武士道 / 第十五章 武士道の感化・大和魂は斯花と開謝を同じくする
此時四肢は勞役を忘れ、心は悲哀に遠かるとも、何ぞ咎めん。一瞬の快樂盡くるや、彼等は復た新力、新意を提げて、日常の業に還る。此れに由つて觀るも亦た、櫻花は實に日本の花なり。然るに妍葩麗蕋、飄々として春風に舞ひ、一道の清香吹いて未だ幾何ならず、忽爾として消散するの斯花や、-櫻花は果して日本精神の儀表なる乎大和魂は、斯花と其開謝を同じくするものなる乎。
新字:此時四肢は労役を忘れ、心は悲哀に遠かるとも、何ぞ咎めん。一瞬の快楽尽くるや、彼等は復た新力、新意を提げて、日常の業に還る。此れに由つて観るも亦た、桜花は実に日本の花なり。然るに妍葩麗蕋、飄々として春風に舞ひ、一道の清香吹いて未だ幾何ならず、忽爾として消散するの斯花や、-桜花は果して日本精神の儀表なる乎大和魂は、斯花と其開謝を同じくするものなる乎。
書き下し
此時四肢は労役を忘れ、心は悲哀に遠かるとも、何ぞ咎めん。一瞬の快楽尽くるや、彼等は復た新力、新意を提げて日常の業に還る。此れに由つて観るも亦た、桜花は実に日本の花なり。然るに妍葩麗蕋、飄々として春風に舞ひ、一道の清香吹いて未だ幾何ならず、忽爾として消散するの斯花や、桜花は果して日本精神の儀表なるか。大和魂は、斯花と其開謝を同じくするものなるか。
現代語訳
このとき手足は労働を忘れ、心は悲しみから遠ざかるとしても、何を咎めましょう。一瞬の快楽が尽きると、彼らはまた新しい力と新しい思いを携えて日常の仕事へ帰ります。これによって見ても、桜はまことに日本の花です。ところが美しい花びらと蕊がひらひらと春風に舞い、ひとすじの清らかな香りが吹いていくらも経たないうちに、たちまち消え散るこの花。桜は果たして日本精神の表れなのでしょうか。大和魂はこの花と、その咲き散りを同じくするものなのでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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