武教講録 / 言語應對・過去の評論でなく今日の非を戒める
後醍醐天皇の北條を討じ給ひ、特に後醍醐の末年に至つては高氏別に天子を擁立し、兩統相爭の態をなし、己が叛逆の蹟を掩ひ、天下の人目を蠱惑せしに至れり、是義不義の論ある所也、官軍の義にして、賊兵の不義なる事、紙上の論にては明白なるとなれども、當時に在ては利害成敗に頓着して、多くは義不義の論に及ばざる有樣也、時代武義之盛衰は、忝くも神武天皇日向より策を決して親から水師を率ひ東征し、遂に都を大和の橿原に定め給ひしより以來、崇神天皇は、四道將軍を置給ひ、景行仲哀二天皇は、親ら叛亂を征伐し給ひ、神功皇后に至ては、海外迄も親征し給ふ、爾後、事起れば、皇子或は重臣に命じ征討せしめ給ひ、兵權常に朝廷に在り、武威常に海外に振ふ、是武義の盛なり、淸盛、賴朝以來、武臣兵權を橫奪して、今日に降ては、海外の醜夷反て來侵するに至る、是武義の衰也、此兩條は其最も大にして甚見易き者なり、其間又小義、小不義、小盛、小衰は限なきとにて、古戰場の事勇義の行各是れに屬すること又限なし、然ども、此類の事を懸空に論ずるは、古今史論家の常事にして、武士道に於て毫も裨益なきことなり、故に先師の敎は議論して今日の非を戒しむべしとあり、嗚呼高氏の逆賊たるとは三歲の小兒も知たれども、今日の非を戒むる者絶て少し、武義の衰たるとは五尺の童子も知たれども、亦今日の非を戒むる者最も少し、凡そ事斯の如くなれば、其他の小義不義小盛衰、及び古戰場の事、勇義の行に至ても、徒に呶々辨說するまでにて、毫も其非を戒むるとなく、神州今日の事に裨益あるとなし、吾輩猛省せざるべけんや、
新字:後醍醐天皇の北条を討じ給ひ、特に後醍醐の末年に至つては高氏別に天子を擁立し、両統相争の態をなし、己が叛逆の跡を掩ひ、天下の人目を蠱惑せしに至れり、是義不義の論ある所也、官軍の義にして、賊兵の不義なる事、紙上の論にては明白なるとなれども、当時に在ては利害成敗に頓着して、多くは義不義の論に及ばざる有様也、時代武義之盛衰は、忝くも神武天皇日向より策を決して親から水師を率ひ東征し、遂に都を大和の橿原に定め給ひしより以来、崇神天皇は、四道将軍を置給ひ、景行仲哀二天皇は、親ら叛乱を征伐し給ひ、神功皇后に至ては、海外迄も親征し給ふ、爾後、事起れば、皇子或は重臣に命じ征討せしめ給ひ、兵権常に朝廷に在り、武威常に海外に振ふ、是武義の盛なり、清盛、頼朝以来、武臣兵権を横奪して、今日に降ては、海外の醜夷反て来侵するに至る、是武義の衰也、此両条は其最も大にして甚見易き者なり、其間又小義、小不義、小盛、小衰は限なきとにて、古戦場の事勇義の行各是れに属すること又限なし、然ども、此類の事を懸空に論ずるは、古今史論家の常事にして、武士道に於て毫も裨益なきことなり、故に先師の教は議論して今日の非を戒しむべしとあり、嗚呼高氏の逆賊たるとは三歳の小児も知たれども、今日の非を戒むる者絶て少し、武義の衰たるとは五尺の童子も知たれども、亦今日の非を戒むる者最も少し、凡そ事斯の如くなれば、其他の小義不義小盛衰、及び古戦場の事、勇義の行に至ても、徒に呶々弁説するまでにて、毫も其非を戒むるとなく、神州今日の事に裨益あるとなし、吾輩猛省せざるべけんや、
書き下し
後醍醐天皇の北條を討じ給ひ、特に後醍醐の末年に至つては高氏別に天子を擁立し、兩統相爭の態をなし、己が叛逆の蹟を掩ひ、天下の人目を蠱惑せしに至れり、是義不義の論ある所也、官軍の義にして、賊兵の不義なる事、紙上の論にては明白なるとなれども、當時に在ては利害成敗に頓着して、多くは義不義の論に及ばざる有樣也、時代武義之盛衰は、忝くも神武天皇日向より策を決して親から水師を率ひ東征し、遂に都を大和の橿原に定め給ひしより以來、崇神天皇は、四道將軍を置給ひ、景行仲哀二天皇は、親ら叛亂を征伐し給ひ、神功皇后に至ては、海外迄も親征し給ふ、爾後、事起れば、皇子或は重臣に命じ征討せしめ給ひ、兵權常に朝廷に在り、武威常に海外に振ふ、是武義の盛なり、淸盛、賴朝以來、武臣兵權を橫奪して、今日に降ては、海外の醜夷反て來侵するに至る、是武義の衰也、此兩條は其最も大にして甚見易き者なり、其間又小義、小不義、小盛、小衰は限なきとにて、古戰場の事勇義の行各是れに屬すること又限なし、然ども、此類の事を懸空に論ずるは、古今史論家の常事にして、武士道に於て毫も裨益なきことなり、故に先師の敎は議論して今日の非を戒しむべしとあり、嗚呼高氏の逆賊たるとは三歲の小兒も知たれども、今日の非を戒むる者絶て少し、武義の衰たるとは五尺の童子も知たれども、亦今日の非を戒むる者最も少し、凡そ事斯の如くなれば、其他の小義不義小盛衰、及び古戰場の事、勇義の行に至ても、徒に呶々辨說するまでにて、毫も其非を戒むるとなく、神州今日の事に裨益あるとなし、吾輩猛省せざるべけんや、
現代語訳
後醍醐天皇が北条氏を討たれ、特に後醍醐の末年には、足利高氏が別に天子を擁立して両統が相争う状態を作り、己の叛逆の跡を覆い隠して天下の人目を惑わすに至りました。これが義不義の論のあるところです。官軍が義で賊兵が不義であることは、紙の上の論では明白ですが、当時にあっては、利害や成敗に気を取られ、多くは義不義の論に及ばない有様でした。時代の武義の盛衰は、畏れ多くも神武天皇が日向で策を決し、自ら水軍を率いて東征し、ついに都を大和の橿原に定められて以来、崇神天皇は四道将軍を置かれ、景行・仲哀の二天皇は自ら叛乱を征伐され、神功皇后に至っては海外まで自ら征かれました。その後も、事が起これば皇子あるいは重臣に命じて征討させ、兵権は常に朝廷にあり、武威は常に海外に振るいました。これが武義の盛んなときです。清盛、頼朝以来、武臣が兵権を横奪し、今日に至っては、海外の醜い異民族がかえって来侵するに至りました。これが武義の衰えです。この両条は、その最も大きくて甚だ分かりやすいものです。その間にはまた小さな義、小さな不義、小さな盛、小さな衰が限りなくあり、古戦場の事や勇義の行いも、それぞれこれに属することは限りありません。しかし、この類の事を空論するのは、古今の史論家の常で、武士道においては少しも益がありません。ゆえに先師の教えは、議論して今日の非を戒めるべきだとあります。ああ、高氏が逆賊であることは三歳の子どもも知っていますが、今日の非を戒める者はきわめて少ない。武義が衰えたことは五尺の童子も知っていますが、これまた今日の非を戒める者は最も少ない。およそ事はこのようなので、そのほかの小義不義や小盛衰、古戦場の事、勇義の行いに至っても、いたずらにくどくど弁説するばかりで、少しもその非を戒めることなく、日本の今日の事に益がありません。私たちは猛省しないでよいでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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