武人訓抄録 / 躰と用を弁える
一をよそ武門の學者、まづ身上に躰用あるとをしるべし、躰とは脩己治人の道也、用とは射御書數の伎なり、其用の躰における、たとへば婦の夫に從ふがごとく、臣の君に奉ずるがごとし、婦其夫を失なふ時は據ところなし、臣其君に離るゝ時は立ところなし、用其躰に□く時は成ところなし、故に射御書數の用を習ふものも、まづ脩己治人の躰を定てのち、其事にいたるべし、今世士夫の藝能を肆ものを見るに、是を辨知する族少し、玆を以て禮樂書數を習ふ徒は、柔輭にして處女の如く、刀鎗射騎を試る輩は麁暴にして奴隷の如く、或は惰弱の訛あり、或は任俠の弊あり、蓋神心の學は、木の根本のごく、四肢の藝は、其枝葉に均し、止戈の理義に疎くして、猥に手足の事藝にのみ亘れば、かくのごとくの害を脫るゝ事かたし、よく察すべし、
新字:一をよそ武門の学者、まづ身上に体用あるとをしるべし、体とは脩己治人の道也、用とは射御書数の伎なり、其用の体における、たとへば婦の夫に従ふがごとく、臣の君に奉ずるがごとし、婦其夫を失なふ時は拠ところなし、臣其君に離るゝ時は立ところなし、用其体に□く時は成ところなし、故に射御書数の用を習ふものも、まづ脩己治人の体を定てのち、其事にいたるべし、今世士夫の芸能を肆ものを見るに、是を弁知する族少し、玆を以て礼楽書数を習ふ徒は、柔輭にして処女の如く、刀鎗射騎を試る輩は麁暴にして奴隷の如く、或は惰弱の訛あり、或は任侠の弊あり、蓋神心の学は、木の根本のごく、四肢の芸は、其枝葉に均し、止戈の理義に疎くして、猥に手足の事芸にのみ亘れば、かくのごとくの害を脱るゝ事かたし、よく察すべし、
書き下し
一をよそ武門の學者、まづ身上に躰用あるとをしるべし、躰とは脩己治人の道也、用とは射御書數の伎なり、其用の躰における、たとへば婦の夫に從ふがごとく、臣の君に奉ずるがごとし、婦其夫を失なふ時は據ところなし、臣其君に離るゝ時は立ところなし、用其躰に□く時は成ところなし、故に射御書數の用を習ふものも、まづ脩己治人の躰を定てのち、其事にいたるべし、今世士夫の藝能を肆ものを見るに、是を辨知する族少し、玆を以て禮樂書數を習ふ徒は、柔輭にして處女の如く、刀鎗射騎を試る輩は麁暴にして奴隷の如く、或は惰弱の訛あり、或は任俠の弊あり、蓋神心の學は、木の根本のごく、四肢の藝は、其枝葉に均し、止戈の理義に疎くして、猥に手足の事藝にのみ亘れば、かくのごとくの害を脫るゝ事かたし、よく察すべし、
現代語訳
おおよそ武門の学者は、まず身の上に体と用があることを知らなければなりません。体とは己を修め人を治める道です。用とは射・御・書・数の技です。用が体に対する関係は、たとえば妻が夫に従い、臣が君に仕えるようなものです。妻がその夫を失えば拠りどころがなく、臣がその君を離れれば立つところがなく、用がその体に欠ければ成るところがありません。ですから射・御・書・数の用を習う者も、まず己を修め人を治める体を定めてから、その事に取り組むべきです。今の世の士夫の芸能を習う者を見ると、これを弁え知る者は少ないのです。そのため礼楽書数を習う者は柔らかく乙女のようで、刀槍射騎を試みる者は粗暴で奴隷のようであり、あるいは惰弱の誤りがあり、あるいは任侠の弊があります。思うに、神心の学は木の根本のようで、四肢の芸はその枝葉に等しいのです。戈を止める理義に疎く、みだりに手足の事芸だけに及べば、このような害を免れることは難しいでしょう。よく察しなさい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『武人訓抄録』・爪牙としての四肢の芸一士家に四肢の藝ある事、たとへば禽獸の爪牙あるがごとし、爪あるものをば衆禽恐れ、牙あるものをば諸獸懼る、夫猛獸壯禽といへども、陷穽網罟に獲られて其爪牙をきらば、猫兒乳雀も何ぞ恐懼するとあらんや、兵士にして刀鎗射騎の藝なきものは、恰も猛獸壯禽にして爪牙なきにおなじ、何をもてか威敵刺賊の用に備ふべき、士として一技なからむものは用る所なし、すべて禮樂書數の能より、諸職百工の藝、雞鳴狗吠の術にいたるまで、武人のたしむ所無益とはいふべからず、然れども偏に麁暴の藝に癖して武理に拙く、專に柔輭の能を弄じて權略に疎きは、譬ば儒士の詩賦文章を能して德行に暗きが如し、倶に藝能に一偏して、終に宿儒良將の域には至るべからず、
-
『武藝訓抄録』・兵法と武藝を学ぶ者の心得兵法武藝を習心得有べし、たとへば兵法は躰本のごとく、藝は用末のごとし、將と卒との差あるべし、然るに其學習の本虚實精粗を識に有り、何によらず其人を最負し其藝に加擔する氣にては、虚實邪正見へざるものなり、私を捨て公をもつて善惡を別つべし、
-
『武人訓抄録』・知るべきと知らぬでよい事一神武講習の道かならず不知ば有べからざる者あり、かならず不知ところの者あり、脩己治人の道、攻鋭守難の術は、かならず不知ば有べからざるものなり、其餘進で賊を討ずるに益なく、退て民を保ずるに利なきものは、かならず不知といへども又さらに害なし、をよそ時日方位器用故實の類は、職者の事業にして武將の先務にはあらず、曾子曰、籩豆之事則有司存と、神武の指も亦しかり、技用之事則職者在、總て藝士職者の關る事をば、皆其道の明達に附して學者奪ふべからず、今の小子習學の法を知らず、區々として心を衆技の細事に止む、大に不可なり、學者諒察せよ、
-
『武人訓抄録』・文武を總べる神武一武の義たる、古と今と同じからず、漢と和と均しからず、古の武は文に配し、今の武は文武を總ぶ、其文に配するもの號て右武といふ、これ討賊破敵の道たり、其文武を總ぶるもの號て神武といふ、これ經國撥亂の道たり、漢の武は道の輔とす、和の武は道の主とす、其輔とするものは即文に配する武也、其主とするものは即文武を總る武なり、往古今來吾本邦の俗士等、いまだ此神武ある事をさとらず、妄りに文武をもて左右の道とす、甚あやまれり、學者すみやかに會得すべし、
-
『武人訓抄録』・武の字義と本書への序凡そ士君子の道とする所は、能く己を修めて以て亂を戢め、易に居て以て難を制すれば、則ち往く所として至大至剛ならざる無し。且つ夫れ武の字たるや、干戈を止め、咸寧に歸するを以て義と爲す。豈に暴虎馮河の謂ならんや。世の武を講ずる者は、多く揣摩譎詐、人を致して人に致されざるを以て、此の學の樞要と爲す。奚ぞ神武の運用發揚方無くして、多々益々辨じ、斯の道を轉々するを知るに足らんや。然れども其の敎へたるや、德に仁義忠信に據り、藝に刺擊射騎に游ぶに過ぎざるのみ。蓋し其の至るに及びては、古の所謂聰明睿智にして殺さざる者、其れ亦庶幾からんか。村井氏の此の書を編むや、雜兵家者流を超ゆること、何ぞ啻に倍蓰のみならんや。顧みるに夫れ吾が秀眞英靈の鍾まる所、風敎萬方に大いに殊なり。越に純粹精銳の道を以てし、斯の民をして忠に克く孝に克くして時義に嚮はざる莫からしめば、則ち人を致して人に致されずといふ者は、又何ぞ道ふに足らんや。嗚呼、彼の剽襲を事とする者は、碱砆を以て和璧に混じ、囁々焉として之を詭秘す。今は古に邁ぎ、故に天錫の神武を僭して躬ら太阿の鋒を鈍くする者多し。嘗て竊かに此の編の指を觀るに、固より神武に臻るの棧梯なり。斯に從事する者は、尚くは其れ勉めよ。僕は未だ其の門牆を瞰ず、浪りに固陋の心を叩き、將た復た愧報に勝へず。豈に敢て之を序すと云はんや。豈に敢て之を序すと云はんや。
-
『武藝訓抄録』・叙・文武を兼ね備える道文は道を載するの器なり。藝は業を修むるの法なり。聖人の万世に訓を垂れる所以にして、人倫日用に欠くべからざる者なり。筑前の産、武矩片島氏、夙に志有り。師を尋ね友を求めて以て文武の術を究む。窃かに患う、近世士たる者、頽く業を修むるを喜び、文武全く備うべきの道を察せず。其の文事を専らにする者は、訓詁詞藻を以て文を為し、未だ嘗て六藝の文たるを識らず。武事に勤むる者も、亦惟だ弓釼の兵たるを知りて、却って詩書の武たるを知らず。故に巧言文を説く者有り、臂を攘げて武を講ずる者有り。豈に欠けたるに非ずや。武矩嚮に武士和訓を作為し、以て初学者に示す。復た其の不足を補い、其の遺を拾い、六藝訓を著す。其の書たるや、礼楽の奥を会し、立躬御書数の階梯なり。皆是れ聖賢の訓を垂るる所以にして、武矩の夙に志す所なり。啻に初学者をして裨有るを得しむるのみに非ず。儻し士たる者、即ち是れに省閲を加え、以て欠くべからざるの業を識らば、則ち勤むる所の節目皆至当にして、何ぞ文武の道の全備せざるを患えんや。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る