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武士道 / 第六章 禮儀・礼の極意は愛に庶幾し

外人の我邦に來り遊ぶもの、嫻雅禮節を以て日本人の特性なりと稱せざるは無し。禮若し俯仰折旋の儀容に過ぎする同情の發現にして、又た尊きを尊び、秩序ある社會の許ずとせば、乃ち以て德とするに足らず。禮は人の感情を察認する地位を敬ふの意を有す」而して其地位とは貧富の別に基くものゝ謂に非らず、人の誠に有する効績德業の差等の謂なり。」禮の極意は愛に庶幾し。されば予は爰に寅んで、彼の聖語の一字を更へて、『禮は寛忍をなし、又た人の益を圖るな禮り。禮は、妒まず、誇らず、驕傲らず、非禮を行はず、己れの利を求めず、輕々しく怒らず、人の惡を念はず』と謂ふを得ん乎。デイーン教授が人生の六義を論じて、禮を重しとし、之を以て社交の熟果なりとせしは、盖し又た異しむに足らず。

新字:外人の我邦に来り遊ぶもの、嫻雅礼節を以て日本人の特性なりと称せざるは無し。礼若し俯仰折旋の儀容に過ぎする同情の発現にして、又た尊きを尊び、秩序ある社会の許ずとせば、乃ち以て徳とするに足らず。礼は人の感情を察認する地位を敬ふの意を有す」而して其地位とは貧富の別に基くものゝ謂に非らず、人の誠に有する効績徳業の差等の謂なり。」礼の極意は愛に庶幾し。されば予は爰に寅んで、彼の聖語の一字を更へて、『礼は寛忍をなし、又た人の益を図るな礼り。礼は、妒まず、誇らず、驕傲らず、非礼を行はず、己れの利を求めず、軽々しく怒らず、人の悪を念はず』と謂ふを得ん乎。デイーン教授が人生の六義を論じて、礼を重しとし、之を以て社交の熟果なりとせしは、盖し又た異しむに足らず。

書き下し

外人の我邦に来り遊ぶもの、嫻雅礼節を以て日本人の特性なりと称せざるは無し。礼もし、俯仰折旋の儀容に過ぎずして、同情の発現にして、又た尊きを尊び、秩序ある社会の許すとせば、乃ち以て徳とするに足らず。礼は人の感情を察認する地位を敬ふの意を有す。而して其地位とは貧富の別に基くものの謂に非らず、人の誠に有する効績徳業の差等の謂なり。礼の極意は愛に庶幾し。されば予はここに慎んで、彼の聖語の一字を更へて、『礼は寛忍をなし、又た人の益を図るなり。礼は妬まず、誇らず、驕傲らず、非礼を行はず、己れの利を求めず、軽々しく怒らず、人の悪を念はず』と謂ふを得んか。ディーン教授が人生の六義を論じて、礼を重しとし、之を以て社交の熟果なりとせしは、けだし又た異しむに足らず。

現代語訳

わが国に来て遊ぶ外国人で、優雅な礼節を日本人の特性だと言わない者はいません。礼がもし、身のこなしの作法にすぎず、同情の表れであり、また尊いものを尊び、秩序ある社会が許すというだけなら、徳とするには足りません。礼は人の感情を察し、その立場を敬うという意味を持ちます。そしてその立場とは貧富の別に基づくものではなく、人が本当に持っている功績や徳業の差を言うのです。礼の極意は愛に近い。ですから私はここで慎んで、あの聖書の言葉の一字を変えて、礼は寛容であり、また人の益を図る。礼は妬まず、誇らず、驕らず、非礼を行わず、自分の利を求めず、軽々しく怒らず、人の悪を思わない、と言えるのではないでしょうか。ディーン教授が人生の六つの徳義を論じて礼を重んじ、これを社交の熟した果実だとしたのは、思うに不思議ではありません。

解説

第六章の礼が定義されます。作法だけなら徳ではない。人の感情を察し、その人の功績や徳による立場を敬うことが礼だと言う。貧富ではなく徳の差だ、と念を押すところが要です。そして新渡戸は、コリント書の愛の讃歌の愛を礼に置き換えて引きます。キリスト者が自国の徳目を聖書の形式で語るという大胆な試みで、礼と愛が同じものだという主張を、形で示しています。

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