』遠猶・李沆李沆、相たり、王旦、参知政事たり。西北に兵を用うるを以て、或いは旰食に至る。旦歎じて曰く、「我が輩、安んぞ坐して太平を致し、優游として事無きを得んや」と。沆曰く、「少しく憂勤有るは、警戒と為すに足る。他日四方寧謐ならば、朝廷未だ必ずしも事無からず。語に曰く、『外寧ければ必ず内憂有り』と。譬えば人に疾有り、常に目前に在れば、則ち憂うるを知りて之を治む。沆死せば、子必ず相と為り、遽かに虜と和親し、一朝にして疆埸事無くんば、恐らくは人主漸く侈心を生ぜんのみ」と。旦、未だ以て然りとせず。沆又日々四方の水旱、盗賊、及び不孝悪逆の事を取りて奏聞し、上之が為に色を変え、惨然として悦ばず。旦以為えらく、「細事は上聴を煩わすに足らず、且つ丞相、毎に不美の事を奏するは、上意に払う」と。沆曰く、「人主は少年なり、当に四方の艱難を知らしめ、常に憂懼を懐かしむべし。然らずんば、血気方に剛にして、声色・狗馬に意を留めざれば、則ち土木・甲兵・禱祠の事作らん。吾老いて見るに及ばず、此れ参政の他日の憂いなり」と。沆没して後、真宗、契丹既に和し、西夏款を納るるを以て、遂に岱に封じ汾に祠り、大いに宮殿を営み、墜典を捜講し、暇日有る靡し。旦、親しく王欽若・丁謂らの所為を見て、諫めんと欲すれば、則ち業に已に之に同じ。去らんと欲すれば、則ち上の遇すること厚し。乃ち沆の先識の遠きを知り、歎じて曰く、「李文靖は真の聖人なり」と。
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論語・泰伯篇子曰く、『学ぶこと及ばざるが如く、なおこれを失うことを恐る。』

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