文武訓 / 武訓上
一軍器三十六あり。弓を上首とす。武藝十八あり。射を第一とす。是、兵錄に見えたり。中華の書なり。日本にても射を重んじて、武士を弓とりといふ。中華にて、武藝には騎射を重しとし、日本にても、弓馬を武藝の宗とす。太刀鎗の類は、其術知らざる人もみだりにたゝかふ人多し。弓馬はならはざれば、かりにも弓を射馬に騎ることかなはず。しかれば武藝多き內にも、弓馬はことに知らずんばあるべからず。
新字:一軍器三十六あり。弓を上首とす。武芸十八あり。射を第一とす。是、兵録に見えたり。中華の書なり。日本にても射を重んじて、武士を弓とりといふ。中華にて、武芸には騎射を重しとし、日本にても、弓馬を武芸の宗とす。太刀鎗の類は、其術知らざる人もみだりにたゝかふ人多し。弓馬はならはざれば、かりにも弓を射馬に騎ることかなはず。しかれば武芸多き内にも、弓馬はことに知らずんばあるべからず。
書き下し
一軍器三十六あり。弓を上首とす。武芸十八あり。射を第一とす。是、兵録に見えたり。中華の書なり。日本にても射を重んじて、武士を弓とりといふ。中華にて、武芸には騎射を重しとし、日本にても、弓馬を武芸の宗とす。太刀鎗の類は、其術知らざる人もみだりにたたかふ人多し。弓馬はならはざれば、かりにも弓を射馬に騎ることかなはず。しかれば武芸多き内にも、弓馬はことに知らずんばあるべからず。
現代語訳
軍器は三十六あり、弓を筆頭とします。武芸は十八あり、射を第一とします。これは『兵録』に見えています。中国の書です。日本でも射を重んじて、武士を「弓取り」といいます。中国では武芸で騎射を重んじ、日本でも弓馬を武芸の本とします。太刀や槍のたぐいは、その術を知らない人でもむやみに戦う人が多いのです。弓馬は習わなければ、かりにも弓を射たり馬に乗ったりすることはできません。それゆえ武芸が多い中でも、弓馬はとくに知らなければなりません。
解説
この章句が説くこと
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論語・八佾篇子夏問いて曰く、「巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは、何の謂ぞや」と。子曰く、「絵事は素より後にす」と。曰く、「礼は後か」と。子曰く、「予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ」と。
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『玉勝間』四の巻 学者のまづかたきふしをとふ事物学ぶともがら、物知り人にあいて、物問うに、ともすればまづ、古書の中にも、世にかたき事として、誰も解きえぬふしをえり出でて、問うならいなり。たとえば書紀の斉明の御巻なる童謡、万葉にては、一の巻なる莫囂円隣云々と書ける歌などようのたぐいなり。こうようのかたき事を、まづ明らめまほしく思うも、学者のなべての心なれども、然らばやすき事どもは、皆よくあきらめ知れるかと、こころむれば、いとたやすき事どもをだに、いまだ得よくもわきまえず。さる者の、さしこえて、まづかたき節を明らめんとするは、いとあじき無きわざなり。よく聞こえたりと思いて、心もとどめぬ事に、思いの外なるひが心得の多かる物なれば、まづたやすき事を、いく度もかえさい考え、問いも明らめて、よく得たらん後にこそ、かたきふしをば、思いかくべきわざなれ。
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海を観る者には水と為し難く、聖人の門に游ぶ者には言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観る。日月明有り、光を容るるところ必ず照らす。流水の物為るや、科に盈たざれば行かず。君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。」
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李衛公問対・卷下兵の學を習うは、必ず先ず下より以て中に及び、中より以て上に及べば、則ち漸くにして深し。然らざれば、則ち空言を垂れ、徒に記誦するのみにて、取るに足らざるなり。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、小僧共は先つ法門より教へ度也。法門にて意のすべを知らすること易きなり。実に承当さすることは難し。習ひ事は暫時に成ること也。今時のずりさがり、法門を習はせんよりは、せめてすべなりとも能く知らせ度、只うはかゝのやうに念仏したるもよけれとも、其でも亦人の為めに成りかたし。意のすべをも心得たるが好き也。良有て曰く、乍去意何程移りたりとも、糞袋秘蔵の念は休むべからすと也。
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伝習録・陸澄録問う、「知識、長進せず。如何」と。先生曰く、「学を為すには須らく本原有るべし。須らく本原の上より力を用い、漸漸として『科に盈ちて進む』べし。仙家の嬰児を説くも、亦た善き譬えなり。嬰児は母の腹に在る時、只だ是れ純気なり。何の知識か有らん。胎を出でて後、方に始めて能く啼く。既にして後に能く笑う。又た既にして後に能く其の父母兄弟を認識す。又た既にして後に能く立ち、能く行き、能く持し、能く負う。卒に乃ち天下の事、能くすべからざる無し。皆な是れ精気日々に足れば、則ち筋力日々に強く、聡明日々に開くなり。是れ胎を出づる日に便ち講求推尋し得来たるに非ず。故に須らく個の本原有るべし。聖人の『天地を位せしめ、万物を育す』るに到るも、也只だ『喜怒哀楽未発の中』の上より養い来たる。後儒は格物の説に明らかならず、聖人の知らざる無く、能くせざる無きを見て、便ち初めて手を下す時に於て講求し尽くさんと欲す。豈に此の理有らんや」と。又た曰く、「志を立て功を用うるは、樹を種うるが如く然り。方に其の根芽なるや、猶お未だ有らず。其の幹有るに及びても、尚お未だ枝有らず。枝ありて後に葉あり、葉ありて後に花実あり。初め根を種うる時は、只管(ひたす)ら栽培灌漑せよ。枝の想を作す勿かれ。葉の想を作す勿かれ。花の想を作す勿かれ。実の想を作す勿かれ。懸想して何の益かあらん。但だ栽培の功を忘れずんば、枝・葉・花・実の有ること無きを怕(おそ)れんや」と。
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