武士訓 / 卷一・第16段
すはともいはゞ。さしころすべきふぜいなり。其とき賴信盜賊にむかひて。汝其童を質に取たるは己が命をたすからんためか。童をころさんとのみにや。趣意を述べしと問しかば。盜賊いでか兒を殺さんとは思ひ候はむ。命をたすからんとて。かくはからひ候と答ふ。賴信左あらば。其刀をすてゝ。兒をはなたば。命をたすくべし。それがしがつねにいつはりなきをば。兼て聞も及なむ。うたがふ事なかれといはるゝとき。盜賊しばらく思案して。かたじけなき仰ごとを。いかでか承らで候はむとて。刀をなげすて。兒をゆるせば。起あがりてにげさりぬ。賴信少したちのきて。郎等どもかれをひきいだせとあれば。おの〳〵盜賊を前庭にひきすゑたり。親孝はきるべきていなりしかども。賴信かたく制していはれけるは。わが一言にあらずんば。此子のいのちたすからんや。今かれをころさば。約をたがえて信をうしなふなり。いそぎたすけよとて。盜賊をゆるして追はなたれたり。是よりして賴信に人の歸伏することいやましになりにけりとあり。信を守ることかくのごとくなるべし。
新字:すはともいはゞ。さしころすべきふぜいなり。其とき頼信盗賊にむかひて。汝其童を質に取たるは己が命をたすからんためか。童をころさんとのみにや。趣意を述べしと問しかば。盗賊いでか児を殺さんとは思ひ候はむ。命をたすからんとて。かくはからひ候と答ふ。頼信左あらば。其刀をすてゝ。児をはなたば。命をたすくべし。それがしがつねにいつはりなきをば。兼て聞も及なむ。うたがふ事なかれといはるゝとき。盗賊しばらく思案して。かたじけなき仰ごとを。いかでか承らで候はむとて。刀をなげすて。児をゆるせば。起あがりてにげさりぬ。頼信少したちのきて。郎等どもかれをひきいだせとあれば。おの〳〵盗賊を前庭にひきすゑたり。親孝はきるべきていなりしかども。頼信かたく制していはれけるは。わが一言にあらずんば。此子のいのちたすからんや。今かれをころさば。約をたがえて信をうしなふなり。いそぎたすけよとて。盗賊をゆるして追はなたれたり。是よりして頼信に人の帰伏することいやましになりにけりとあり。信を守ることかくのごとくなるべし。
書き下し
すはともいはゞ。さしころすべきふぜいなり。其とき賴信盜賊にむかひて。汝其童を質に取たるは己が命をたすからんためか。童をころさんとのみにや。趣意を述べしと問しかば。盜賊いでか兒を殺さんとは思ひ候はむ。命をたすからんとて。かくはからひ候と答ふ。賴信左あらば。其刀をすてゝ。兒をはなたば。命をたすくべし。それがしがつねにいつはりなきをば。兼て聞も及なむ。うたがふ事なかれといはるゝとき。盜賊しばらく思案して。かたじけなき仰ごとを。いかでか承らで候はむとて。刀をなげすて。兒をゆるせば。起あがりてにげさりぬ。賴信少したちのきて。郎等どもかれをひきいだせとあれば。おの〳〵盜賊を前庭にひきすゑたり。親孝はきるべきていなりしかども。賴信かたく制していはれけるは。わが一言にあらずんば。此子のいのちたすからんや。今かれをころさば。約をたがえて信をうしなふなり。いそぎたすけよとて。盜賊をゆるして追はなたれたり。是よりして賴信に人の歸伏することいやましになりにけりとあり。信を守ることかくのごとくなるべし。
現代語訳
『すわ』と言えば、刺し殺しかねない様子です。そのとき頼信は盗賊に向かって、「おまえがその子を質にとったのは、自分の命を助かるためか。子を殺そうとだけ思ってのことか。趣意を述べよ」と問いました。盗賊は、「どうして子を殺そうと思いましょう。命を助かろうとして、このようにはからったのです」と答えました。頼信は「それなら、その刀を捨てて子を放せば、命を助けよう。私がふだん偽りを言わないことは、かねて聞き及んでいよう。疑ってはならない」と言われると、盗賊はしばらく思案して、「かたじけないお言葉を、どうして承らずにおれましょう」と言って、刀を投げ捨て、子を許すと、起き上がって逃げ去りました。頼信は少し立ちのいて、郎等たちに「あれを引き出せ」と命じると、めいめい盗賊を前庭に引き据えました。親孝は斬りかねない様子でしたが、頼信は固く制して、「私の一言がなければ、この子の命が助かっただろうか。今これを殺せば、約束を違えて信を失うことになる。急いで助けよ」と言って、盗賊を許して追い放たれました。これ以来、頼信に人が帰服することはいよいよ増したということです。信を守ることは、このようであるべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武士訓』卷一・第15段父母につかふるに。もつぱら孝をつくし。兄弟をあはれみ。少しのゆかりあるものまでも。すぢめをたがえず。朋友にまじはるに。まことをもつてし。一言もいつはらざるやうにすべし。若約束などせば。かならず其とぢめをあはすべし。約諾不定なるべく覺えば。かねてより麤忽に約すべからず。信なくしては。人といひがたし。平生こゝろをつけて毎事皆信にと思ふべし。人はよろづてのむ所によること。花ずきのところに。もろ〳〵の花あつまるごとし。信をてのむこゝろやまざれば。信のみになるものなり。むかし河內守源賴信上野守にて任國にあるとき。其乳母子兵衛尉藤原親孝といふ者の家に。盜賊をとらえ。押こめて置しが。いかゞしけんまぬかれて。逃むとしけるが。去べきやうやなかりけん。親孝が男子の五六歲ばかりなるを人質に取り。膝の下に押え。刀を腹にあてゝひかへたり。折ふし親孝は賴信の館に居けるに。家人來りて。かくと告しかば。はしりかへりて見けれども。すべきやうなし。館にゆきて。なく〳〵賴信に申ければ。賴信かの所に行て見らるゝに。盜賊刀を兒にさしあてゝ。
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『武士訓』卷三・第2段賴信このことをきゝて。賴義にはしらさず。胡籙かきおひ馬にのつて。必條此盗賊は。東よりつけ來りたるものよと思はれければ。關山をさして追てゆく。賴義は裝束もとかで丸寢して居ければ。これも籙おひ馬に騎て。父にもつげず關山へむかつて追ゆきたり。件の盗賊は。ぬすみ得たる馬にのつて。關山邊の川をさつと渡してあゆませゆく。賴信このをとをきゝて。賴義はさだめてわれよりさきだちぬらんと思れければ。はやかれを射よとよばゝれるに。とばのうちに。弓のをとからく〳〵としければ。射おとしたりと心え。いそぎ馬をとり來れと。いひすてゝ。家に歸られければ。賴義もほどなく馬をひきてぞ來られけりとあり。武道に心がくる者は。かくこそありたけれ(寢ときも帶をとくべからず。鎧は勿論小帶をなすべからず。前帶をなすことなかれ。)
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『武士訓』卷三・第1段武士たらんものは。いねても席を安ぜざる嗜あるべきものなり。むかし河內前司源賴信といふ人は。多田滿仲の子にて。賴光の弟なり。しかるに賴信のしれる人。東國にありしが。よき馬もてるときゝて。こはるゝに則まいらせければ。賴信郎等共をくだして。馬をひきのぼせらる。賴信の嫡子賴義は他所に住せられしが。父のもとによき馬のぼりぬときゝ。こひうけむと思ひてゆかれけるに。賴信やがて推察して。賴義のいまだいひ出さゞるに。わがもとに。今宵東國より馬をひきのぼせたり。明朝見て。こゝろにつかば。取てのるべしなどいひて。宵のほどは物がたりどもし。夜ふけぬれば。賴信寢所にいり。賴義もかたはらによりて臥居たり。折しも終夜雨ふりて。物をともきゝ分がたきに。廐のかたにこゑありて。盗賊夜前の御馬を。取てまかりぬとよばゝる。
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『武士訓』卷二・第10段すべてつねになすべきことゝ。なすまじきことを。かねて決斷して。たとひ身を醢にし。骨を粉にするとも。節操を變ずべからず。義をおもんずるこゝろは鐵石のごとく。義にすつる命は塵芥にひとしかるべし。むかし源義經賴朝の勘氣をうけて。西國へくだるとて。攝津國に住する渡邊源次馬允番(セツツカフ三田ノ綱が末葉也)が許にたちより。事のよしを謂れければ。番いたはしくおもひ。出船のところまでおくりけり。後に此事關東にきこえて。あしざまに云ものありしかば。賴朝いきどほり給ひ。梶原に預て十二年まで置れたり。しかるに右大將のさりものなりし天野式部太輔遠景西國を知行しけるが。上洛のとき。攝州渡邊にて。番が妹を娶り。關東にくだり。番がもとへ使をつかはしていひけるは。おもひがけずかく御緣になり候ぬ。今よりしては。疎略候はじと云けるに。番は。多年の囚人なれども。方人をもたねば。申なだむるともがらもなかりしに。たま〳〵かゝる緣出來ることは。いかばかりうれしかるべきを。番おもひけるは。弓矢とる身の。かゝることにあひて。
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『武士訓』卷二・第14段又調度おひたるさふらひ來りけるが。かの死人をみて。側に馬をよせて。いかにして死たるかとて。弓にてつきければ。此死人弓にとりつきおきあがり。かのさふらひを馬よりひきおとし。さしたる刀をうばひとりてさしころし。其馬に打乘。飛がごとくにげうせたり。かゝることをせんとて虛死したりしを。前にとをりし人ははかり知て。用心せしにこそ。かしこかりけりなど感じつゝ。其名を尋とひけるに。村岡五郎平貞道(源頼光の四天王の一人也)と聞えければ。げにことはりとぞ申あひけるとあり。すべてたやすくおもへるとも。弓斷すまじき事なり。古歌に「折えてもこゝろゆるすなさくらばなさそふあらしの有とこそすれ」とよめるこゝろにおなじ。
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『武士訓』卷三・第11段又右大將賴朝のとき。筑後權守俊兼。甚だ美しき小袖十領を着し出けるを。賴朝見たまひ。みづからかれがわきざしを取て。小袖のつまをきり捨。仰けるは。常胤(千葉介)眞平(土肥次郎)等武に長じたるまでにて。文にうとしといへども。よく儉約を用る故。家富ておほくの家人を扶持す。今なんぢが祿は。かれらがたぐゐにおよぶべきにあらず。文才あれども是非をわきまへず。華美をこのみ。儉約をわする。これ財產を用る法をしらざるなりと。大にいかりいましめらる。伺候の輩これをきゝ。たましゐをけしけるといへり。但し世俗義理をわきまへず。みだりに吝嗇なるを。儉約を守るといふは非なり。是は後漢の馬伏波がいへる守錢奴のたぐひにて。人倫に遠さものなり。
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