武事提要 / 流儀之傳來・兵学の伝来と早川幸豊の進言
鈴木日向重辰山本勘介晴幸早川彌三左衞門幸豐尾畑勘兵衞景憲北條安房守氏長山鹿甚五左衞門高祐如此段々傳受之來也、其人々の有增末に記之、鈴木重辰今川義元の家臣、三州寺部之城主也、山本晴幸晴幸入道して號道鬼、其先三州牛窪に住なり、又は山本土佐と號して、二千貫を領すと、古老傳之也、重辰より兵學傳來して專敎を立るなり、自是勘介流世に流布す、其名駿遠三に勃興して後甲陽の武田信玄に被召出之、天文十二癸卯正月也、初百貫の約束にて、目見の日一倍の立身、二百貫被下之、其後足輕五十人預之、爲弓矢の師範、段々加增有之、戸石合戰以後天文十五丙午七月廿一日、八百貫被下之、又足輕を被指加、都合七十五人預之、於武田家號五人之足輕大將、早川幸豐父は早川豐後、初は武田家馬塲美濃同心也、後、井伊直政家臣たり、甲陽軍鑑に事委し、天正十一癸未年四月九日、尾州長久手御合戰の節、早川幸豐、羽柴秀吉卿の陣取を見合して、直政へ密に告て曰、敵は大軍也、軍を分て三州岡崎へ中入有之節、(是は廻備の事にして、上方の軍詞なり、)秀吉卿は十二萬餘の大軍也、神君の御人數、尾州清須へ引入られんと被思召事も可有之、然ば大敵に對陣の時は、御備の旗を不飾して可然歟、以寡擊衆には不意を擊に利あり、其不意に出る節、
新字:鈴木日向重辰山本勘介晴幸早川弥三左衛門幸豊尾畑勘兵衛景憲北条安房守氏長山鹿甚五左衛門高祐如此段々伝受之来也、其人々の有增末に記之、鈴木重辰今川義元の家臣、三州寺部之城主也、山本晴幸晴幸入道して号道鬼、其先三州牛窪に住なり、又は山本土佐と号して、二千貫を領すと、古老伝之也、重辰より兵学伝来して専教を立るなり、自是勘介流世に流布す、其名駿遠三に勃興して後甲陽の武田信玄に被召出之、天文十二癸卯正月也、初百貫の約束にて、目見の日一倍の立身、二百貫被下之、其後足軽五十人預之、為弓矢の師範、段々加增有之、戸石合戦以後天文十五丙午七月廿一日、八百貫被下之、又足軽を被指加、都合七十五人預之、於武田家号五人之足軽大将、早川幸豊父は早川豊後、初は武田家馬塲美濃同心也、後、井伊直政家臣たり、甲陽軍鑑に事委し、天正十一癸未年四月九日、尾州長久手御合戦の節、早川幸豊、羽柴秀吉卿の陣取を見合して、直政へ密に告て曰、敵は大軍也、軍を分て三州岡崎へ中入有之節、(是は廻備の事にして、上方の軍詞なり、)秀吉卿は十二万余の大軍也、神君の御人数、尾州清須へ引入られんと被思召事も可有之、然ば大敵に対陣の時は、御備の旗を不飾して可然歟、以寡撃衆には不意を撃に利あり、其不意に出る節、
書き下し
鈴木日向重辰山本勘介晴幸早川彌三左衞門幸豐尾畑勘兵衞景憲北條安房守氏長山鹿甚五左衞門高祐如此段々傳受之來也、其人々の有增末に記之、鈴木重辰今川義元の家臣、三州寺部之城主也、山本晴幸晴幸入道して號道鬼、其先三州牛窪に住なり、又は山本土佐と號して、二千貫を領すと、古老傳之也、重辰より兵學傳來して專敎を立るなり、自是勘介流世に流布す、其名駿遠三に勃興して後甲陽の武田信玄に被召出之、天文十二癸卯正月也、初百貫の約束にて、目見の日一倍の立身、二百貫被下之、其後足輕五十人預之、爲弓矢の師範、段々加增有之、戸石合戰以後天文十五丙午七月廿一日、八百貫被下之、又足輕を被指加、都合七十五人預之、於武田家號五人之足輕大將、早川幸豐父は早川豐後、初は武田家馬塲美濃同心也、後、井伊直政家臣たり、甲陽軍鑑に事委し、天正十一癸未年四月九日、尾州長久手御合戰の節、早川幸豐、羽柴秀吉卿の陣取を見合して、直政へ密に告て曰、敵は大軍也、軍を分て三州岡崎へ中入有之節、(是は廻備の事にして、上方の軍詞なり、)秀吉卿は十二萬餘の大軍也、神君の御人數、尾州清須へ引入られんと被思召事も可有之、然ば大敵に對陣の時は、御備の旗を不飾して可然歟、以寡擊衆には不意を擊に利あり、其不意に出る節、
現代語訳
鈴木日向重辰、山本勘介晴幸、早川弥三左衛門幸豊、尾畑勘兵衛景憲、北条安房守氏長、山鹿甚五左衛門高祐と、このように段々と伝受してきました。その人々の概略を末に記します。鈴木重辰は今川義元の家臣で、三州寺部の城主です。山本晴幸は入道して道鬼と号し、その先祖は三州牛窪に住んでいました。または山本土佐と号し、二千貫を領したと古老は伝えます。重辰から兵学が伝わり、もっぱら教えを立てました。これより勘介流が世に広まり、その名は駿・遠・三に勃興して、のち甲陽の武田信玄に召し出されました。天文十二年癸卯正月のことです。初めは百貫の約束で、目見えの日に倍の立身として二百貫を下されました。その後、足軽五十人を預けられ、弓矢の師範として段々加増がありました。戸石合戦ののち、天文十五年丙午七月二十一日、八百貫を下され、さらに足軽を加え、合わせて七十五人を預けられ、武田家で「五人の足軽大将」と号しました。早川幸豊は、父は早川豊後で、初めは武田家の馬場美濃の同心でした。のち井伊直政の家臣となりました。甲陽軍鑑に詳しく見えます。天正十一年癸未四月九日、尾州長久手の御合戦の際、早川幸豊は羽柴秀吉卿の陣取りを見合わせて、直政へ密かに告げて言うには、敵は大軍です。軍を分けて三州岡崎へ中入れをするときは(これは廻備のことで、上方の軍詞です)、秀吉卿は十二万余の大軍です。神君(徳川家康)の御人数を、尾州清須へ引き入れようとお思いになることもあるでしょう。そうであれば、大敵に対陣のときは、御備えの旗を飾らないのがよろしいでしょう。少数で衆を撃つには、不意を撃つに利があります。その不意に出るとき、
解説

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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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『留魂録』第九条又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば、天下の事総て天命に付せんのみ。但し天下の益となるべき事は、同志に托し後輩に残し度きことなり」と。此の言大いに吾が志を得たり。吾の祈念を籠むる所は、同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して、尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀・鮎二子の如きは、海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交を結べかし。又本所亀沢町に山口三輶と云ふ医者あり、義を好む人と見えて、堀・鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣はしたれば、小林の為めにも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん。且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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尚書・伊訓惟れ元祀(げんし)十有二月乙丑、伊尹先王に祠(まつ)り、嗣王を奉じて祗(つつし)みて厥(そ)の祖に見(まみ)えしむ。侯甸(こうでん)の群后咸(みな)在り、百官己を総べて以て冢宰(ちようさい)に聴く。伊尹乃ち明らかに烈祖の成徳を言ひ、以て王を訓(をし)へて曰く、「嗚呼(ああ)、古(いにしへ)の有夏の先后、方(まさ)に厥の徳を懋(つと)め、天災有る罔(な)し。山川鬼神も亦寧(やす)からざる莫(な)く、鳥獣魚鼈(ぎよべつ)に暨(およ)ぶまで咸若(したが)ふ。其の子孫に于(お)いて率(したが)はず、皇天災を降し、手を我が命有るものに仮る。攻を造(はじ)むるは鳴条よりし、朕が哉(はじ)めは亳よりす。惟れ我が商王、聖武を布昭し、虐に代ふるに寛を以てし、兆民允(まこと)に懐く。今王厥の徳を嗣ぐは、初めに在らざる罔し。
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