武士道 / 第十五章 武士道の感化・朝日に匂う山桜花
武士道は多岐に分れて流下し其發生したる社會階級よバンダ子り濾過して、大塊を脹大せしむる酵母となり、凡ての人民に與ふるに道義の標準を以てせり。武士道の教訓は其初、國民の精華たる士人を飾るの光榮たりしものが、時を經るに從ひて、奥米國民に於けるの熱望となり、覆感となり而して平民は高邁なる武士の有したるが如き精神の尊尙正大なる境域に到達すること能はざりしと雖、尙ほ遂に大和魂のス、ガイスト語は、我島帝國の民族精神を表稱するものとなれり。ウ、アーノルドが定義の如くに、宗教とは『道德の情緒に接觸したるもの』に過ぎざらん乎、されば凡百の倫理系統中、武士道の如くに能く、宗教を以て稱すべき質格を具備したるものあるを見ず。本居宣長は、我國民が不言の言を歌ひて曰く、敷島の大和心を人問はヾ朝日ににほふ山櫻花。然り櫻は、古來我國民の愛翫せる花にして、又た我國民性格の儀型なり。而して思へ、歌人の特に『朝日に匂ふ山櫻花』に旧へる所以のものを。
新字:武士道は多岐に分れて流下し其発生したる社会階級よバンダ子り濾過して、大塊を脹大せしむる酵母となり、凡ての人民に与ふるに道義の標準を以てせり。武士道の教訓は其初、国民の精華たる士人を飾るの光栄たりしものが、時を経るに従ひて、奥米国民に於けるの熱望となり、覆感となり而して平民は高邁なる武士の有したるが如き精神の尊尚正大なる境域に到達すること能はざりしと雖、尚ほ遂に大和魂のス、ガイスト語は、我島帝国の民族精神を表称するものとなれり。ウ、アーノルドが定義の如くに、宗教とは『道徳の情緒に接触したるもの』に過ぎざらん乎、されば凡百の倫理系統中、武士道の如くに能く、宗教を以て称すべき質格を具備したるものあるを見ず。本居宣長は、我国民が不言の言を歌ひて曰く、敷島の大和心を人問はヾ朝日ににほふ山桜花。然り桜は、古来我国民の愛翫せる花にして、又た我国民性格の儀型なり。而して思へ、歌人の特に『朝日に匂ふ山桜花』に旧へる所以のものを。
書き下し
武士道は多岐に分れて流下し、其発生したる社会階級より濾過して、〔バンダ子:OCRの乱れ〕大塊を脹大せしむる酵母となり、凡ての人民に与ふるに道義の標準を以てせり。武士道の教訓は、其初、国民の精華たる士人を飾るの光栄たりしものが、時を経るに従ひて、〔奥米:OCRの乱れ〕国民に於けるの熱望となり、〔覆〕感となり、而して平民は高邁なる武士の有したるが如き精神の尊尚正大なる境域に到達すること能はざりしと雖、尚ほ遂に大和魂(フォルクス・ガイスト)の語は、我島帝国の民族精神を表称するものとなれり。マシュー・アーノルドが定義の如くに、宗教とは『道徳の情緒に接触したるもの』に過ぎざらん乎、されば凡百の倫理系統中、武士道の如くに能く宗教を以て称すべき資格を具備したるものあるを見ず。本居宣長は、我国民が不言の言を歌ひて曰く、『敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花』。然り、桜は古来我国民の愛翫せる花にして、又た我国民性格の儀型なり。而して思へ、歌人の特に『朝日に匂ふ山桜花』に〔旧〕へる所以のものを。
現代語訳
武士道はいくつもの流れに分かれて流れ下り、それが生まれた社会階級からしみ出して、(読めない文字列がある)大きな塊をふくらませる酵母となり、すべての人民に道義の基準を与えた。武士道の教えは、はじめは国民の精華である武士を飾る栄光であったものが、時がたつにつれて、国民全体の熱望となり、心を奮い立たせるものとなった。そして平民は、気高い武士が持っていたような尊く正大な精神の境地に達することはできなかったけれども、ついに大和魂という言葉は、わが島国の民族精神を言い表すものとなった。マシュー・アーノルドの定義のように、宗教とは「情緒に触れられた道徳」にすぎないとするならば、あらゆる倫理の体系の中で、武士道ほど宗教と呼ぶにふさわしい資格を備えたものは見当たらない。本居宣長は、わが国民の言葉にならない思いを歌ってこう言った。「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」(日本人の心とは何かと人が問うならば、朝日に照り映える山桜の花だと答えよう)。そうである、桜は昔からわが国民が愛でてきた花であり、またわが国民性の手本である。そして考えてみよ、歌人がとりわけ「朝日に匂う山桜花」とうたった理由を。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第十五章 武士道の感化・大和魂は斯花と開謝を同じくする此時四肢は労役を忘れ、心は悲哀に遠かるとも、何ぞ咎めん。一瞬の快楽尽くるや、彼等は復た新力、新意を提げて日常の業に還る。此れに由つて観るも亦た、桜花は実に日本の花なり。然るに妍葩麗蕋、飄々として春風に舞ひ、一道の清香吹いて未だ幾何ならず、忽爾として消散するの斯花や、桜花は果して日本精神の儀表なるか。大和魂は、斯花と其開謝を同じくするものなるか。
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『武士道』第十五章 武士道の感化・武士道は国民生涯の平地に崛起せる山陵武士道の道徳は、我国民生涯の平地に崛起せる一帯の山陵にして、而して吾人は今ここにわずかに、其の嶄然卓峙せる数峰の頂を観望したるに過ぎず。日輪東天に朝するや、先づ高巒の巓頭を紅に染めてより、ようやく其光輝を谿谷の間に投ずるが如く、其初、ただ武人の階級を耀かしたる倫理の系統は、時を経るに従ひて、庶民輿衆の間よりして渇仰随喜の徒を生ずるに至りたり。平民主義は天成の王者を興し、貴族主義は王者の精神を庶人に遍くす。善徳は悪習と共に伝染す。エマソン曰く、『一個の団体はただ一人の賢者を要す、されば衆皆賢なり。伝染の力はしかく迅速なり』と。社会の序次階級は、道義の感化の伝播を拒ぐこと能はず。吾人は噴々としてアングロサクソン自由の勝利の進歩を称すと雖、其進歩たる、輿衆人民の刺励を受けたること極めて尠し。
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