武事提要 / 武敎之問答・流派の名の由来と道徳か偽りかの問い
一或問云、當流は山本勘介流と可稱也、俗に甲州流といゝ、武田流と云はあやまりか、又別なるや、答云、當流は勘介流也、信玄へ傳受いたさしむるを信玄其敎を專とし其功ありしゆへ、信玄の名高きを以て武田流と世にとなゆる也、其國は甲州なるゆへ甲州流とも云也、本甲州に其敎あるにはあらず、信玄より敎出たるにあらず、勘介より出たる敎なれば、外の名言べきにあらざる也、二問云、當流には其敎道德に本を立るや、又僞詐を用る敎にありや、答云、當流には兩品共に用、又不用、必竟可用を用、可捨を捨、一にかたむき一品によるにあらざるなり、其實は平世の弓矢のことを專として平世に心を正し氣を養て、武用滯りなからしむるを以て本として、其要は長久にして天下國家の治平にあり、戰の上にをいて勝をとるは僞詐をも用、勿論實用をも用ゆることにして、必竟敵に因て轉化するの心にして、敵より我を奇なりとせば、正を以て勝なり、敵より正なりとせば奇を以て勝なり、敵を致して敵に不致、人を形して我に形なき所を敎るの流儀なり、三問云、當流を不知たとへ知ても不用來方より俄に賴用事有之とも其功可有之や、
新字:一或問云、当流は山本勘介流と可称也、俗に甲州流といゝ、武田流と云はあやまりか、又別なるや、答云、当流は勘介流也、信玄へ伝受いたさしむるを信玄其教を専とし其功ありしゆへ、信玄の名高きを以て武田流と世にとなゆる也、其国は甲州なるゆへ甲州流とも云也、本甲州に其教あるにはあらず、信玄より教出たるにあらず、勘介より出たる教なれば、外の名言べきにあらざる也、二問云、当流には其教道徳に本を立るや、又偽詐を用る教にありや、答云、当流には両品共に用、又不用、必竟可用を用、可捨を捨、一にかたむき一品によるにあらざるなり、其実は平世の弓矢のことを専として平世に心を正し気を養て、武用滞りなからしむるを以て本として、其要は長久にして天下国家の治平にあり、戦の上にをいて勝をとるは偽詐をも用、勿論実用をも用ゆることにして、必竟敵に因て転化するの心にして、敵より我を奇なりとせば、正を以て勝なり、敵より正なりとせば奇を以て勝なり、敵を致して敵に不致、人を形して我に形なき所を教るの流儀なり、三問云、当流を不知たとへ知ても不用来方より俄に頼用事有之とも其功可有之や、
書き下し
一或問云、當流は山本勘介流と可稱也、俗に甲州流といゝ、武田流と云はあやまりか、又別なるや、答云、當流は勘介流也、信玄へ傳受いたさしむるを信玄其敎を專とし其功ありしゆへ、信玄の名高きを以て武田流と世にとなゆる也、其國は甲州なるゆへ甲州流とも云也、本甲州に其敎あるにはあらず、信玄より敎出たるにあらず、勘介より出たる敎なれば、外の名言べきにあらざる也、二問云、當流には其敎道德に本を立るや、又僞詐を用る敎にありや、答云、當流には兩品共に用、又不用、必竟可用を用、可捨を捨、一にかたむき一品によるにあらざるなり、其實は平世の弓矢のことを專として平世に心を正し氣を養て、武用滯りなからしむるを以て本として、其要は長久にして天下國家の治平にあり、戰の上にをいて勝をとるは僞詐をも用、勿論實用をも用ゆることにして、必竟敵に因て轉化するの心にして、敵より我を奇なりとせば、正を以て勝なり、敵より正なりとせば奇を以て勝なり、敵を致して敵に不致、人を形して我に形なき所を敎るの流儀なり、三問云、當流を不知たとへ知ても不用來方より俄に賴用事有之とも其功可有之や、
現代語訳
一、ある人が問います。「当流は山本勘介流と称すべきでしょうか。俗に甲州流といい、武田流というのは誤りでしょうか、それとも別のものでしょうか。」答えます。当流は勘介流です。信玄へ伝授したところ、信玄がその教えを専らとして功があったので、信玄の名が高いことから武田流と世に唱えるのです。その国は甲州なので甲州流とも言います。もともと甲州にその教えがあったのではなく、信玄から教えが出たのでもありません。勘介から出た教えなので、ほかの名で言うべきではありません。二、問います。「当流は、その教えは道徳に本を立てるのでしょうか、それとも偽り欺く教えを用いるのでしょうか。」答えます。当流は両方とも用い、また用いません。つまるところ、用いるべきを用い、捨てるべきを捨て、一つに偏り一つの品に拠るのではありません。その実は、平世の弓矢のことを専らとし、平世に心を正し気を養って、武の用が滞りないようにするのを本とし、その要は長久で、天下国家の治平にあります。戦の上で勝ちを取るには偽り欺くことも用い、もちろん実用も用いることで、つまるところ敵によって転化する心であり、敵が自分を奇とするなら正で勝ち、敵が正とするなら奇で勝つのです。敵を致して敵に致されず、人を形にして自分には形がない所を教える流儀です。三、問います。「当流を知らない、あるいは知っても用いない方から、急に頼まれて用いることがあっても、その功はあるでしょうか。」
解説

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『武事提要』・提要・武事提要の六項目と練武の三要一武敎之本源士は三民の長たるを以て武士と云、依之其言行不宜則三民却て賊となる、故に士の敎を本として、四民共に長久ならしむる也、其四民を治を武將と云也、一流儀之傳來當流を山本勘介流と號し、武たるの上に傳受を立世に用之事、極意必勝の實ある故なり、其傳來の次第は鈴木日向、山本勘介、早川彌三左衞門、尾畑勘兵衞、北條安房守、山鹿甚五左衞門、如此段々傳之來也、一武家之法式法は正を以て初とし、勝を以て終とす、神君軍戰の上にて法を被爲立にも、其本有之事也、一爲將之本意將の本意と云は、兵は國の大事たるを知るにあり、次に將は衆人の的當にして、一身の明正を立るを意とし、仁を始中終守て、義を以て戒たらしむると也、一敎習之大本謀署、智略、計策を兵學の三本として、內外變を治る、隨應する事を敎ゆる也、一練武之大意弓矢の上にては士卒强盛たらしむるを修行とするなり、其人數將の下知に順靡を本とするなり、其士卒順靡事其要三にあらざれば不調なり、第一は人を知て其役の可相勤人品を申付るなり、第二には常に善を賞し惡を懲を以て、上下の善惡明白になる、明白なれば士卒不疑して其氣すゝむなり、第三常の事にも士卒の上を練習して家の風儀習となるがごとくして、備立行列共に手間を不取を云なり、是を三の采幣と云傳、山本氏信玄へ密傳ありしも是なり、此傳を練武の大意とは云と也、一武敎之問答武の上に敎あると、品々の問、品々の答あり、是をよく會得すれば、武の上は此敎に止て外に有之べからざるを知り、武の敎意味の深重なる事を辨知也、故に廿一問を爰に出す也、
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『武事提要』・武敎之問答・他流の偏りと、兵学と聖学の分担答云、世以其流儀品々多しといへども、運氣にかたよりて實事うすく、計によつて謀にうすく、或は心意の沙汰に趣て形躰取用られず、又は其實ありて、枝葉につかゆる、當流は本より押出形躰を盡し、枝葉共に其至善を以敎を建ることなれば、外に比喩あるべからざる也、十四問云、當流は王道の弓矢か、伯道の弓矢か、答云、博識に薄く文字に乏し、王伯の論は辨ずること不能、唯義を以て不義を討の事にして、四民の長久を本とし、人々安く行べきのことのみ也、十五問云、然らば國家を治る敎は不有之や、答云、身を修家を齊、國天下を治平する事は聖學日用の道なり、孟子盡心曰、聖人百世之師也と有之、又天下有三好、衆人好己從、賢人好己正、聖人好己師と云り、己を不立して道を慕ふ人には不可不論也、猶審問の上にあるべき也、聖學は日用にして弓矢の法にあらず、兵學は弓矢の敎にして日用の論にあらず、取雜て論ずれば、雜學の心にして益なきなり、其道理至極せるは、戰法を日用に比するとも、豈それ別ならんや、然れども其趣別なるときは其敎も異也、十六問云、志有之學問といへども、土地によつて違ことありや、邊鄙遠境にて勤るも其品かはりあらんや、
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『武事提要』・流儀之傳來・兵学の伝来と早川幸豊の進言鈴木日向重辰山本勘介晴幸早川彌三左衞門幸豐尾畑勘兵衞景憲北條安房守氏長山鹿甚五左衞門高祐如此段々傳受之來也、其人々の有增末に記之、鈴木重辰今川義元の家臣、三州寺部之城主也、山本晴幸晴幸入道して號道鬼、其先三州牛窪に住なり、又は山本土佐と號して、二千貫を領すと、古老傳之也、重辰より兵學傳來して專敎を立るなり、自是勘介流世に流布す、其名駿遠三に勃興して後甲陽の武田信玄に被召出之、天文十二癸卯正月也、初百貫の約束にて、目見の日一倍の立身、二百貫被下之、其後足輕五十人預之、爲弓矢の師範、段々加增有之、戸石合戰以後天文十五丙午七月廿一日、八百貫被下之、又足輕を被指加、都合七十五人預之、於武田家號五人之足輕大將、早川幸豐父は早川豐後、初は武田家馬塲美濃同心也、後、井伊直政家臣たり、甲陽軍鑑に事委し、天正十一癸未年四月九日、尾州長久手御合戰の節、早川幸豐、羽柴秀吉卿の陣取を見合して、直政へ密に告て曰、敵は大軍也、軍を分て三州岡崎へ中入有之節、(是は廻備の事にして、上方の軍詞なり、)秀吉卿は十二萬餘の大軍也、神君の御人數、尾州清須へ引入られんと被思召事も可有之、然ば大敵に對陣の時は、御備の旗を不飾して可然歟、以寡擊衆には不意を擊に利あり、其不意に出る節、
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『武事提要』・武敎之問答・格の高い場で認められる名将の証拠答云、天下を領する大將の弓矢の格を證據とするなり、其次は名將良將、其次は大塲の弓矢なり、古も楠正成は天子より勅を蒙て武威を振ひ、其功其名帝都に流布せり、武田信玄は甲州に住居すといへども世に名ある武將と合戰數度及ぶ、依之其功東海道に滿々たり、木曾義仲、柴田勝家、其勇猛比類すべきなしといへども、其習し邊鄙山中の俗にして其威風專賤し、故に世以て是を奔走せず、是其證據なり、況や小身一己の者邊鄙遠境の勤有之とも何ぞ用之や、十九問云、聖賢の上にも土地の撰有之て修するや、
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『武事提要』・武家之法式・信玄の法式と山本帯刀の登用武の法は正を以て初とし、勝を以て終とする也、正と云は一筋に止て不變を云、勝と云は他に不負して勝を云、式と云は相定たる品々を云なり、其初山本晴幸兵學の師範として、甲陽の武田信玄に傳來して信玄の弓矢の法式を定め、信玄一生の合戰三十九度にして敗北の事一度も無之、是必竟不可負の敎にして、主戰、客戰、攻城、守城、衆戰、寡戰、山川、海陸、夜戰、夜守、伏戰、其外軍戰の上に於てもるゝ事なき傳來にして聊危事なし、信玄の作法にをいて晴幸の敎習、神君御感被遊、戰用法式信玄の備の如く諸色可被仰付思召にて、神君濱松に於て(濱松御入城は永祿十一戊辰極月十五日の事也、此一事此後の義と聞へたり、)山本一族方々御尋被仰付といへども、其比類門の者外に無之にをいて、三州牛窪牧野右馬允康成家中の山本帶刀左衞門成氏事、