武事提要 / 武家之法式・古案の一札と信玄の先手三備
今度右馬允殿就死去、跡職異儀有之間鋪之一札、家康被出候、任其判形、拙夫も達而承候間、如斯候、若此上世上衆申掛候共、岡崎任一札、其旨可申候、此等之趣各ゝ茂可被仰候、右馬允殿御息、御上々樣、馳走可申候、一兩年駿州雖被留置、諸等之事異儀有間敷候、縱岡崎蒐角之儀被申候共、一札之上者、掛身上可申候間、不可有疎略候、就夫出羽殿父子從何方歸宅有度之由訴訟候共、家康へ達而可被申候、是又可被任置候、爲其如件、右之趣者山本帶刀其列如此也、神君思召入弓矢格式、信玄之通可被仰付之趣にて段々御定、神君常々の異名を被遊御意と也、(井伊氏は赤鬼、稻垣氏は朱具足攝津守事)此三人勝頼滅亡以後、井伊直政家來に被仰付之、直政先手勤之、總じて甲州侍は大方御直參被召出之、御旗本なる其子孫數多也、御先手備御旗本の御備より大切に被思召に付て、右三人を兵部に被爲附と古老言傳也、信玄の家にて別而先手の備大切なる趣にて、惣備の內より撰出、此三人信玄の先手毎度備立、萬端殊之外に見事に上覽被遊、則右三備を被爲移、此三人御旗本之先手と御定被遊也、右の外信玄家の諸備式法御稱美被遊、
新字:今度右馬允殿就死去、跡職異儀有之間鋪之一札、家康被出候、任其判形、拙夫も達而承候間、如斯候、若此上世上衆申掛候共、岡崎任一札、其旨可申候、此等之趣各ゝ茂可被仰候、右馬允殿御息、御上々様、馳走可申候、一両年駿州雖被留置、諸等之事異儀有間敷候、縦岡崎蒐角之儀被申候共、一札之上者、掛身上可申候間、不可有疎略候、就夫出羽殿父子従何方帰宅有度之由訴訟候共、家康へ達而可被申候、是又可被任置候、為其如件、右之趣者山本帯刀其列如此也、神君思召入弓矢格式、信玄之通可被仰付之趣にて段々御定、神君常々の異名を被遊御意と也、(井伊氏は赤鬼、稲垣氏は朱具足摂津守事)此三人勝頼滅亡以後、井伊直政家来に被仰付之、直政先手勤之、総じて甲州侍は大方御直参被召出之、御旗本なる其子孫数多也、御先手備御旗本の御備より大切に被思召に付て、右三人を兵部に被為附と古老言伝也、信玄の家にて別而先手の備大切なる趣にて、惣備の内より撰出、此三人信玄の先手毎度備立、万端殊之外に見事に上覧被遊、則右三備を被為移、此三人御旗本之先手と御定被遊也、右の外信玄家の諸備式法御称美被遊、
書き下し
今度右馬允殿就死去、跡職異儀有之間鋪之一札、家康被出候、任其判形、拙夫も達而承候間、如斯候、若此上世上衆申掛候共、岡崎任一札、其旨可申候、此等之趣各ゝ茂可被仰候、右馬允殿御息、御上々樣、馳走可申候、一兩年駿州雖被留置、諸等之事異儀有間敷候、縱岡崎蒐角之儀被申候共、一札之上者、掛身上可申候間、不可有疎略候、就夫出羽殿父子從何方歸宅有度之由訴訟候共、家康へ達而可被申候、是又可被任置候、爲其如件、右之趣者山本帶刀其列如此也、神君思召入弓矢格式、信玄之通可被仰付之趣にて段々御定、神君常々の異名を被遊御意と也、(井伊氏は赤鬼、稻垣氏は朱具足攝津守事)此三人勝頼滅亡以後、井伊直政家來に被仰付之、直政先手勤之、總じて甲州侍は大方御直參被召出之、御旗本なる其子孫數多也、御先手備御旗本の御備より大切に被思召に付て、右三人を兵部に被爲附と古老言傳也、信玄の家にて別而先手の備大切なる趣にて、惣備の內より撰出、此三人信玄の先手毎度備立、萬端殊之外に見事に上覽被遊、則右三備を被爲移、此三人御旗本之先手と御定被遊也、右の外信玄家の諸備式法御稱美被遊、
現代語訳
今度、右馬允殿の死去につき、跡職に異議があってはならない旨の一札を、家康が出されました。その判形に任せ、拙夫(私)もしっかりと承りましたので、このように申します。もしこの上に世上の衆が申し掛けても、岡崎は一札に任せ、その旨を申すでしょう。これらの趣を各々もお話しください。右馬允殿の御息、御上々様へ、馳走を申し上げます。一、二年は駿州に留め置かれましても、諸事に異議はないでしょう。たとえ岡崎がとかく申されても、一札の上は身上を掛けて申しますので、疎略があってはなりません。それについて、出羽殿父子がどちらからか帰宅したいと訴訟しても、家康へ強く申されるのがよいでしょう。これもまた任せ置かれるべきです。そのためにこのとおりです。右の趣は、山本帯刀に関する列(件)はこのとおりです。神君が思し召し入れられた弓矢の格式を、信玄のとおり仰せ付けようとの趣で、段々とお定めになり、神君が常々の異名をお付けになったとの御意だということです(井伊氏は赤鬼、稲垣氏は朱具足、摂津守のこと)。この三人は、勝頼滅亡のあと、井伊直政の家来に仰せ付けられ、直政の先手を勤めました。総じて甲州侍は大方、御直参に召し出され、御旗本となったその子孫が数多くいます。御先手の備えは、御旗本の御備えより大切にお思いになったので、右の三人を兵部に付けられたと古老は言い伝えます。信玄の家で、とりわけ先手の備えが大切であるという趣で、惣備えの内から選び出し、この三人は信玄の先手として毎度備え立てをし、万端ことのほか見事なことを上覧なされ、すなわち右の三備えを移し、この三人を御旗本の先手とお定めになったのです。右のほか、信玄家の諸備えの式法をお称美なされ、
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 先んずれば人の心を奪う冬、十月、華登吳の師を以って華氏を救ふ。齊の烏枝鳴宋を戍る。廚人濮曰く、「軍志に之れ有り、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り、人に後るれば其の衰へを待つ有り』と。盍ぞ其の勞して且つ未だ定まらざるに及びて、諸を伐たざる。若し入りて固くせば、則ち華氏衆からん。悔ゆとも及ぶ無からん」と。之に從ふ。丙寅、齊の師・宋の師、吳の師を鴻口に敗り、其の二帥、公子苦雂・偃州員を獲たり。華登、其の餘を帥ゐて以って宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人なり、死を藉(か)す可くして亡を送る能はず。君請ふ之を待て」と。乃ち徇へて曰く、「徽を楊ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に從ふ。公楊門より之を見、下りて之を巡りて曰く、「國亡び君死するは、二三子の恥なり。豈に專ら孤の罪ならんや」と。齊の烏枝鳴曰く、「少を用ゐるは齊しく死を致すに如くは莫く、齊しく死を致すは備へを去るに如くは莫し。彼は兵多し。
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『春秋左氏伝』宣公十二年 人に先んずる趙嬰齊其の徒をして先づ舟を河に具へしむ、故に敗れて先づ濟る。潘黨既に魏錡を逐ふ。趙旃夜楚の軍に至り、軍門の外に席して、其の徒をして之に入らしむ。楚子乘廣三十乘を為り、分ちて左右と為す。右廣は、雞鳴にして駕し、日中にして說く。左則ち之を受け、日入にして說く。許偃右廣に御し、養由基右と為る。彭名左廣に御し、屈蕩右と為る。乙卯、王左廣に乘りて、以て趙旃を逐ふ。趙旃車を棄てて林に走る、屈蕩之に搏ちて、其の甲裳を得たり。晉人二子の楚の師を怒らせんことを懼るるや、軘車をして之を逆へしむ。潘黨其の塵を望み、騁せて告げしめて曰く、「晉の師至れり」と。楚人も亦た王の晉の軍に入らんことを懼るるや、遂に出でて陳す。孫叔曰く、「之を進めよ。寧ろ我人に薄るとも、人の我に薄ること無かれ。詩に云ふ、『元戎十乘、以て先づ行を啟く』と、人に先んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふこと有り』と、之に薄るなり」と。遂に疾く師を進め、車馳せ卒奔りて、晉の軍に乘ず。桓子為す所を知らず、軍中に鼓して、曰く、「先づ濟る者には賞有り」と。
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孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
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葉隠・聞書第一鉄山(てつざん)、老後に申し候は、「取手は相撲には違い、一旦(いったん)下になりても、後に勝ちさえすれば済む事と心得罷(まか)り在り。近年存じ当たり候は、一旦下になりて居る時、若(も)し誰(だれ)ぞ取りさかえ候わば負けになるべし。始めに勝つが始終の勝ちなり。」と申され候由。
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尉繚子・戰權兵法に曰く、「千人にして権を成し、万人にして武を成す。権先づ人に加ふる者は、敵力交へず。武先づ人に加ふる者は、敵威接せず」と。故に兵は先を貴ぶ。此に勝てば、則ち彼に勝つ。此に勝たざれば、則ち彼に勝たず。凡そ我往けば則ち彼来たり、彼来たれば則ち我往き、相勝敗を為す、此れ戦の理の然るなり。夫れ精誠は神明に在り、戦権は道の極まる所に在り。有る者は之を無くし、無き者は之を有らしむ、安んぞ之を信ずる所あらん。先王の伝聞する所の者は、正に任じ詐を去り、其の慈順を存し、決して留刑無し。故に道を知る者は、必ず先づ止まるを知らざるの敗を図る、悪んぞ必ず往きて功有るに在らんや。軽く進みて戦を求むれば、敵復た止まるを図り、我往きて敵勝を制す。故に兵法に曰く、「求めて之に従ひ、見て之に加へ、主人敢へて当たらざるに之を陵げば、必ず其の権を喪ふ」と。凡そ奪はるる者は気無く、恐るる者は守るべからず、敗るる者は人無し、兵に道無ければなり。意往きて疑はざれば、則ち之に従ふ。敵を奪ひて前無ければ、則ち之に加ふ。明らかに視て高く居れば、則ち之を威す。兵の道極まれり。其の言謹み無ければ、偸みて失はしむ。其の陵犯節無ければ、破る。水のごとく潰し雷のごとく撃てば、三軍乱る。必ず其の危ふきを安んじ、其の患を去り、智を以て之を決す。之を高くするに廊廟の論を以てし、之を重くするに受命の論を以てし、之を鋭くするに踰垠の論を以てすれば、則ち敵国戦はずして服すべし。
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『春秋左氏伝』文公七年 人に先んじて心を奪う秦の康公公子雍を晉に送りて、曰く、「文公の入るや、衛無し、故に呂・郤の難有り」と。乃ち多く之に徒衛を與ふ。穆嬴日に太子を抱きて以って朝に啼きて、曰く、「先君何の罪かある、其の嗣も亦た何の罪かある。適嗣を舍てて立てずして、外に君を求む、將に焉くにか此を寘かんとする」と。朝を出づれば則ち抱きて以って趙氏に適き、宣子に頓首して曰く、「先君此の子を奉じて、諸を子に屬して曰く、『此の子や才あらば、吾子の賜を受けん。不才ならば、吾唯だ子を之れ怨みん』と。今君終はると雖も、言猶ほ耳に在り、而るに之を棄つるは、若何」と。宣子と諸大夫と皆穆嬴を患ひ、且つ偪らるるを畏れ、乃ち先蔑に背きて靈公を立て、以って秦の師を禦ぐ。箕鄭居守す。趙盾中軍に將たり、先克之に佐たり。荀林父上軍に佐たり。先蔑下軍に將たり、先都之に佐たり。步招戎に御し、戎津右と為る。堇陰に及び、宣子曰く、「我若し秦を受けば、秦は則ち賓なり。受けずんば、寇なり。既に受けず、而も復た師を緩くせば、秦將に心を生ぜんとす。人に先んじて人の心を奪ふ有るは、軍の善謀なり。寇を逐ふこと逃ぐるを追ふが如くするは、軍の善政なり」と。