武事提要 / 流儀之傳來・早川の進言の結末と尾畑景憲の経歴
動靜を敵に不知をよしとす、因茲御纏を御本陣に被納置可ならんかと、兼而勘辨いたし、直政まで言上之、すなわち直政急に神君へ言上ありければ、上意に早川が申上處尤也、左可有之事也、仰有之、果して御本陣へ納られけるとなり、是を早川氏尾畑景憲へ常に語しと、景憲高祐に傳之なり、尾畑景憲景憲は御當家の直參にして、祿千五百石、先祖は遠州葛俣之主也、故に初葛俣後改小畠、明應九庚申年、小畠盛次入道日淨、今川家に背て甲陽武田陸奧守信繩に仕官たり、足輕大將にて信虎まで兩代の仕官たり、其子小畠山城虎盛(初孫十郎後號織部)父盛次同道にて十歲の時、甲府へ來て信虎に仕へ、父役儀家督相續し、虎の字を給り、信玄まで又兩代勤仕たり、其子小幡豐後昌盛(初孫十郎後號又兵衞生國甲州也、)信玄勝頼兩代に仕へて父の役儀を相勤、信玄の命に依て上州の小幡上總信貞(初名號尾張)家の幕、名字を讓り、改小畠號小幡なり、其子尾畑勘兵衞景憲(初號孫十郎生國甲州也、)甲州沒落以後、天正十壬午年極月日神君尊家へ十一歲の時、被召出勤仕たり、廿四歲の十二月、願に依て窂人なり、其後慶長十九甲寅年、大坂城中へ間諜に入り、忠節依有之、尊家へ被召返也、大坂城中に於て大野主馬治房、自筆の書に云く、貴殿內、
新字:動静を敵に不知をよしとす、因茲御纏を御本陣に被納置可ならんかと、兼而勘弁いたし、直政まで言上之、すなわち直政急に神君へ言上ありければ、上意に早川が申上処尤也、左可有之事也、仰有之、果して御本陣へ納られけるとなり、是を早川氏尾畑景憲へ常に語しと、景憲高祐に伝之なり、尾畑景憲景憲は御当家の直参にして、禄千五百石、先祖は遠州葛俣之主也、故に初葛俣後改小畠、明応九庚申年、小畠盛次入道日浄、今川家に背て甲陽武田陸奥守信縄に仕官たり、足軽大将にて信虎まで両代の仕官たり、其子小畠山城虎盛(初孫十郎後号織部)父盛次同道にて十歳の時、甲府へ来て信虎に仕へ、父役儀家督相続し、虎の字を給り、信玄まで又両代勤仕たり、其子小幡豊後昌盛(初孫十郎後号又兵衛生国甲州也、)信玄勝頼両代に仕へて父の役儀を相勤、信玄の命に依て上州の小幡上総信貞(初名号尾張)家の幕、名字を譲り、改小畠号小幡なり、其子尾畑勘兵衛景憲(初号孫十郎生国甲州也、)甲州没落以後、天正十壬午年極月日神君尊家へ十一歳の時、被召出勤仕たり、廿四歳の十二月、願に依て窂人なり、其後慶長十九甲寅年、大坂城中へ間諜に入り、忠節依有之、尊家へ被召返也、大坂城中に於て大野主馬治房、自筆の書に云く、貴殿内、
書き下し
動靜を敵に不知をよしとす、因茲御纏を御本陣に被納置可ならんかと、兼而勘辨いたし、直政まで言上之、すなわち直政急に神君へ言上ありければ、上意に早川が申上處尤也、左可有之事也、仰有之、果して御本陣へ納られけるとなり、是を早川氏尾畑景憲へ常に語しと、景憲高祐に傳之なり、尾畑景憲景憲は御當家の直參にして、祿千五百石、先祖は遠州葛俣之主也、故に初葛俣後改小畠、明應九庚申年、小畠盛次入道日淨、今川家に背て甲陽武田陸奧守信繩に仕官たり、足輕大將にて信虎まで兩代の仕官たり、其子小畠山城虎盛(初孫十郎後號織部)父盛次同道にて十歲の時、甲府へ來て信虎に仕へ、父役儀家督相續し、虎の字を給り、信玄まで又兩代勤仕たり、其子小幡豐後昌盛(初孫十郎後號又兵衞生國甲州也、)信玄勝頼兩代に仕へて父の役儀を相勤、信玄の命に依て上州の小幡上總信貞(初名號尾張)家の幕、名字を讓り、改小畠號小幡なり、其子尾畑勘兵衞景憲(初號孫十郎生國甲州也、)甲州沒落以後、天正十壬午年極月日神君尊家へ十一歲の時、被召出勤仕たり、廿四歲の十二月、願に依て窂人なり、其後慶長十九甲寅年、大坂城中へ間諜に入り、忠節依有之、尊家へ被召返也、大坂城中に於て大野主馬治房、自筆の書に云く、貴殿內、
現代語訳
動静を敵に知られないのがよいのです。そのため、御纏(まとい)を御本陣に納め置かれるのがよろしいかと、かねてより考えて、直政まで申し上げました。すなわち直政が急ぎ神君へ申し上げたところ、上意に「早川が申し上げる処はもっともである。そのようにあるべきことだ」とのお言葉があり、はたして御本陣へ納められたということです。これを早川氏が尾畑景憲へ常に語り、景憲は高祐に伝えました。尾畑景憲。景憲は御当家(徳川家)の直参で、禄は千五百石、先祖は遠州葛俣の主です。ゆえに初めは葛俣、のち小畠と改めました。明応九年庚申、小畠盛次入道日浄は、今川家に背いて甲陽の武田陸奥守信縄に仕官しました。足軽大将として信虎まで二代の仕官でした。その子の小畠山城虎盛(初め孫十郎、のち織部と号す)は、父盛次と同道して十歳のとき甲府へ来て信虎に仕え、父の役儀・家督を相続し、「虎」の字を賜り、信玄まで二代勤仕しました。その子の小幡豊後昌盛(初め孫十郎、のち又兵衛と号す。生国は甲州)は、信玄・勝頼の二代に仕えて父の役儀を勤め、信玄の命により上州の小幡上総信貞(初名は尾張と号す)の家の幕・名字を譲られ、小畠を小幡と改めました。その子の尾畑勘兵衛景憲(初め孫十郎と号す。生国は甲州)は、甲州没落ののち、天正十年壬午十二月、神君の尊家へ十一歳のときに召し出されて勤仕しました。二十四歳の十二月、願いにより浪人となりました。その後、慶長十九年甲寅、大坂城中へ間諜に入り、忠節があったので尊家へ召し返されました。大坂城中で大野主馬治房の自筆の書に言うには、「貴殿内、
解説

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