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文武訓 / 文訓上之末

一はかなき筆のすさみにて、人の心の内も見ゆることわりなれば、詩文をつくり、もの書くことも、つねに心にかけてつゝしまざらんや。一書狀のことばこそ、殊に心を用ふべきことなれ。本邦、先代定められし書禮の法、今に至りて世にこれを用ふ。もろこしの賢哲の定められし禮法にはあらざれども、世俗の宜にかなひて、すでに國法となれり。書禮知らぬ人は、わが身の分をわすれ、おごりて人をいやしめ、或は、うやまひ過してへつらひとなる、二ながら無禮といふべし。書禮を知らば、おごりなくへつらひなくして、過不及のあやまりすくなかるべし。されどふみには、つねのことばよりは、すこし人をうやまひ過したるは、書禮の法なりとぞ。等輩にも、啓上と恐惶など書くを以て知るべし。此意得ありて書くべし。おごれる文言、書くべからず。文字知れる人も、書禮を知らざれば、日用のちかきことにうとく、ひが事ありて無禮なる故、人に笑はるゝことあり。少し心を用ひてこれを知るべし。もろこしの書簡をまなぶにくらべば、まことにいと易き事なるべし。

新字:一はかなき筆のすさみにて、人の心の内も見ゆることわりなれば、詩文をつくり、もの書くことも、つねに心にかけてつゝしまざらんや。一書状のことばこそ、殊に心を用ふべきことなれ。本邦、先代定められし書礼の法、今に至りて世にこれを用ふ。もろこしの賢哲の定められし礼法にはあらざれども、世俗の宜にかなひて、すでに国法となれり。書礼知らぬ人は、わが身の分をわすれ、おごりて人をいやしめ、或は、うやまひ過してへつらひとなる、二ながら無礼といふべし。書礼を知らば、おごりなくへつらひなくして、過不及のあやまりすくなかるべし。されどふみには、つねのことばよりは、すこし人をうやまひ過したるは、書礼の法なりとぞ。等輩にも、啓上と恐惶など書くを以て知るべし。此意得ありて書くべし。おごれる文言、書くべからず。文字知れる人も、書礼を知らざれば、日用のちかきことにうとく、ひが事ありて無礼なる故、人に笑はるゝことあり。少し心を用ひてこれを知るべし。もろこしの書簡をまなぶにくらべば、まことにいと易き事なるべし。

書き下し

一はかなき筆のすさみにて、人の心の内も見ゆることわりなれば、詩文をつくり、もの書くことも、つねに心にかけてつつしまざらんや。一書状のことばこそ、殊に心を用ふべきことなれ。本邦、先代定められし書礼の法、今に至りて世にこれを用ふ。もろこしの賢哲の定められし礼法にはあらざれども、世俗の宜にかなひて、すでに国法となれり。書礼知らぬ人は、わが身の分をわすれ、おごりて人をいやしめ、或は、うやまひ過してへつらひとなる、二ながら無礼といふべし。書礼を知らば、おごりなくへつらひなくして、過不及のあやまりすくなかるべし。されどふみには、つねのことばよりは、すこし人をうやまひ過したるは、書礼の法なりとぞ。等輩にも、啓上と恐惶など書くを以て知るべし。此意得ありて書くべし。おごれる文言、書くべからず。文字知れる人も、書礼を知らざれば、日用のちかきことにうとく、ひが事ありて無礼なる故、人に笑はるることあり。少し心を用ひてこれを知るべし。もろこしの書簡をまなぶにくらべば、まことにいと易き事なるべし。

現代語訳

たわいない筆のすさびにも、人の心の内は見えるものですから、詩文を作り、ものを書くことも、いつも心にかけて慎まないでいられましょうか。書状の言葉こそ、とりわけ心を用いるべきものです。わが国では、先代に定められた書札礼の法を、今に至るまで世に用いています。中国の賢者が定めた礼法ではありませんが、世俗の宜しさにかなって、すでに国の法となっています。書札礼を知らない人は、自分の身の分を忘れ、驕って人を見下したり、あるいは敬いすぎてへつらいとなったりします。どちらも無礼というべきです。書札礼を知っていれば、驕りもへつらいもなく、行き過ぎや足りなさの誤りが少なくなるでしょう。ただし手紙では、ふだんの言葉よりも少し人を敬いすぎるくらいが書札礼の法だといいます。同輩にも「啓上」「恐惶」などと書くことからわかるでしょう。この心得をもって書きなさい。驕った文言を書いてはいけません。文字を知っている人でも、書札礼を知らなければ、日常の身近なことにうとく、誤りがあって無礼となるので、人に笑われることがあります。少し心を用いてこれを知りなさい。中国の書簡を学ぶのに比べれば、まことにたやすいことでしょう。

解説

筆のすさびにも心が表れるので、とくに手紙は書札礼にかなうよう心を配れと説いています。書札礼は室町期以来の武家社会で整えられた手紙の作法で、宛名や敬語の段階で相手との関係を示しました。益軒はそれが中国の古礼ではなくとも、世の宜しさにかなう国の法として尊重します。驕りもへつらいも無礼という指摘は、今のビジネスメールにそのまま当てはまります。敬語や定型の作法を少し身につけるだけで、相手に不快を与える失敗を大きく減らせるのです。

この章句が説くこと

礼手紙書札礼敬意作法

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