武士道 / 第十五章 武士道の感化・過去の日本は武士の賜なり
過去の日本は武士の賜なり。武士は國家の美花たりしのみならず、又た其根帶なりき。優渥なる天惠は武士を通じて汪溢したり。士は自から社會に標置すること高く、衆庶の上に嶄然たりしと雖、亦た此れに與ふるに道義の標準を以てし、又た模範を示して教導せり。素より武士道の教訓は顯密の二義を具し、顯義とは卽ち功德を遍くして、社會の安寧幸福を企圖し、密義とは卽ち純德を全うして、自から德業を成すに汲々たるものなりき。歐洲武士時代の盛世に於けるも、騎士は、數數、人民の小部分を成すに過ぎざりき。然れどもエマソンの云へるが如く『英國文學に於けるや、サア、フイリツプ、シドニー以降、サア、ウオルター、スコツトに至るまで、半數の戯曲と、凡百の小說とは、即ち此人格(紳士)を描寫せり』。
新字:過去の日本は武士の賜なり。武士は国家の美花たりしのみならず、又た其根帯なりき。優渥なる天恵は武士を通じて汪溢したり。士は自から社会に標置すること高く、衆庶の上に嶄然たりしと雖、亦た此れに与ふるに道義の標準を以てし、又た模範を示して教導せり。素より武士道の教訓は顕密の二義を具し、顕義とは即ち功徳を遍くして、社会の安寧幸福を企図し、密義とは即ち純徳を全うして、自から徳業を成すに汲々たるものなりき。欧洲武士時代の盛世に於けるも、騎士は、数数、人民の小部分を成すに過ぎざりき。然れどもエマソンの云へるが如く『英国文学に於けるや、サア、フイリツプ、シドニー以降、サア、ウオルター、スコツトに至るまで、半数の戯曲と、凡百の小説とは、即ち此人格(紳士)を描写せり』。
書き下し
過去の日本は武士の賜なり。武士は国家の美花たりしのみならず、又た其根帯なりき。優渥なる天恵は武士を通じて汪溢したり。士は自から社会に標置すること高く、衆庶の上に嶄然たりしと雖、亦た此れに与ふるに道義の標準を以てし、又た模範を示して教導せり。素より武士道の教訓は顕密の二義を具し、顕義とは即ち功徳を遍くして社会の安寧幸福を企図し、密義とは即ち純徳を全うして自から徳業を成すに汲々たるものなりき。欧洲武士時代の盛世に於けるも、騎士はしばしば人民の小部分を成すに過ぎざりき。然れどもエマソンの云へるが如く『英国文学に於けるや、サー・フィリップ・シドニー以降、サー・ウォルター・スコットに至るまで、半数の戯曲と、凡百の小説とは、即ち此人格、すなはち紳士を描写せり』。
現代語訳
過去の日本は武士のたまものです。武士は国家の美しい花であっただけでなく、その根でもありました。手厚い天の恵みは武士を通じて溢れ出ました。武士は自ら社会で高い位置に身を置き、大衆の上に際立っていましたが、同時に大衆に道義の基準を与え、また模範を示して導きました。もとより武士道の教えには表と裏の二つの意味があり、表の意味は功徳を広く行き渡らせて社会の安寧と幸福を図ること、裏の意味は純粋な徳を全うして自ら徳を成すことに励むことでした。ヨーロッパの騎士の時代の盛期においても、騎士はしばしば人民のごく一部を成すにすぎませんでした。しかしエマソンが言うように、英文学においては、サー・フィリップ・シドニー以降サー・ウォルター・スコットに至るまで、戯曲の半数とあらゆる小説が、この人格すなわち紳士を描写しています。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第二十三章 若返りの工夫・いつも若い人(1)目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き気象がなくなるのである。すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっとも尊ぶべき、高朗なる性情が消えるのである。「大人にしてなお赤児のごとし」という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の気概を失わずにあるを要する。「あの人は年とってもいつも若い気でいる」という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。かくのごとき人の心には余裕がある。すなわち生木のようなる弾力があって、世の変遷とともに進む能力を保留している。「老木は曲らぬ」とは邪道に迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。 およそ何事においても行きづまれるは見悪きものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで枯木に弾力なきに等しく実にみすぼらしい。また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。ところが誰でも少し油断すると小成に安んじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称し自ら安心する。これあるいは成功であるかも知れぬ。しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだ当を得ないことではなかろうか。欲心と理想とはちがう。欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。
-
自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(1)しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
-
自警録・第二十六章 理想の実現は何処・ここに焚く火の烟なりけり昔のある皇后の御歌に、 もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝに焚く火の烟なりけり われわれはとかく理想は遠い所にあり、唐土の山のかなたに立つ烟のごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に憧憬れているという青年男女などは、日々学課をそっち退けとし、月や星を眺め、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。 「ここに焚く火の烟なりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき塵界を去らねばならぬものでない。われわれは山へ引っ込むもよい、塵界を去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。理想は心の作用である、実際は身体の作用である。心と身体とは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。 実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。また真の理想なれば実際に行われぬものはない。いかに高き理想も実際に現すことができると信ずる。
-
『論語と算盤』理想と迷信・道理ある希望を持て戦争して負けては困るが、ただ国力を挙げて戦争にのみ奔るということは王道に適するものではない。今日の時局に対して我々はそのような事まで心配せぬでもよい訳であるが、これから先の商工業はいかにしたらよかろうか、平和が克復したらその後の実業界はいかになるかというような事については、意想外なる変化を生じて、中には悪いと思ったことが善くなり、善いと思うたことが悪くもなろうから、今日から臆断は出来ない。しかし人は未来の事に向かってぜひとも理想は持つべきものであるから、たとい違却するとも一定の主義によって行うというようなことが無ければならぬ。つまりよく思いつまびらかに考えて事に当たれば、必ず過ちは少ないものである。戦争のごとき事変の勃発には、かつて想像したものに違却を生ずることはあるが。
-
自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想を行為に翻訳するが人生理想は何人でも、活きている者は必ずもっている。またこれがその生命である。耶蘇教で教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。 人はなんで活きているかというに、理想で活きている。ただ呼吸するだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握飯でも麦飯でもよいけれども、この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。 理想という原語を行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。
-
『呻吟語』内篇・修身・身は嚴重、意は安定身は嚴重ならんことを要し、意は安定ならんことを要し、色は溫雅ならんことを要し、氣は和平ならんことを要し、語は簡切ならんことを要し、心は慈祥ならんことを要し、志は果毅ならんことを要し、機は縝密ならんことを要す。