武事提要 / 武家之法式・百人組の用い方と師範の必要
外樣組大番等被爲移、此足輕與力之備樣用樣、御感被遊、則百人組與力共に被爲仰付之、足輕之事中組(五十七十與力、各五人に一騎宛)小組(二十三十與力同斷)共に備に組合戰用の利あるとにて、百人組は一組立て戰用有之なり、伊達正宗の節は、關野藤次に足輕二百人組預たりといへども、勘介流にては百人組の外は戰用に利うすく不用之、神君の御家にては三百人組も五百人組も可有之事なりと云ども、信玄家の作法被爲移に付て百人組の外は無之也、古今共に勇將名將の身たりと云ども、各師範あり、中興以來其格を記見ば、弓矢の上武勇大切なり、事に渡りたる人を御撰被爲附、但師範にはあらず、大概如此にして、本朝異朝共に聖主賢將名士勇士も皆師範有之、師範となるべき人なければ、必左翼右翼の臣ありて事を正すなり、井伊直政など度々勇譽有之といへども、岡本半介を師範たらしむる也、右之通を考て法を堅く立つるを以て可勝の本とし、武の武たるの證據とする也、其法は地にのつとり、法の用は人にあるなり、人あつて法あり、地あつて式さだまる、其用は人物に非ずして立がたしと、爰に心を可止也、
新字:外様組大番等被為移、此足軽与力之備様用様、御感被遊、則百人組与力共に被為仰付之、足軽之事中組(五十七十与力、各五人に一騎宛)小組(二十三十与力同断)共に備に組合戦用の利あるとにて、百人組は一組立て戦用有之なり、伊達正宗の節は、関野藤次に足軽二百人組預たりといへども、勘介流にては百人組の外は戦用に利うすく不用之、神君の御家にては三百人組も五百人組も可有之事なりと云ども、信玄家の作法被為移に付て百人組の外は無之也、古今共に勇将名将の身たりと云ども、各師範あり、中興以来其格を記見ば、弓矢の上武勇大切なり、事に渡りたる人を御撰被為附、但師範にはあらず、大概如此にして、本朝異朝共に聖主賢将名士勇士も皆師範有之、師範となるべき人なければ、必左翼右翼の臣ありて事を正すなり、井伊直政など度々勇誉有之といへども、岡本半介を師範たらしむる也、右之通を考て法を堅く立つるを以て可勝の本とし、武の武たるの証拠とする也、其法は地にのつとり、法の用は人にあるなり、人あつて法あり、地あつて式さだまる、其用は人物に非ずして立がたしと、爰に心を可止也、
書き下し
外樣組大番等被爲移、此足輕與力之備樣用樣、御感被遊、則百人組與力共に被爲仰付之、足輕之事中組(五十七十與力、各五人に一騎宛)小組(二十三十與力同斷)共に備に組合戰用の利あるとにて、百人組は一組立て戰用有之なり、伊達正宗の節は、關野藤次に足輕二百人組預たりといへども、勘介流にては百人組の外は戰用に利うすく不用之、神君の御家にては三百人組も五百人組も可有之事なりと云ども、信玄家の作法被爲移に付て百人組の外は無之也、古今共に勇將名將の身たりと云ども、各師範あり、中興以來其格を記見ば、弓矢の上武勇大切なり、事に渡りたる人を御撰被爲附、但師範にはあらず、大概如此にして、本朝異朝共に聖主賢將名士勇士も皆師範有之、師範となるべき人なければ、必左翼右翼の臣ありて事を正すなり、井伊直政など度々勇譽有之といへども、岡本半介を師範たらしむる也、右之通を考て法を堅く立つるを以て可勝の本とし、武の武たるの證據とする也、其法は地にのつとり、法の用は人にあるなり、人あつて法あり、地あつて式さだまる、其用は人物に非ずして立がたしと、爰に心を可止也、
現代語訳
外様組・大番などへ移され、この足軽・与力の備え方・用い方をお感じになり、すなわち百人組・与力ともに仰せ付けられました。足軽のことは、中組(五十・七十の与力で、各五人に一騎ずつ)、小組(二十・三十の与力も同断)ともに、備えに組み合わせれば戦用の利があるとのことで、百人組は一組を立てて戦用に当てます。伊達政宗の時は、関野藤次に足軽二百人組が預けられていましたが、勘介流では百人組のほかは戦用に利が薄く、用いません。神君の御家では、三百人組も五百人組もあってよいはずだと言われますが、信玄家の作法を移されたので、百人組のほかはありません。古今とも勇将・名将の身であっても、それぞれ師範があります。中興以来のその格を記して見ると、弓矢のうえで武勇が大切です。事に渡った人をお選びになってお付けになります。ただし師範ではありません。おおよそこのとおりで、本朝・異朝ともに聖主・賢将・名士・勇士もみな師範があり、師範となるべき人がいなければ、必ず左翼右翼の臣があって事を正します。井伊直政などもたびたび勇名がありましたが、岡本半介を師範にさせたのです。右のとおりを考えて、法を堅く立てることを、勝つべきことの本とし、武が武たることの証拠とします。その法は地に則り、法の用は人にあります。人があって法があり、地があって式が定まります。その用は、人物でなくては立て難いと、ここに心を止めるべきです。
解説

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