武家拾要記抄録 / 嘉言篇・平時の兵糧と間者、組頭の功名の戒め
一太平の時より、近國の兵粮以下取置べきこゝろがけあるべし、間者犬等は古來說多し心得べし、凡諸國の法令、大將物頭の知愚、城郭山川海の近道廻り路直道まで知べし、然れば他國より若我國へ間者の來り居べき事をしりて、敵の謀士を味方の謀士となすべし、又戰はざる先に勝といふも、間者をもつて諸國の善惡、知行の高下、所務、米の損大、家中の作法、勇臆、百姓の貧福、人數の多少、隣國の加勢、騎馬の大積、城の要害、萬事の手番まで量り知る也、一組頭たる者は、我一分何程抽てたる手柄ありともてがらにあらず、若討死する時は其組子の分は、しばらくよりつく所なきゆへ也、又物前にて頭奉行の申旨をも聞いれず、軍法を背き、けなげだてする者は、必ず逆臣同意の罪科たるべきよし、觸知らしむべし、頭奉行の下知にしたがはずして他の陣にいたり、自己が功名ありとも同前、夜討並いかなる俄事出來るとも、下知なき間は懸出べからず、但敵其手先へ寄來る時は、其組頭の下知次第に進退すべし、
新字:一太平の時より、近国の兵粮以下取置べきこゝろがけあるべし、間者犬等は古来説多し心得べし、凡諸国の法令、大将物頭の知愚、城郭山川海の近道廻り路直道まで知べし、然れば他国より若我国へ間者の来り居べき事をしりて、敵の謀士を味方の謀士となすべし、又戦はざる先に勝といふも、間者をもつて諸国の善悪、知行の高下、所務、米の損大、家中の作法、勇臆、百姓の貧福、人数の多少、隣国の加勢、騎馬の大積、城の要害、万事の手番まで量り知る也、一組頭たる者は、我一分何程抽てたる手柄ありともてがらにあらず、若討死する時は其組子の分は、しばらくよりつく所なきゆへ也、又物前にて頭奉行の申旨をも聞いれず、軍法を背き、けなげだてする者は、必ず逆臣同意の罪科たるべきよし、触知らしむべし、頭奉行の下知にしたがはずして他の陣にいたり、自己が功名ありとも同前、夜討並いかなる俄事出来るとも、下知なき間は懸出べからず、但敵其手先へ寄来る時は、其組頭の下知次第に進退すべし、
書き下し
一太平の時より、近國の兵粮以下取置べきこゝろがけあるべし、間者犬等は古來說多し心得べし、凡諸國の法令、大將物頭の知愚、城郭山川海の近道廻り路直道まで知べし、然れば他國より若我國へ間者の來り居べき事をしりて、敵の謀士を味方の謀士となすべし、又戰はざる先に勝といふも、間者をもつて諸國の善惡、知行の高下、所務、米の損大、家中の作法、勇臆、百姓の貧福、人數の多少、隣國の加勢、騎馬の大積、城の要害、萬事の手番まで量り知る也、一組頭たる者は、我一分何程抽てたる手柄ありともてがらにあらず、若討死する時は其組子の分は、しばらくよりつく所なきゆへ也、又物前にて頭奉行の申旨をも聞いれず、軍法を背き、けなげだてする者は、必ず逆臣同意の罪科たるべきよし、觸知らしむべし、頭奉行の下知にしたがはずして他の陣にいたり、自己が功名ありとも同前、夜討並いかなる俄事出來るとも、下知なき間は懸出べからず、但敵其手先へ寄來る時は、其組頭の下知次第に進退すべし、
現代語訳
一つ、太平のときから、近国の兵糧などを取り置く心がけがあるべきです。間者や犬などについては、古来説が多いので心得なさい。およそ諸国の法令、大将や物頭の知愚、城郭・山川・海の近道や回り道、直道まで知るべきです。そうすれば、他国から、もし我が国へ間者が来ているのを知って、敵の謀士を味方の謀士とするのです。また、戦わないうちに勝つというのも、間者をもって諸国の善悪、知行の高下、所務、米の損得、家中の作法、勇と臆、百姓の貧富、人数の多少、隣国の加勢、騎馬の大積り、城の要害、万事の手番に至るまで量り知ることです。一つ、組頭たる者は、自分一人がどれほど抜きん出た手柄があっても手柄ではありません。もし討ち死にするとき、その組子の分は、しばらくよりどころがないからです。また、いざというとき、頭や奉行の言うことを聞き入れず、軍法に背き、勇ましげに振る舞う者は、必ず逆臣に同意する罪科であると、触れ知らせるべきです。頭や奉行の指図に従わずに他の陣に行き、自分に功名があっても同じです。夜討ちやどんな急な事が起こっても、指図がない間は駆け出してはなりません。ただし、敵がその手先に寄って来るときは、その組頭の指図次第に進退しなさい。
解説

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