智囊 / 見大・唐高祖
李淵克霍邑。行賞時,軍吏擬奴應募,不得與良人同。淵曰:「矢石之間,不辨貴賤;論勛之際,何有等差?宜並從本勛授。」引見霍邑吏民,勞賞於西河,選其壯丁,使從軍。關中軍士欲歸者,並授五品散官,遣歸。或諫以官太濫,淵曰:「隋氏吝惜勛賞,致失人心,奈何效之?且收眾以官,不勝於用兵乎?」
新字:李淵克霍邑。行賞時,軍吏擬奴応募,不得与良人同。淵曰:「矢石之間,不弁貴賤;論勛之際,何有等差?宜並従本勛授。」引見霍邑吏民,労賞於西河,選其壮丁,使従軍。関中軍士欲帰者,並授五品散官,遣帰。或諫以官太濫,淵曰:「隋氏吝惜勛賞,致失人心,奈何効之?且収衆以官,不勝於用兵乎?」
書き下し
李淵、霍邑に克つ。行賞の時、軍吏は奴の募に応ずるものを擬して、良人と同じくするを得ずとす。淵曰く、「矢石の間は、貴賤を弁ぜず。論勲の際に、何ぞ等差有らん。宜しく並びに本勲に従いて授くべし」と。霍邑の吏民を引見し、西河に労賞し、その壮丁を選びて、軍に従わしむ。関中の軍士の帰らんと欲する者には、並びに五品の散官を授けて遣り帰す。或いは諫むるに官の太だ濫なるを以てす。淵曰く、「隋氏は勲賞を吝惜し、人心を失うを致す。奈何ぞこれに效わんや。且つ衆を収むるに官を以てするは、兵を用うるに勝らずや」と。
現代語訳
李淵(のちの唐の高祖)が霍邑を攻め落としました。恩賞を与えるとき、軍の役人は、奴隷の身分で応募した者は良民と同じ扱いにできないとしました。李淵は言いました。「矢や石が飛び交うなかでは、身分の貴賤は問わない。功績を論じるときに、どうして等級の差を設けるのか。みな本人の功績に従って授けよ。」霍邑の役人や民衆を引見し、西河でねぎらい賞を与え、その壮健な男子を選んで軍に従わせました。関中の兵士で帰郷を望む者には、いずれも五品の散官を授けて帰しました。ある者が、官職を乱発しすぎだと諫めました。李淵は言いました。「隋は恩賞を惜しんで、人心を失った。どうしてそれに倣うのか。それに、官職で人々を集めるのは、兵を使って戦うよりずっとよいのではないか。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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老子・第3章賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。欲すべきを見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治は、其の心を虚しくし、其の腹を実たし、其の志を弱くし、其の骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、夫の智者をして敢えて為さざらしむ。無為を為せば、則ち治まらざる無し。
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『智囊』武案・任瑰・唐太宗「我れ坐して日月を費やさば、衆心離れ沮み、則ち大事去らん。且つ関中蜂起の将、未だ属する所有らず、早く懐けざるべからず。屈突通は自ら虜を守るのみ、慮りとするに足らず」と。会々久しく雨ふり、淵進むこと能わず、軍中糧に乏し。劉文静兵を始畢可汗に請い、未だ返らず、或いは突厥と劉武周と虚に乗じて晋陽を襲わんと伝う。淵還りて根本を救わんと欲す。世民曰く、「今禾菽野を被う、何ぞ乏糧を憂えん。老生は軽躁、一戦して擒にすべし。李密は倉粟を顧恋し、未だ遠略に遑あらず。武周と突厥とは外は相附くと雖も、内は実に相猜う。武周遠く太原を利すと雖も、豈に近く馬邑を忘れんや。本と大義を興し、身を顧みず奮いて以て蒼生を救う、当に先ず咸陽に入り天下に号令すべし。今小敵に遇いて遂に已に師を班す。恐らくは義に従うの徒、一朝にして解体し、還りて太原一城の地を守らば、賊と為るのみ、何を以て自ら全うせん」と。淵聴かず。世民将に復た入りて諫めんとするも、会々淵已に寝ね、入るを得ず、外に号哭す。声帳中に聞こゆ。淵召して之を問う。世民曰く、「今兵は義を以て動く、進み戦えば則ち克ち、退き還れば則ち散ず。衆前に散じ、敵後に乗ぜば、死亡日無し、何ぞ悲しまざるを得ん」と。淵乃ち悟りて曰く、「兵已に発す、奈何せん」と。世民曰く、「右軍厳にして未だ発せず、左軍去ること亦た未だ遠からず。請う自ら之を追わん」と。乃ち建成と道を分かちて夜進み、左軍を追いて復た還らしむ。已にして太原の運糧も亦た至る。老生を誘いて戦い、之を斬る。日已に暮れ、攻城の具無く、将士肉薄して登り、遂に霍邑に克つ。
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『智囊』億中・李泌・李絳制命、魏州に至り、興は感泣して涕を流し、士衆は鼓舞せざる無し。李絳又た言う、「魏博は五十餘年、皇化に沾わず、一旦六州の地を挙げて来り帰す。河朔の腹心を刳り、叛乱の巣穴を傾く。重賞の其の望みを過ぐる有らずんば、則ち以て士卒の心を慰め、四鄰をして勧慕せしむる無し。請う、内庫の銭百五十万緡を発して以て之に賜わんことを」と。左右の宦官以て太だ多しと為す。絳曰く、「田興は専地の利を貪らず、四鄰の患いを顧みず、命を聖朝に帰す。陛下奈何ぞ小費を愛しみて大計を遺れ、以て一道の人心を収めざるや。借使い国家が十五万の兵を発して以て六州を取り、期年にして之に克たば、其の費豈に唯だ百五十万緡のみならんや」と。上悦びて曰く、「朕の悪衣菲食して、貨財を蓄聚する所以は、正に四方を平定せんが為なり。然らずんば、徒だ之を府庫に貯えて何をか為さん」と。即ち知制誥裴度を遣わして魏博に至り宣慰せしめ、銭百五十万を以て軍士を賞し、六州の百姓は復を給すること一年なり。軍士賜を受け、歓声雷の如し。成徳・兗鄆の使者数輩、之を見て相い顧みて色を失い、歎じて曰く、「倔強にして果たして何の益あらんや」と。李泌嘗て言う、「善く敵を料る者は、将を料りて兵を料らず」と。泌の陝城を策し、絳の魏博を揣るは、皆な将を料るの法なり。
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『長短経』懼戒隋の煬帝初め唐の高祖を猜忌す。之を知りて、常に危懼を懐く〔唐公、太原留守と為る。煬帝遼東より還り、唐公を徴して行在所に詣らしむ。患いに遇いて瘳えず、未だ時に謁するを得ず。唐公の外甥王氏、後宮に充選せらる。煬帝問いて曰く「汝の舅の来たること何ぞ遅き」と。甥、実を以て対う。帝曰く「死を得べきや否や」と。高祖之を知り、毎に危懼を懐くなり〕。太原留守と為り、討撃利あらざるを以て、煬帝の譴むる所と為らんことを恐れ、甚だ之を憂う。時に太宗従いて軍中に在り、隋の将に亡びんとするを知り、潜かに義挙を図り、以て天下を安んぜんとす。乃ち進みて曰く「大人何ぞ之を憂うることの甚だしきや。当今、主上無道にして、百姓愁怨し、城門の外は皆已に賊と為る。独り小節を守らば、必ず且に旦暮に死亡せんとす。若し義兵を起こさば、実に人の欲に当たる。且つ晋陽は用武の地にして、食足り兵足る。大人之に居るは、此れ乃ち天授なり。正に機に因りて禍を転じ、以て功業に就くべし。既に天与うるに取らずんば、之を憂うるも何の益かあらん」と。
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『長短経』懼戒裴寂の計を用い、伊尹の太甲を放ち、霍光の昌邑を廃する故事に准い、煬帝を尊びて太上皇と為し、代王侑を立てて以て隋室を安んじ、檄を諸郡に伝えて、以て義挙を彰らかにす。秋七月、精甲三万を以て、西のかた関中を図る。高祖白旗に仗り、衆に太原の野に誓い、師を引きて路に即き、遂に隋族を亡ぼし、我が区夏を造る。
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