武人訓抄録 / 士が人の長である理由
一今來の俗士、すべて誤りおもふ旨あり、士人は農工商の長者となりて、三民の爲に養はれ、敬るゝ事、古今の通例なり、異なる所以あるにはあらずと、是誰が敎ぞや、をよそ士の人倫に長たる所以は、仁義忠信をもて己を脩め、愛威賞罰をもて人を治る職なるが故なり、孟子曰、勞心者治人、勞力者治於人、治於人者食人、治人者食於人、天下之通義也と、然れば則、士夫としては脩己治人服衆威敵の道、夙夜に怠らず心を勞すべき事也、頃刻も此に離るゝ時は、人長とはいふべからず、止戈の家に生れたらん者は、騎竹の童子といへども、まづ此旨を辨知すべし、剏て武備の學に志を歸する人におゐてをや、吾門の學者、苟も其過失あらば、すみやかに改め、愼んで其職分を守らるべし、しからずんば神武の學徒とは爲べからず、
新字:一今来の俗士、すべて誤りおもふ旨あり、士人は農工商の長者となりて、三民の為に養はれ、敬るゝ事、古今の通例なり、異なる所以あるにはあらずと、是誰が教ぞや、をよそ士の人倫に長たる所以は、仁義忠信をもて己を脩め、愛威賞罰をもて人を治る職なるが故なり、孟子曰、労心者治人、労力者治於人、治於人者食人、治人者食於人、天下之通義也と、然れば則、士夫としては脩己治人服衆威敵の道、夙夜に怠らず心を労すべき事也、頃刻も此に離るゝ時は、人長とはいふべからず、止戈の家に生れたらん者は、騎竹の童子といへども、まづ此旨を弁知すべし、剏て武備の学に志を帰する人におゐてをや、吾門の学者、苟も其過失あらば、すみやかに改め、慎んで其職分を守らるべし、しからずんば神武の学徒とは為べからず、
書き下し
一今來の俗士、すべて誤りおもふ旨あり、士人は農工商の長者となりて、三民の爲に養はれ、敬るゝ事、古今の通例なり、異なる所以あるにはあらずと、是誰が敎ぞや、をよそ士の人倫に長たる所以は、仁義忠信をもて己を脩め、愛威賞罰をもて人を治る職なるが故なり、孟子曰、勞心者治人、勞力者治於人、治於人者食人、治人者食於人、天下之通義也と、然れば則、士夫としては脩己治人服衆威敵の道、夙夜に怠らず心を勞すべき事也、頃刻も此に離るゝ時は、人長とはいふべからず、止戈の家に生れたらん者は、騎竹の童子といへども、まづ此旨を辨知すべし、剏て武備の學に志を歸する人におゐてをや、吾門の學者、苟も其過失あらば、すみやかに改め、愼んで其職分を守らるべし、しからずんば神武の學徒とは爲べからず、
現代語訳
近ごろの俗な士には、誤って思い込んでいることがあります。士は農工商の長者であって、三つの民に養われ、敬われるのは古今の通例であり、特別な理由があるわけではないと。これは誰の教えでしょうか。そもそも士が人倫の長である理由は、仁義忠信で自分を修め、愛と威、賞と罰で人を治める職だからです。孟子は「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。人に治められる者は人を養い、人を治める者は人に養われる。これが天下の通義である」と言っています。ですから士大夫としては、己を修め、人を治め、衆を服させ、敵を威圧する道に、朝晩怠らず心を労するべきです。わずかの間でもこれを離れるなら、人の長とは言えません。戈を止める家に生まれた者は、竹馬に乗る子どもでも、まずこの趣旨を弁え知るべきです。まして初めて武備の学に志す人はなおさらです。わが門の学者は、少しでも過失があれば速やかに改め、慎んでその職分を守りなさい。そうでなければ神武の学徒とは言えません。
解説
この章句が説くこと
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『士道要論』・士心・恒心と労心、士に求められる務めとありて、死生の際にのぞんでも貧苦艱難の場に居てもうごかざるこゝろなり、勞心とは、孟子に或勞心。或勞力。勞力者食人。勞心者食於人。食於人者治人。食人者治於人。とありて、民をふびんに思ひてきづかふこゝろなり、されば、恒心は士の節操なり、勞心は士の經濟なり、たゞし經濟は民人社稷を司どるものゝ、行ふべきことにて、其職ならでさし出るはいかにと疑ふべけれど、左にあらず、おほよそ、士たるものは四民の首に居て、耕やさずして食ひ、織らずして衣るものなれば、などか耕し織るものゝ、勞にむくゆるの術なかるべけんや、されど、孟子に窮獨善其身。達兼善天下。とありて、同じ士にも窮達のたがひあれば、其時によりて行ひのたがひもあるべし、その位にあらでその政をはかるは、孔子もいましめたまひてさし出ることはよからず、されど、天下を兼ね善くする術も常に心得おかではにはかに行ふことはかなふまじければ、古へをかうがへ道をまなび、文武に達し置べし、これみな天下をよくする術にて、窮達たがひはあるまじ、呂東萊の官箴に、勞心不如勞力とありて、士の心を勞して職分をつくすこと、
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『淇園答要抄録』・士と庶人との道の別の事・常禄のある士が礼で身を修める理由其從ひ行ふ所を己が心にて身分〳〵の相應を見量りて其分を取る事は天下の人々の制望を主る所のもの也、仁義に從へば各其報を得る故に、士は三民よりこれを報じて食邑あらしめまた是が役をとり、三民士より是を報じて是が難を救ひ是をおしへて安からしむ、是天下の人々の利する所也といひ給へり、四民の道元來皆如此なるものなれども、士には常祿有て衣食の憂ひなし、孟子にも無恆產而有恆心唯士爲能といへる是なり、三民は常祿なき故に常ゝ衣食の營みに心身を勞する事也、心身を勞する事を苦しむ故に夫によりて或は仁義の道を忘れて己獨利を專らにせんとする事あり、如此なれば爭亂の生ずる故に士は是を治めて和順する事を敎へ、其おしゆる人に私慾あれば人を敎ゆる事行はれざる故に、常に禮制によりて其身を修する事が入用也、三民は家業に隙なく夫を以て父母妻子を養ふ故に一々禮制に從ふ事不能して只孝悌忠信を失なはざる事を要として其他の制はこれを君上に仰ぎ聽くのみ、これが士と庶人との道の分れなりと可被思召候、
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『講孟余話』盡心上 第三十三章此の二章を熟読すれば、平士の心得は知るべきのみ。蓋し農は耕し、工は家宅器皿を製し、商は有無を交易す、各々其の職ありて国に益あり。士の仕ふる者、家老は家老の職あり、奉行は奉行の職あり、番頭は番頭の職あり、物頭は物頭の職あり、治民の職あり、理財の職あり、亦皆各々事とする所あり。独り平士は上にしては未だ仕ふるの職あらず、下にしては又農工商の職あることなし、頗る素餐に似たり。然れども大いに然らず。其の身は仁に居り、其の行ひは義に由り、其の君之を用ゐれば、固より其の国をして安富尊栄ならしめ、又其の君用ゐずと云へども、其の子弟是れに従遊すれば、子は孝子となり、弟は悌弟と成り、人の交はりは忠信となるなり。故に平士の職は一身の修治を本とし、一世の風俗を以て己が任となすべし。然らば其の素餐せざるの功、豈に農工商の比すべきならんや。乃ち公卿大夫と云へども、亦是れに外なること能はず。武教小学の序に、「大農・大工・大商、天下の三宝と為す。士は農工商の業なくして、三民の長たる所以の者は、他なし、能く身を修め心を正しうして、国を治め天下を平らかにすればなり」と云へり。此の二章と吻合す。又上の第九章独善の義と合せ考ふべし。

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