智囊 / 見大・劉溫叟・衛青・程信
開寶三年,劉溫叟為御史中丞。一日晚過明德門,帝方與黃門數人登樓,溫叟知之,令傳呼依常而過。翌日請對,言:「人主非時登樓,則下必希望恩賞,臣所以呵道而過,欲示眾以陛下非時不登樓也。」帝善之。大將軍青兵出定襄。蘇建、趙信並軍三千餘騎,獨逢單于兵。與戰一日,兵且盡,信降單于,建獨身歸青。議郎周霸曰:「自大將軍出,未嘗斬裨將。今建棄軍,可斬以明將軍之威。」長史安曰:「不然,建以數千卒當虜數萬,力戰一日,士皆不敢有二心。自歸而斬之,是示後無反意也,不當斬。」青曰:「青以肺腑待罪行間,不患無威,而霸說我以明威,甚失臣意;且使臣職雖當斬將,以臣之尊寵而不敢專誅於境外,其歸天子,天子自裁之,於以風為人臣者不敢專權,不亦可乎?」遂囚建詣行在,天子果赦不誅。〔馮述評〕衛青握兵數載,寵任無比,而上不疑,下不忌,唯能避權遠嫌故。不然,雖以狄樞使之功名,猶不克令終,可不戒歟?
新字:開宝三年,劉温叟為御史中丞。一日晩過明徳門,帝方与黄門数人登楼,温叟知之,令伝呼依常而過。翌日請対,言:「人主非時登楼,則下必希望恩賞,臣所以呵道而過,欲示衆以陛下非時不登楼也。」帝善之。大将軍青兵出定襄。蘇建、趙信並軍三千余騎,独逢単于兵。与戦一日,兵且尽,信降単于,建独身帰青。議郎周覇曰:「自大将軍出,未嘗斬裨将。今建棄軍,可斬以明将軍之威。」長史安曰:「不然,建以数千卒当虜数万,力戦一日,士皆不敢有二心。自帰而斬之,是示後無反意也,不当斬。」青曰:「青以肺腑待罪行間,不患無威,而覇説我以明威,甚失臣意;且使臣職雖当斬将,以臣之尊寵而不敢専誅於境外,其帰天子,天子自裁之,於以風為人臣者不敢専権,不亦可乎?」遂囚建詣行在,天子果赦不誅。〔馮述評〕衛青握兵数載,寵任無比,而上不疑,下不忌,唯能避権遠嫌故。不然,雖以狄枢使之功名,猶不克令終,可不戒歟?
書き下し
開宝三年、劉温叟、御史中丞たり。一日、晩に明徳門を過ぐるに、帝は方に黄門数人と楼に登る。温叟これを知り、伝呼して常に依りて過ぎしむ。翌日、対を請いて言う、「人主、時に非ずして楼に登らば、則ち下は必ず恩賞を希望す。臣の呵道して過ぎし所以は、衆に陛下の時に非ざれば楼に登らざることを示さんと欲すればなり」と。帝これを善しとす。大将軍の青、兵を定襄に出す。蘇建・趙信は軍を並べて三千余騎、独り単于の兵に逢う。戦うこと一日、兵且に尽きんとして、信は単于に降り、建は独身にて青に帰す。議郎の周霸曰く、「大将軍の出でてより、未だ嘗て裨将を斬らず。今、建、軍を棄つ。斬りて以て将軍の威を明らかにすべし」と。長史の安曰く、「然らず。建は数千の卒を以て虜の数万に当たり、力戦すること一日、士は皆な敢えて二心有らず。自ら帰りてこれを斬らば、是れ後に反意無きを示すなり。斬るべからず」と。青曰く、「青は肺腑を以て罪を行間に待つ。威無きを患えず。而るに霸は我に説くに威を明らかにするを以てす。甚だ臣の意を失う。且つ臣の職は斬将に当たると雖も、臣の尊寵を以てして敢えて境外に専誅せず。その天子に帰して、天子自ずからこれを裁せば、以て人臣為る者の敢えて専権せざるに風するに、亦た可ならずや」と。遂に建を囚えて行在に詣らしむ。天子は果たして赦して誅せず。〔馮述評〕衛青、兵を握ること数載、寵任は比び無きも、上は疑わず、下は忌まざるは、唯だ能く権を避け嫌いを遠ざくるが故なり。然らずんば、狄枢使の功名を以てすと雖も、猶お令終を克くせず。戒めざるべけんや。
現代語訳
開宝三年、劉温叟は御史中丞でした。ある日の夕方、明徳門を通りかかると、皇帝がちょうど宦官数人と楼に登っていました。温叟はそれに気づいて、先触れをいつもどおりにさせて通り過ぎました。翌日、拝謁を願って言いました。「君主が時節外れに楼に登れば、下の者は必ず恩賞を期待します。私が先払いをして通り過ぎたのは、人々に、陛下が時節でなければ楼に登らないことを示したかったからです。」皇帝はこれをよしとしました。大将軍の衛青が兵を率いて定襄に出ました。蘇建と趙信は軍を合わせて三千余騎で、たまたま単于の軍に遭遇しました。一日戦い、兵はほとんど尽きて、趙信は単于に降り、蘇建はただ一人で衛青のもとに帰りました。議郎の周霸は言いました。「大将軍が出陣してから、副将を斬ったことはありません。いま蘇建は軍を捨てて帰りました。斬って将軍の威を明らかにすべきです。」長史の安は言いました。「いけません。蘇建は数千の兵で敵の数万に当たり、一日力戦し、兵士たちはみな二心を抱きませんでした。自ら帰ってきた者を斬れば、後の者に帰ってくる気をなくさせます。斬ってはなりません。」衛青は言いました。「私は外戚として将軍の任にあり、威がないことを心配していない。ところが周霸は、威を明らかにせよと私に勧める。それは私の考えに大いに反する。しかも、私の職務は将を斬ることに当たるとしても、私の尊い寵遇をもってしても、あえて国境の外で独断で処刑するようなことはしない。天子に帰して、天子が自ら裁かれれば、臣下として勝手に権力を振るわない姿勢を示せる。それでよいではないか。」ついに蘇建を囚えて天子の行在所に送りました。天子は果たして赦して処刑しませんでした。〔馮夢龍の評〕衛青は数年にわたって兵権を握り、並ぶ者のない寵愛を受けましたが、上は疑わず、下は妬まなかったのは、ひとえに権力を避け、疑いを遠ざけたからです。そうでなければ、枢密使の狄青のような功名があったとしても、安らかな最期を迎えられなかったでしょう。戒めずにいられましょうか。
解説
この章句が説くこと
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史記 衛将軍驃騎列伝其の秋、匈奴代に入り、都尉朱英を殺す。其の明年春、大将軍青定襄より出づ。合騎侯敖中将軍と為り、太僕賀左将軍と為り、翕侯趙信前将軍と為り、衛尉蘇建右将軍と為り、郎中令李広後将軍と為り、右内史李沮彊弩将軍と為り、咸大将軍に属し、首を斬ること数千級にして還る。月余にして、悉く復た定襄より出でて匈奴を撃ち、首虜を斬ること万余人。右将軍建・前将軍信軍を并すること三千余騎、独り単于の兵に逢ひ、与に戦ふこと一日余、漢の兵且に尽きんとす。前将軍は故の胡人にして、降りて翕侯と為る。急なるを見て、匈奴之を誘ふ。遂に其の余騎八百可りを将ゐて、奔りて単于に降る。右将軍蘇建尽く其の軍を亡ひ、独り身を以て亡げ去るを得て、自ら大将軍に帰る。大将軍其の罪を正閎・長史安・議郎周霸等に問ふ、「建は当に云何すべき」と。霸曰く、「大将軍の出でしより、未だ嘗て裨将を斬らず。今建軍を棄つ。斬りて以て将軍の威を明らかにすべし」と。閎・安曰く、「然らず。兵法に『小敵の堅は、大敵の禽なり』と。今建は数千を以て単于の数万に当たり、力戦すること一日余、士尽くるも、敢へて二心有らず、自ら帰る。自ら帰りて之を斬るは、是れ後に反る意無からしむるを示すなり。当に斬るべからず」と。大将軍曰く、「青幸ひに肺腑を以て罪を行間に待つを得たり。威無きを患へず。而るに霸我に説くに威を明らかにするを以てするは、甚だ臣の意を失ふ。且つ臣の職をして将を斬るに当たると雖も、臣の尊寵を以てして敢へて自ら擅に誅を境外に専らにせず、而して具に天子に帰し、天子自ら之を裁かば、是に於て以て人臣為りて敢へて権を専らにせざるを見す。亦可ならずや」と。軍吏皆曰く「善し」と。遂に建を囚へて行在所に詣る。塞に入りて兵を罷む。是の歳や、大将軍の姊の子霍去病年十八、幸せられて、天子の侍中と為る。
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史記 衛将軍驃騎列伝太史公曰く、蘇建余に語りて曰く、「吾嘗て大将軍の至って尊重にして、天下の賢大夫の称する毋きを責め、願はくは将軍古の名将の招選する所の賢者を観て、之を勉めよと(言へり)。大将軍謝して曰く、『魏其・武安の賓客を厚くせしより、天子常に歯を切す。彼の士大夫に親附し、賢を招き不肖を絀くるは、人主の柄なり。人臣は法を奉じ職を遵ふのみ、何ぞ士を招くに与らんや』と」と。驃騎も亦た此の意に放ふ、其の将たること此くのごとし。
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『智囊』見大・劉溫叟・衛青・程信狄青、枢密使たり、自ら功有るを恃み、頗る驕蹇にして、士卒を怙惜し、衣糧を得る毎に、皆な曰く、「此れ狄家の爺爺の賜う所なり」と。朝廷これを患う。時に文潞公、国に当たり、建言して両鎮の節使を以てこれを出さんとす。青は自ら功無くして鎮節を受け、罪無くして外藩に出ると陳ぶ。仁宗も亦た以て然りと為し、潞公に此の語を述べ、且つ狄青は忠臣なりと言う。潞公曰く、「太祖は豈に周の世宗の忠臣に非ずや。但だ軍心を得たれば、陳橋の変有る所以なり」と。上は黙然たり。青は猶お未だ知らず、中書に到りて自ら弁ず。潞公は直視して曰く、「他無し。朝廷、爾を疑うなり」と。青は驚怖し、却行すること数歩。青、鎮に在りては、月ごとに両たび中使を遣わして撫問せしむ。青は中使の来たるを聞けば、輒ち驚疑すること終日、半年ならずして、病作りて卒す。皆な潞公の謀なり。休寧の程公信、南司馬と為りて川貴に征するに、詔して便宜の権を公に付す。公は兵を発してより凱旋するに至るまで、一人にも爵せず、一人をも殺さず。同事の者以て言を為す。公曰く、「刑賞は、人主の大柄なり。閫外の事、集まらざるを懼れて、これを人臣に仮す。幸いにして事集まれば、又た窃かにこれを弄ぶ。豈に人臣の誼ならんや」と。論者は以て古の名臣の言なりと為す。
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史記 衛将軍驃騎列伝塞に至る。天子使者をして大将軍の印を持たしめ、即ち軍中に車騎将軍青を拝して大将軍と為す。諸将皆兵を以て大将軍に属す。大将軍号を立てて帰る。天子曰く、「大将軍青躬ら戎士を率ゐ、師大いに捷ち、匈奴の王十有余人を獲たり。青に六千戸を益封す」と。而して青の子伉を封じて宜春侯と為し、青の子不疑を陰安侯と為し、青の子登を発干侯と為す。青固く謝して曰く、「臣幸ひに罪を行間に待つを得、陛下の神霊に頼りて、軍大いに捷つ。皆諸校尉力戦の功なり。陛下幸ひに已に臣青を益封す。臣青の子は繦緥の中に在り、未だ勤労有らず。上幸ひに地を列して封じて三侯と為すは、臣の罪を行間に待ちて士を勧めて力戦せしむる所以の意に非ざるなり。伉等三人何ぞ敢へて封を受けん」と。天子曰く、「我諸校尉の功を忘るるに非ざるなり。今固より且に之を図らんとす」と。乃ち御史に詔して曰く、「護軍都尉公孫敖三たび大将軍に従ひて匈奴を撃ち、常に軍を護り、校に傅きて王を獲たり。千五百戸を以て敖を封じて合騎侯と為す。都尉韓説大将軍に従ひて窳渾より出で、匈奴の右賢王の庭に至り、麾下の為に搏戦して王を獲たり。千三百戸を以て説を封じて龍頟侯と為す。騎将軍公孫賀大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て賀を封じて南窌侯と為す。軽車将軍李蔡再び大将軍に従ひて王を獲たり。千六百戸を以て蔡を封じて楽安侯と為す。校尉李朔、校尉趙不虞、校尉公孫戎奴、各々三たび大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て朔を封じて渉軹侯と為し、千三百戸を以て不虞を封じて随成侯と為し、千三百戸を以て戎奴を封じて従平侯と為す。将軍李沮・李息及び校尉豆如意功有り、爵関内侯を賜ひ、食邑各々三百戸」と。
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史記 淮南衡山列伝王又被に謂ひて曰く、「山東即し兵有らば、漢必ず大将軍をして将として山東を制せしめん、公以為へらく大将軍は何如なる人ぞ」と。被曰く、「被の善くする所の者黄義、大将軍に従ひて匈奴を撃ち、還りて、被に告げて曰く、『大将軍士大夫を遇するに礼有り、士卒に於いて恩有り、衆皆之が用を為すを楽しむ。騎して山を上下すること蜚ぶが若く、材幹人に絶す』と。被以為へらく材能此くの如く、数々将として兵を習ふ、未だ当たり易からざるなりと。謁者曹梁長安に使ひして来たるに及び、言ふ大将軍号令明らかにして、敵に当たりて勇敢、常に士卒の先と為る。休舎するに、井を穿ちて未だ通ぜざれば、士卒の尽く水を得るを須ちて、乃ち敢て飲む。軍罷むるに、卒尽く已に河を度りて、乃ち度る。皇太后の賜ふ所の金帛、尽く以て軍吏に賜ふ。古の名将と雖も過ぎざるなりと」と。王黙然たり。淮南王建の已に徴されて治めらるるを見、国の陰事の且に覚られんとするを恐れ、発せんと欲す、被又以て難しと為す、乃ち復た被に問ひて曰く、「公以為へらく呉の兵を興すは是か非か」と。被曰く、「以て非と為すなり。呉王は富貴を至むるなり、事を挙げて当たらず、身は丹徒に死し、頭足処を異にし、子孫遺類無し。臣聞く呉王之を悔ゆること甚しと。願はくは王孰く之を慮り、呉王の悔ゆる所を為す無かれ」と。王曰く、「男子の死する所の者は一言のみ。且つ呉何ぞ反を知らん、漢の将一日に成皋を過ぐる者四十余人。今我楼緩をして先づ成皋の口を要せしめ、周被をして潁川の兵を下して轘轅・伊闕の道を塞がしめ、陳定をして南陽の兵を発して武関を守らしめん。河南の太守独り雒陽有るのみ、何ぞ憂ふるに足らん。然れども此の北に尚ほ臨晋関・河東・上党と河内・趙国と有り。人言ひて曰く『成皋の口を絶たば、天下通ぜず』と。三川の険に拠り、山東の兵を招き、事を挙ぐること此くの如し、公以為へらく何如」と。被曰く、「臣其の禍を見るも、未だ其の福を見ざるなり」と。
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史記 衛将軍驃騎列伝大将軍既に還るや、千金を賜ふ。是の時王夫人方に上に幸せらる、甯乘大将軍に説きて曰く、「将軍の功未だ甚だ多からずして、身萬戸を食み、三子皆侯為る所以の者は、徒だ皇后の故を以てなり。今王夫人幸せられて宗族未だ富貴ならず、願はくは将軍賜ふ所の千金を奉じて王夫人の親の為に寿せよ」と。大将軍乃ち五百金を以て寿と為す。天子之を聞き、大将軍に問ふ、大将軍実を以て言ふ、上乃ち甯乘を拝して東海都尉と為す。
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