智囊 / 武案・任瑰・唐太宗
李淵兵發晉陽,入臨汾,去霍邑五十餘里。隋將宋老生帥精兵二萬屯霍邑,大將軍屈突通將驍騎數萬屯河東以拒淵。諸將請先攻河東,任瑰說淵曰:「關中豪傑皆企踵以待義兵。瑰在馮翊積年,知其豪傑,請往諭之,必從風而靡。義師自梁山濟河,指韓城,逼郃陽,蕭造文吏,必望塵請服。然後鼓行而進,直據永豐。雖未得長安,關中固已定矣。」裴寂曰:「屈突通擁眾據城,吾舍之而去,若進攻長安不克,退為河東所踵,腹背受敵,此危道也。」李世民曰:「不然。兵貴神速,吾席累勝之威,撫歸附之眾,鼓行而西,長安之人,望風震駭,智不及謀,勇不及斷,取之若振槁葉耳!若淹留時日,敝於堅城之下,彼得成謀修備以待;
新字:李淵兵発晋陽,入臨汾,去霍邑五十余里。隋将宋老生帥精兵二万屯霍邑,大将軍屈突通将驍騎数万屯河東以拒淵。諸将請先攻河東,任瑰説淵曰:「関中豪傑皆企踵以待義兵。瑰在馮翊積年,知其豪傑,請往諭之,必従風而靡。義師自梁山済河,指韓城,逼郃陽,蕭造文吏,必望塵請服。然後鼓行而進,直拠永豊。雖未得長安,関中固已定矣。」裴寂曰:「屈突通擁衆拠城,吾舎之而去,若進攻長安不克,退為河東所踵,腹背受敵,此危道也。」李世民曰:「不然。兵貴神速,吾席累勝之威,撫帰附之衆,鼓行而西,長安之人,望風震駭,智不及謀,勇不及断,取之若振槁葉耳!若淹留時日,敝於堅城之下,彼得成謀修備以待;
書き下し
李淵の兵、晋陽より発し、臨汾に入る。霍邑を去ること五十余里。隋将の宋老生、精兵二万を帥いて霍邑に屯す。大将軍の屈突通、驍騎数万を将いて河東に屯し、以て淵を拒ぐ。諸将、先に河東を攻めんことを請う。任瑰、淵に説きて曰く、「関中の豪傑は皆な踵を企てて義兵を待つ。瑰は馮翊に在ること積年、其の豪傑を知る。請う往きて之を諭さん。必ず風に従いて靡かん。義師、梁山より河を濟り、韓城を指し、郃陽に逼らば、蕭造は文吏なり。必ず塵を望みて服を請わん。然る後に鼓行して進み、直ちに永豊に拠らば、未だ長安を得ずと雖も、関中固より已に定まらん」と。裴寂曰く、「屈突通は衆を擁して城に拠る。吾之を舎てて去り、若し長安に進攻して克たず、退けば河東に踵せられ、腹背に敵を受く。此れ危道なり」と。李世民曰く、「然らず。兵は神速を貴ぶ。吾は累勝の威に席り、帰附の衆を撫して、鼓行して西せば、長安の人は風を望んで震駭し、智は謀るに及ばず、勇は断ずるに及ばず。之を取ること槁葉を振うが若きのみ。若し時日を淹留し、堅城の下に敝れば、彼は謀を成し備えを修めて以て待つを得ん。
現代語訳
李淵の軍は晋陽を出発し、臨汾に入った。霍邑まで五十余里であった。隋の将、宋老生は精兵二万を率いて霍邑に駐屯していた。大将軍の屈突通は、驍騎数万を率いて河東に駐屯し、李淵を防いだ。諸将は、先に河東を攻めることを願い出た。任瑰は李淵に説いて言った。「関中の豪傑は皆、つま先立ちをして義兵を待っています。私は馮翊に長年いて、その豪傑たちを知っています。どうか私に行って諭させてください。必ず風になびくように従います。義軍が梁山から黄河を渡り、韓城を目指し、郃陽に迫れば、蕭造は文官ですから、必ず塵を望んで降伏を願うでしょう。その後、鼓を鳴らして進み、まっすぐ永豊に拠れば、まだ長安を得ていなくても、関中はすでに定まります」。裴寂は言った。「屈突通は大軍を擁して城に拠っています。我々がこれを捨てて去り、もし長安を攻めて落とせず、退けば河東の軍に後ろから迫られ、前後に敵を受けます。これは危険な道です」。李世民は言った。「そうではありません。軍は神速を貴びます。私たちは連勝の威勢に乗り、帰順した者たちをなだめ、鼓を鳴らして西へ向かえば、長安の人は風を望んで震え上がり、知恵は謀るに及ばず、勇気は決断するに及びません。これを取るのは枯れ葉を振り払うほど簡単です。もし時間を延ばして、堅い城の下で疲れ果てれば、彼らは謀を整え備えを修めて待ち受けることになります。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』武案・任瑰・唐太宗「我れ坐して日月を費やさば、衆心離れ沮み、則ち大事去らん。且つ関中蜂起の将、未だ属する所有らず、早く懐けざるべからず。屈突通は自ら虜を守るのみ、慮りとするに足らず」と。会々久しく雨ふり、淵進むこと能わず、軍中糧に乏し。劉文静兵を始畢可汗に請い、未だ返らず、或いは突厥と劉武周と虚に乗じて晋陽を襲わんと伝う。淵還りて根本を救わんと欲す。世民曰く、「今禾菽野を被う、何ぞ乏糧を憂えん。老生は軽躁、一戦して擒にすべし。李密は倉粟を顧恋し、未だ遠略に遑あらず。武周と突厥とは外は相附くと雖も、内は実に相猜う。武周遠く太原を利すと雖も、豈に近く馬邑を忘れんや。本と大義を興し、身を顧みず奮いて以て蒼生を救う、当に先ず咸陽に入り天下に号令すべし。今小敵に遇いて遂に已に師を班す。恐らくは義に従うの徒、一朝にして解体し、還りて太原一城の地を守らば、賊と為るのみ、何を以て自ら全うせん」と。淵聴かず。世民将に復た入りて諫めんとするも、会々淵已に寝ね、入るを得ず、外に号哭す。声帳中に聞こゆ。淵召して之を問う。世民曰く、「今兵は義を以て動く、進み戦えば則ち克ち、退き還れば則ち散ず。衆前に散じ、敵後に乗ぜば、死亡日無し、何ぞ悲しまざるを得ん」と。淵乃ち悟りて曰く、「兵已に発す、奈何せん」と。世民曰く、「右軍厳にして未だ発せず、左軍去ること亦た未だ遠からず。請う自ら之を追わん」と。乃ち建成と道を分かちて夜進み、左軍を追いて復た還らしむ。已にして太原の運糧も亦た至る。老生を誘いて戦い、之を斬る。日已に暮れ、攻城の具無く、将士肉薄して登り、遂に霍邑に克つ。
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『智囊』制勝・唐太宗秦王世民、高墌に至る。薛仁杲、宗羅日候をして兵を将いて之を拒がしむ。世民壁を堅くして出でず。諸将戦わんことを請う。世民曰く、「我が軍新たに敗れ、士気沮喪す。賊は勝つに恃みて驕り、我を軽んずる心有り。宜しく塁を閉じて以て之を待つべし。彼は驕り我は奮わば、一戦にして克つべきなり」と。乃ち軍中に令して曰く、「敢えて戦いを言う者は斬る」と。相持すること六十余日、仁杲の糧尽き、所部多く降る。世民乃ち梁寔に命じて浅水原に営して以て之を誘わしむ。羅日候大いに喜び、鋭を尽くして之を攻む。数日、世民其の已に疲れたるを度り、諸将に謂いて曰く、「以て戦うべし」と。龐玉をして原の南に陣せしむ。羅日候兵を並せて之を撃ち、玉は幾んど支うる能わず。世民乃ち大軍を引いて原の北より其の不意に出で、自ら驍騎を帥いて陣に陥る。羅日候の軍潰ゆ。世民騎を帥いて之を追う。竇軌馬を叩いて苦諫す。世民曰く、「破竹の勢い、失うべからず」と。遂に進みて之を囲む。仁杲の将士多く叛き、計窮して出で降る。其の精兵万人を得たり。諸将皆賀し、因りて問うて曰く、「大王一戦にして勝ち、遽かに歩兵を舎て、又攻具無くして、直ちに城下に造る。衆は皆不可と以為えるに、而も卒に之を取るは何ぞや」と。世民曰く、「羅日候の将いる所は、皆隴外の驍将悍卒なり。吾特だ其の不意に出でて之を破り、斬獲多からず。若し之を緩くすれば、則ち皆城に入り、仁杲撫して之を用いば、未だ克ち易からず。之を急にすれば則ち散じて隴外に帰らん。日候を折れば虚弱し、仁杲は破胆して謀を為すに暇あらず。此れ吾が克つ所以なり」と。衆皆悦服す。
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『智囊』見大・唐高祖李淵、霍邑に克つ。行賞の時、軍吏は奴の募に応ずるものを擬して、良人と同じくするを得ずとす。淵曰く、「矢石の間は、貴賤を弁ぜず。論勲の際に、何ぞ等差有らん。宜しく並びに本勲に従いて授くべし」と。霍邑の吏民を引見し、西河に労賞し、その壮丁を選びて、軍に従わしむ。関中の軍士の帰らんと欲する者には、並びに五品の散官を授けて遣り帰す。或いは諫むるに官の太だ濫なるを以てす。淵曰く、「隋氏は勲賞を吝惜し、人心を失うを致す。奈何ぞこれに效わんや。且つ衆を収むるに官を以てするは、兵を用うるに勝らずや」と。
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『長短経』覇図秋七月、唐公、将に西のかた長安を図らんとす。白旗を仗き、衆に太原の野に誓う。被甲三万。公子元吉を留めて太原を守らしむ。義師、霍邑に次す。隋の武牙郎将宋老生、義師を拒ぐ。時に雨連なりて霽れず、糧運給せず。又た訛言すらく、突厥将に太原を襲わんとすと。唐公懼れ、師を旋らすを命ず。秦王の諫めを用い、乃ち止む。〈秦王諫めて曰く「独夫、虐を肆にし、天下崩離す。狼顧蜂飛し、州に跨がり県に連なる。丈夫は耕耘するを得ず、女子は紡績するを得ず。故に剣を汾晋に仗き、旆を秦墟に挙ぐ。将に封豕を斬りて以て万人を安んじ、鯨鯢を戮して四海を清めんとす。崤函の固きに拠り、天子の威を挟み、諸侯に令し、天下を定む。是を以て之を聞きて響応し、投赴すること帰するが如し。今、小敵に遇いて、便ち旆を返さば、恐らくは義師、一朝に解体し、大事去らん。勢い全くす可からず。帰りて太原を守らば、則ち一城の賊のみ。恐らくは踵を旋らさずして、禍変仍りて生ぜん」と。乃ち止むなり。〉老生、城を背にして一戦す。之を斬りて、霍邑を平らぐ。〈諸城皆な降る。唯だ屈突通のみ河東に鎮し、堅守して下らざるなり。〉
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『智囊』武案・任瑰・唐太宗〔述評〕按ずるに、任瑰の策は、即ち李密の楊玄感に説き、魏思温の徐敬業に説きし者にして、特だ太宗之を用いて勝ち、二逆は用いずして敗れしのみ。楊玄感の謀逆するや、李密三策を進めて曰く、「天子は遠く遼海に在り、公若し長駆して薊に入り、直ちに其の喉を扼さば、前に高麗有り、退くに帰路無く、戦わずして擒にす。此れ上計なり。関中は四塞、吾れ鼓行して西し、城を経るも攻めず、直ちに長安を取り、其の豪傑を収め、其の士民を撫し、険に拠りて之を守らば、天子還ると雖も、其の根本を失い、徐ろに図るべきなり。若し近きに隨いて先に東都に向かい、以て四方に号令せんとせば、但だ恐る彼固く守るを知り、若し之を攻めて百日克たず、援兵四もに至らば、吾が知る所に非ず」と。玄感曰く、「然らず。今百官の家口は俱に東都に在り、若し先ず之を取らば、以て其の心を動かすに足る。且つ城を経て抜かずんば、何を以て威を示さん。公の下計は乃ち上策なり」と。密計の行われざるを知り、退きて人に謂いて曰く、「楚公は反を好みて勝を求めず、吾が属は虜と為らん」と。未だ幾ばくならずして、玄感敗る。
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『智囊』制勝・唐太宗諜告ぐ、「夏主、唐の馬を河北に牧するを伺い、将に武牢を襲わんとす」と。世民乃ち北のかた河を済り、南のかた広武に臨みて還り、故に馬千余匹を留め、河渚に牧して以て之を疑わしむ。建徳果たして衆を悉くして牛口に出で、陣を置くこと二十里に亙り、鼓行して進む。諸将皆懼る。世民高きに升りて之を望み、諸将に謂いて曰く、「賊は山東に起こり、未だ大敵を見ず。今険を度りて囂しきは、是れ紀律無きなり。城に逼りて陣するは、我を軽んずる心有り。我兵を按じて出でざれば、彼の勇気自ら衰え、陣久しくして卒飢え、勢い将に自ら退かんとす。追いて之を撃たば、克たざる無けん」と。建徳陣を列ぬること、辰より午に至り、士卒飢え倦み、皆坐列し、又争いて水を飲む。世民、宇文士及に命じて三百騎を将い、建徳の陣の西を経て、馳せて南に上らしむ。建徳の陣動く。世民曰く、「撃つべし」と。軽騎を帥いて先に進み、大軍之に継ぎ、直ちに其の陣に薄る。方に戦うとき、世民又史大奈らを率い、旆を巻いて入り、陣の後に出で、唐の旗幟を張る。夏兵之を見て、驚き潰ゆ。
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