山鹿語類 / 士道・知己職分
人の敎にしたがひ、當坐の心にまかせんことは、譬ば暫く其事をなすといへども、實と難成。今云らん處に深く立志て自我職分を糾明し得んには、士たる職こゝに明なるべきなり。凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を盡し、朋輩に交て信を厚くし、身の獨りを愼て義を專とするにあり。而して己れが身に父子兄弟夫婦の不得已交接あり。是又天下の萬民各なくんば不可有の人倫也といへども、農工商は其職業に暇あらざるを以て、常住相從て其道を不得盡。士は農工商の業をさし置き、此道を專として、三民の間苟くも人倫をみだらん輩をば速に罰して、以て天下に天倫の正しきを待つ。是士に文武之德知不備ばあるべからず。されば形には劒戟弓馬の用をたらしめ、內には君臣朋友父子兄弟夫婦の道をつとめて、文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其敎にしたがひ其本末をしるにたれり。こゝにをいて士の道たつて、衣食居をつくのい、以て心易かるべく、主君の恩、父母の惠、しばらく報ずるにたりぬべし。此つとめあらざらんには、父母のめぐみを盜、主君の祿を貪て、一生の間唯盜賊の命を全くするに同じ。甚以て歎息するにたへたり。
新字:人の教にしたがひ、当坐の心にまかせんことは、譬ば暫く其事をなすといへども、実と難成。今云らん処に深く立志て自我職分を糾明し得んには、士たる職こゝに明なるべきなり。凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を尽し、朋輩に交て信を厚くし、身の独りを慎て義を専とするにあり。而して己れが身に父子兄弟夫婦の不得已交接あり。是又天下の万民各なくんば不可有の人倫也といへども、農工商は其職業に暇あらざるを以て、常住相従て其道を不得尽。士は農工商の業をさし置き、此道を専として、三民の間苟くも人倫をみだらん輩をば速に罰して、以て天下に天倫の正しきを待つ。是士に文武之徳知不備ばあるべからず。されば形には劒戟弓馬の用をたらしめ、内には君臣朋友父子兄弟夫婦の道をつとめて、文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其教にしたがひ其本末をしるにたれり。こゝにをいて士の道たつて、衣食居をつくのい、以て心易かるべく、主君の恩、父母の恵、しばらく報ずるにたりぬべし。此つとめあらざらんには、父母のめぐみを盗、主君の禄を貪て、一生の間唯盗賊の命を全くするに同じ。甚以て嘆息するにたへたり。
書き下し
人の教にしたがひ、当坐の心にまかせんことは、譬ば暫く其事をなすといへども、実と難成。今云らん処に深く立志て自我職分を糾明し得んには、士たる職こゝに明なるべきなり。凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を尽し、朋輩に交て信を厚くし、身の独りを慎て義を専とするにあり。而して己れが身に父子兄弟夫婦の不得已交接あり。是又天下の万民各なくんば不可有の人倫也といへども、農工商は其職業に暇あらざるを以て、常住相従て其道を不得尽。士は農工商の業をさし置き、此道を専として、三民の間苟くも人倫をみだらん輩をば速に罰して、以て天下に天倫の正しきを待つ。是士に文武之徳知不備ばあるべからず。されば形には劒戟弓馬の用をたらしめ、内には君臣朋友父子兄弟夫婦の道をつとめて、文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其教にしたがひ其本末をしるにたれり。こゝにをいて士の道たつて、衣食居をつくのい、以て心易かるべく、主君の恩、父母の恵、しばらく報ずるにたりぬべし。此つとめあらざらんには、父母のめぐみを盗、主君の禄を貪て、一生の間唯盗賊の命を全くするに同じ。甚以て嘆息するにたへたり。
現代語訳
人の教えに従ったり、その場の気持ちに任せたりすることは、たとえばしばらくはそのことをしても、本物にはなりにくい。いま述べたところに深く志を立てて、自分で自分の職分を問いただし得たなら、士たる者の職はここに明らかになるはずである。およそ士の職というのは、わが身を顧み、主君を得て奉公の忠を尽くし、朋輩と交わって信を厚くし、ひとりのときを慎んで義をもっぱらとすることにある。そして自分の身には、父子・兄弟・夫婦というやむをえない交わりがある。これもまた天下の万民がそれぞれ持たずにはいられない人倫であるが、農工商はその職業に暇がないので、いつも従ってその道を尽くすことができない。士は農工商の業を差し置いて、この道をもっぱらとし、三民(農工商)の間でかりそめにも人倫を乱す者がいれば速やかに罰し、それによって天下に天倫が正しく行われるのを待つ。だから士には文武の徳と知が備わっていなくてはならない。それゆえ外形としては剣・戟・弓馬の用を足らせ、内には君臣・朋友・父子・兄弟・夫婦の道を勤め、文の道は心に満ち武の備えは外に整って、三民が自然にこれを師とし尊んで、その教えに従い物事の本末を知るに足るようにする。ここにおいて士の道が立ち、衣食住の恩に報いて心安らかでいられ、主君の恩、父母の恵みにも、いくらかは報いることができよう。この勤めがないなら、父母の恵みを盗み、主君の禄を貪って、一生の間ただ盗賊の命を保っているのと同じである。まことに嘆かわしいことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『山鹿語類』士道・知己職分故に先づ身の職分を詳に究理可仕と云也。此わきまへあらざらん輩は、速に三民に入て、或は耕して食ひ、或は工みして世をわたり、或は商買して身を過て可然。是天のとがめ可少。若しゝいて奉公をのぞみ、士たらんことを求めば、奴隷雑人の役をつとめて、所得の禄をすくなくし、主の恩を薄くして、抱関撃柝のつとめやすきつとめをなして身を終ふべし。是則職分也。士として禄を得禄を求むるの輩、身の職分をば聊しらずして、禄を貪らん事は、心に耻る処なくんば不可有也。故に士の本とするは、在知職分とは云へる也。
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『山鹿語類』士道・知己職分師嘗曰。凡天地の間、二気の妙合を以人物の生々を遂ぐ。人は万物の霊にして、万物人に至て尽く。こゝに生々無息の人或は耕して食をいとなみ、或はたくみて器物を作り、或は互に交易利潤せしめて、天下の用をたらしむ。是農工商不得已して相起れり。而して士は不耕してくらひ、不造して用ひ、不売買して利する、その故何事ぞや。我今日此身を顧るに、父祖代々弓馬の家に生れ、朝廷奉公の身たり。彼の不耕不造不賈して士たり。士として其職分なくんば不可有。職分あらずして食用足しめんことは、遊民と可云。一向心を付て我身に付て詳に省りみ考ふべし。
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『山鹿語類』士道・知己職分されば天下の間人間は云に不及、鳥獣のたぐひ、魚虫のいやしき、草木非情なる、何れかいたづらにして天性を全くするや。鳥獣は自飛走して食を求、魚虫は游昆して其食を尋、草木は土に根ざして深からんことをなせり。各唯食を求むる事不暇。一年の間一日一時も飛走游昆を忘るゝ事なし。物皆然り。而して人の上に農工商又如此。若しつとめずして一生を全く可終は、大の賊民といふべし。しかれば何ぞ職業なからんと自省みて、士の職分を究明いたさんには、士の職業初めてあらはるべき也。此思入の立ざる内は、或は人の云にまかせ、或は書册にしるせるまでを以てして、実に腹心に体認せざるを以て、志の立処甚薄し。思の立処甚薄きときは、以前より因循して所久染の悪習内にかくるゝを以て、軽薄にして道志何を以てか長ぜんや。是士の立本第一とすべし。
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『山鹿語類』士道・勵忠孝師嘗曰。大丈夫世に在り、出ては君に仕へ朝廷に交り、入ては父兄につかへ家を斉ふ。故に天下の政事を助け、万民の憂を救ふ。不順の逆臣あるときは、自将として閫外の任をうけ、籌を帷幄の裏に廻して、功を万代の上に立、或は使を奉じて大事を決し、君命をはづかしめず、或は死を致し命を軽くして、百年の寿を一刄の下に棄。是君につかへて忠を励む也。而して父母にをいて力を竭し、色養永慕て、死を致して不顧は、是内にをいて尽す処の孝にあらずや。大丈夫の責め、甚以て重し。此にをいて論ずる時は、常に養気て安静ならしめ、心を存して義理を味へ、是を君父に移して忠孝の実を詳ならしむる、是士の勤也。
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『山鹿語類』士道・志於道師曰。人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出来るべき事也。たとへば京へ行べきと思ふに及んでは、其道をしらざれば不可能行。不知してしいて行ば皆邪路に可入也。士の身を修め、君につかへ、父に孝行し、兄弟夫婦朋友に相交て、其快く相和するごとくに致さんことを知は、其道を尋て其用をしるに在べき也。而して道あらんやと志出来は、我より先だつて志あつて能く行ひ得たらん人を求め、是に案内を頼んで、その引導に任せつべし。其師たる人の行跡所違あるか、言は似て其事物に応ずる処不明には、速に去て勿従。邪師の教に久しくそまるときは、不覚其人に荷担あつて、誠の道に弥とをざかるべし。
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『講孟余話』盡心上 第三十三章此の二章を熟読すれば、平士の心得は知るべきのみ。蓋し農は耕し、工は家宅器皿を製し、商は有無を交易す、各々其の職ありて国に益あり。士の仕ふる者、家老は家老の職あり、奉行は奉行の職あり、番頭は番頭の職あり、物頭は物頭の職あり、治民の職あり、理財の職あり、亦皆各々事とする所あり。独り平士は上にしては未だ仕ふるの職あらず、下にしては又農工商の職あることなし、頗る素餐に似たり。然れども大いに然らず。其の身は仁に居り、其の行ひは義に由り、其の君之を用ゐれば、固より其の国をして安富尊栄ならしめ、又其の君用ゐずと云へども、其の子弟是れに従遊すれば、子は孝子となり、弟は悌弟と成り、人の交はりは忠信となるなり。故に平士の職は一身の修治を本とし、一世の風俗を以て己が任となすべし。然らば其の素餐せざるの功、豈に農工商の比すべきならんや。乃ち公卿大夫と云へども、亦是れに外なること能はず。武教小学の序に、「大農・大工・大商、天下の三宝と為す。士は農工商の業なくして、三民の長たる所以の者は、他なし、能く身を修め心を正しうして、国を治め天下を平らかにすればなり」と云へり。此の二章と吻合す。又上の第九章独善の義と合せ考ふべし。
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