武士道 / 第十五章 武士道の感化・薔薇は刺針を蔵す
其神〓は、馴雅硫製たる花に非らすして野性を帶次自然なり。我國土の特產なり。其偶有性は、之を他國土の花と齊しうするものありと雖、其本質は依然として我風土に自發自生す。されど其國產たるが故にのみ、吾人の之を愛好するに非らず。其高雅優麗にして日本國民の美感を動かすの大なるは、高く群芳に絕す。吾人は歐洲人と共に薔薇を翫賞する能はず、其花や、我國華の單純なるに似ず。而も亦た薔薇の窈窕として其陰に刺針を藏する、風前に脆く散じて、泥汗に委せんことを厭惡し畏懼し、頑として寧ろ枝頭に腐死せんことを欲する、又た其色妖冶、其香釀厚なる、此等の特質は大いに之を我櫻花と其趣を異にす。
新字:其神〓は、馴雅硫製たる花に非らすして野性を帯次自然なり。我国土の特産なり。其偶有性は、之を他国土の花と斉しうするものありと雖、其本質は依然として我風土に自発自生す。されど其国産たるが故にのみ、吾人の之を愛好するに非らず。其高雅優麗にして日本国民の美感を動かすの大なるは、高く群芳に絶す。吾人は欧洲人と共に薔薇を翫賞する能はず、其花や、我国華の単純なるに似ず。而も亦た薔薇の窈窕として其陰に刺針を蔵する、風前に脆く散じて、泥汗に委せんことを厭悪し畏懼し、頑として寧ろ枝頭に腐死せんことを欲する、又た其色妖冶、其香醸厚なる、此等の特質は大いに之を我桜花と其趣を異にす。
書き下し
其神(一字不明)は、馴雅〔硫〕製たる花に非らずして、野性を帯び自然なり。我国土の特産なり。其偶有性は、之を他国土の花と斉しうするものありと雖、其本質は依然として我風土に自発自生す。されど其国産たるが故にのみ吾人の之を愛好するに非らず。其高雅優麗にして日本国民の美感を動かすの大なるは、高く群芳に絶す。吾人は欧洲人と共に薔薇を翫賞する能はず、其花や、我国華の単純なるに似ず。而も亦た薔薇の窈窕として其陰に刺針を蔵する、風前に脆く散じて泥汚に委せんことを厭悪し畏懼し、頑として寧ろ枝頭に腐死せんことを欲する、又た其色妖冶、其香醲厚なる、此等の特質は大いに之を我桜花と其趣を異にす。
現代語訳
その(山桜の)本性は、手なずけられ人の手で作られた花ではなく、野性を帯びた自然のものである。わが国土に特有のものである。その付随的な性質には他の国の花と同じところもあるけれども、その本質はやはりわが風土におのずから生まれ育ったものである。しかし国産であるというだけの理由で、私たちがこれを愛しているのではない。その気高く優美で、日本国民の美の感覚を大きく揺り動かす点は、多くの花の中で群を抜いている。私たちはヨーロッパ人と一緒に薔薇を愛でることはできない。その花は、わが国の花の単純さに似ていない。しかもまた、薔薇がしとやかな美しさの陰に棘を隠していること、風の前にもろく散って泥にまみれることを嫌い恐れ、かたくなにむしろ枝の上で朽ち果てようとすること、またその色があでやかで、その香りが濃厚であること、これらの特質はわが桜の花とは大いに趣を異にしている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『武士道』第十五章 武士道の感化・桜は毒を蓄えず刃を潜めず桜の佳美なるは、毒を蓄へず、刃を潜めず、且つ自然の招呼に応じ、欣然として飄落し、又た其姿色はなはだ華麗ならず、其清香は淡として、はるかに薔薇の人を娶かしむると同じからず。形容色彩の美は花弁の外観を成すに止まりて、其存在に伴ふ常質なり。然るに其芬芳は生命の気息の如くに軽浮す。故に凡百の宗教に於て、乳香、没薬は主なる儀式を成せり。馨香は清浄聖潔なるものを有す。旭日波を破り、絶東の島嶼初めて紅光を浴び、桜花絢爛、暁風に開くの時、徐かに此の美しき日の其気息を吸尽せんか、胸懐浩々、おのづから清澄爽快なるものあり、即ち何者の情感か、能く之に儔ひするを得べけんや。創物主すらも、ノアの捧ぐる馨しき香を聞きて、又た地を咀ふことをなさじとの新たなる決心を起したりと記されたるを以て見れば、桜花陽春の天に薫ずるや、我が全土の民衆を招いて茅屋の外に彷徨せしむること、何ぞ怪しむに足らんや。
-
『武士道』第十五章 武士道の感化・大和魂は斯花と開謝を同じくする此時四肢は労役を忘れ、心は悲哀に遠かるとも、何ぞ咎めん。一瞬の快楽尽くるや、彼等は復た新力、新意を提げて日常の業に還る。此れに由つて観るも亦た、桜花は実に日本の花なり。然るに妍葩麗蕋、飄々として春風に舞ひ、一道の清香吹いて未だ幾何ならず、忽爾として消散するの斯花や、桜花は果して日本精神の儀表なるか。大和魂は、斯花と其開謝を同じくするものなるか。
-
『武士道』第一章 武士道の倫理系・武士道は我国土に特生せる華日本武士道は、之を表象する桜花と共に、我国土に特生せるの華なり。斯花たる、今や乾枯せる古代道徳の標本として、わずかに其形骸を歴史の腊葉品彙に存するものに非らず。其力、其美、なお且つ浩然、旺盛、剛大なるものありて、我民族の心裡に生々たり。武士道は、既に形態の捕捉すべき無しと雖、遺芳なお徳界に遍く、吾人は此れが著大の薫化に浴す。けだし斯道を産み、斯道を育ひたる社会の状態は、杳として跡を歛めたりと雖、これ昔、霄漢万里に麗りし星辰の、其本体は既に消滅せるも、而も残光なお頭上に栄々たるが如く、封建の寵児たりし武士道は、此れが生みの母たる旧制度の滅後に存し、光輝遂に蔽ふべからず、吾人の道を明かにす。英国エドモンド・バークはかつて、哀々の辞を以て、既に久しく世の顧みざりし欧洲武士道の柩槨を弔せり。
-
『武士道』第十五章 武士道の感化・朝日に匂う山桜花武士道は多岐に分れて流下し、其発生したる社会階級より濾過して、〔バンダ子:OCRの乱れ〕大塊を脹大せしむる酵母となり、凡ての人民に与ふるに道義の標準を以てせり。武士道の教訓は、其初、国民の精華たる士人を飾るの光栄たりしものが、時を経るに従ひて、〔奥米:OCRの乱れ〕国民に於けるの熱望となり、〔覆〕感となり、而して平民は高邁なる武士の有したるが如き精神の尊尚正大なる境域に到達すること能はざりしと雖、尚ほ遂に大和魂(フォルクス・ガイスト)の語は、我島帝国の民族精神を表称するものとなれり。マシュー・アーノルドが定義の如くに、宗教とは『道徳の情緒に接触したるもの』に過ぎざらん乎、されば凡百の倫理系統中、武士道の如くに能く宗教を以て称すべき資格を具備したるものあるを見ず。本居宣長は、我国民が不言の言を歌ひて曰く、『敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花』。然り、桜は古来我国民の愛翫せる花にして、又た我国民性格の儀型なり。而して思へ、歌人の特に『朝日に匂ふ山桜花』に〔旧〕へる所以のものを。
-
『武士道』第十五章 武士道の感化・花は桜木人は武士而して若しシドニー及びスコットに代ふるに、近松、馬琴の名を以てせんか、日本文学史の特色は、乃ち一目瞭然たるものあらん。庶人に娯楽を供し、教訓を与ふべき諸多の方法――演劇、講釈、説教、浄瑠璃、小説等の如きは、其主題を武士譚に採るものなりき。農夫は白屋の裡、炉火を囲んで、義経、弁慶の功勲、曾我兄弟の仇討を反覆して厭ふこと無し。黧面の頑童は茫然口を開き、耳を欹てて、薪火既に尽くとも心頭此れが為に尚ほ燃灼す。番頭小僧は一日の業務を終へ、店頭の扉を鎖せば、膝を交へて信長、秀吉の物語に時を移し、睡魔の倦眼を襲ひ来るや、彼等を誘ひ、日夕牙籌の辛労を忘れて、夢に戦場の功名に馳駆せしむ。細歩蹣跚たる孩児も、唖々として桃太郎鬼ケ島征伐の昔噺を誦することを学び、女児亦た武辺の偉功美徳を慕ふを知り、かのデスデモナと共に、其耳はさむらひの物語を貪食して更に厭くこと無かりき。武士は日本民族の理想(ボウ・イデアル)となりたり。俚謡に歌ふ、『花は桜に、人は武士』と。
-
『武士道』第十五章 武士道の感化・過去の日本は武士の賜なり過去の日本は武士の賜なり。武士は国家の美花たりしのみならず、又た其根帯なりき。優渥なる天恵は武士を通じて汪溢したり。士は自から社会に標置すること高く、衆庶の上に嶄然たりしと雖、亦た此れに与ふるに道義の標準を以てし、又た模範を示して教導せり。素より武士道の教訓は顕密の二義を具し、顕義とは即ち功徳を遍くして社会の安寧幸福を企図し、密義とは即ち純徳を全うして自から徳業を成すに汲々たるものなりき。欧洲武士時代の盛世に於けるも、騎士はしばしば人民の小部分を成すに過ぎざりき。然れどもエマソンの云へるが如く『英国文学に於けるや、サー・フィリップ・シドニー以降、サー・ウォルター・スコットに至るまで、半数の戯曲と、凡百の小説とは、即ち此人格、すなはち紳士を描写せり』。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る