驢鞍橋 / 卷下
夜話に曰く、小僧共は先つ法門より敎へ度也。法門にて意のすべを知らすること易きなり。實に承當さすることは難し。習ひ事は暫時に成ること也。今時のずりさがり、法門を習はせんよりは、せめてすべなりとも能く知らせ度、只うはかゝのやうに念佛したるもよけれとも、其でも亦人の爲めに成りかたし。意のすべをも心得たるが好き也。良有て曰く、乍去意何程移りたりとも、糞袋秘藏の念は休むべからすと也。
新字:夜話に曰く、小僧共は先つ法門より教へ度也。法門にて意のすべを知らすること易きなり。実に承当さすることは難し。習ひ事は暫時に成ること也。今時のずりさがり、法門を習はせんよりは、せめてすべなりとも能く知らせ度、只うはかゝのやうに念仏したるもよけれとも、其でも亦人の為めに成りかたし。意のすべをも心得たるが好き也。良有て曰く、乍去意何程移りたりとも、糞袋秘蔵の念は休むべからすと也。
書き下し
夜話に曰く、小僧共は先つ法門より教へ度也。法門にて意のすべを知らすること易きなり。実に承当さすることは難し。習ひ事は暫時に成ること也。今時のずりさがり、法門を習はせんよりは、せめてすべなりとも能く知らせ度、只うはかゝのやうに念仏したるもよけれとも、其でも亦人の為めに成りかたし。意のすべをも心得たるが好き也。良有て曰く、乍去意何程移りたりとも、糞袋秘蔵の念は休むべからすと也。
現代語訳
夜話で言われた。小僧たちには、まず法門(教えの筋道)から教えたい。法門で心のやり方を知らせるのは易しい。本当に承当(腹に落とすこと)させるのは難しい。習い事はしばらくの間にできることである。今どきの落ちぶれた者に法門を習わせるよりは、せめてやり方だけでもよく知らせたい。ただ老婆のように念仏するのもよいけれども、それでもまた人のためにはなりにくい。心のやり方も心得ているのがよい、と。しばらくして言われた。とはいえ、心がどれほど移ったとしても、糞袋を大切にする思いは休まないだろう、と。
解説

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論語・八佾篇子夏問いて曰く、「巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは、何の謂ぞや」と。子曰く、「絵事は素より後にす」と。曰く、「礼は後か」と。子曰く、「予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ」と。
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『省諐録』第35条詳證術は、萬學の基本なり。泰西此の術を發明して、兵略も亦大いに進み、逈然として往時と別なり。所謂下學して上達するなり。孫子の兵法に、度・量・數・稱もて勝つと云ふも、亦其の術なり。然れども漢と我と、孫子有りてより以來、誦習して講說せざる莫けれども、其の兵法依然として舊の如く、泰西と肩を比ぶるを得ず。是れ他無し、下學の功無きに坐するなり。今眞に武備を修飭せんと欲せば、先づ此の學科を興すに非ざれば不可なり。
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李衛公問対・卷下兵の學を習うは、必ず先ず下より以て中に及び、中より以て上に及べば、則ち漸くにして深し。然らざれば、則ち空言を垂れ、徒に記誦するのみにて、取るに足らざるなり。
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伝習録・陸澄録問う、「知識、長進せず。如何」と。先生曰く、「学を為すには須らく本原有るべし。須らく本原の上より力を用い、漸漸として『科に盈ちて進む』べし。仙家の嬰児を説くも、亦た善き譬えなり。嬰児は母の腹に在る時、只だ是れ純気なり。何の知識か有らん。胎を出でて後、方に始めて能く啼く。既にして後に能く笑う。又た既にして後に能く其の父母兄弟を認識す。又た既にして後に能く立ち、能く行き、能く持し、能く負う。卒に乃ち天下の事、能くすべからざる無し。皆な是れ精気日々に足れば、則ち筋力日々に強く、聡明日々に開くなり。是れ胎を出づる日に便ち講求推尋し得来たるに非ず。故に須らく個の本原有るべし。聖人の『天地を位せしめ、万物を育す』るに到るも、也只だ『喜怒哀楽未発の中』の上より養い来たる。後儒は格物の説に明らかならず、聖人の知らざる無く、能くせざる無きを見て、便ち初めて手を下す時に於て講求し尽くさんと欲す。豈に此の理有らんや」と。又た曰く、「志を立て功を用うるは、樹を種うるが如く然り。方に其の根芽なるや、猶お未だ有らず。其の幹有るに及びても、尚お未だ枝有らず。枝ありて後に葉あり、葉ありて後に花実あり。初め根を種うる時は、只管(ひたす)ら栽培灌漑せよ。枝の想を作す勿かれ。葉の想を作す勿かれ。花の想を作す勿かれ。実の想を作す勿かれ。懸想して何の益かあらん。但だ栽培の功を忘れずんば、枝・葉・花・実の有ること無きを怕(おそ)れんや」と。